500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第57回:眼球


短さは蝶だ。短さは未来だ。

よく晴れた木曜日。
目を覚ますと目からレイザー・ビームが出ていた。

これじゃ会社に行けないので、休暇の電話を入れた。

そしてぼくはベットに腰掛ける。

愛猫ドミソは壁に光る二つの点を追いかけ、飛び跳ねている。
ぼくは視線を動かしてはドミソをからかう。

こんな休みはひさしぶりだ。



あの巨人族の目はぎらぎらと恐ろしげだけれど、実は何も見えていないのだそうです。
義眼ですって。



 人間があんまり仕様のないものばかり見るので彼らは呆れて皮膚を押し退けころころころころぞろりぞろりと何処か遠くへ行ってしまったのだそうな。

 窪んだ瞼をそっと撫でた。



 安心しろ

 ぼんやりとした暗闇。瞼越しに熱を感じる。40度の適温に保たれた温水だ。
 うっすらと開けていた瞼の間から、刺激。慌てて目を固く瞑る。
 シャンプーが入ってしまった。
 あんな映画、見るんじゃなかったと思っても、もう遅い。

 脳裏に先程見たホラー映画が甦る。
 女優がシャワーを浴びている最中に、侵入する血塗れの殺人鬼……

 あぁ。

 視線を感じる。背後に。映画と同じように、殺人鬼が扉を開ける。
 そして鋭利な刃物を振りかぶって、いつ振り下ろそうか迷っている。

 恐怖。

 掻き洗う手を止め、意を決して、振り返る。

 誰もいない。曇りガラスの扉が今のテレビの光を受けてちかりちかりと明滅していた。
 鼻で溜息を吐いて、正面へ向き返る。

 そして其処に浮かぶ二つの眼球。
 驚愕の悲鳴に返事は絶無。
 ただのがんきゅうのようだ。


 安心しろ



 全ての球体は何らかの目玉である、というのを誰かの本で読んだことがある。
 なるほど、あの人がくれたこの薄青いビー玉は、確かにこうすると広い空の雲を残らず映してくれて、今はもういない、あの人の目玉と思うといいのかもしれない。
 この丸さと小さな重みが好きで、よく組んだ両手の中に入れてころころする。遅すぎた抱擁、と言っていいのなら、あの人が見たがっていたオーロラを見せに、連れて行ってあげたい。



朝、ジョギングの帰りにふと空を見上げたら、煙が上がる周りに小さな球体がひしめくように沢山ふわふわと浮かんでいるのが見えた。
何なのっ!? ってびっくりすると同時に、私の目玉は飛び出して、高く空まで舞い上がると、煙のところへ一直線。見下ろすと、なんとまぁ、三丁目の小池さんちが火事になっているじゃあありませんか。……大丈夫かしら。
消防車が火を消して、やっと一安心すると、私は目玉を呼び戻す。って、あらやだ、白目が煤けて黒くなっちゃったじゃない。



二日酔いの朝。

恨めしいくらいに太陽がさんさんとしてやがる。そんなもんで、小学校のとき「手のひらを太陽に透かしてみるよりも太陽に向かって目をつむった方が血潮を感じる」ってな事を音楽の授業で言ったら、その日の間、クラスの人気者でいられた事をふと思い出した。みんな、すごいすごいって。先生もずいぶん感心してた。でもあんまり皆がはしゃぐから「目をつむってもまぶしく感じるなら人間の体なんて欠陥品だ」なんて続きがあったことは言えなかった。

今はただ、陽の光が目ん玉の奥にガンガン響く。



 太古より、かれらは年に数度ある謝恩祭を何より心待ちにしている。その夜すべての脳はいつもより深い夢に包まれて、神経の網がはずれ、かれらはにぎやかに出かけていく。ジャズピアニストは「夜は千の目をもつ」という歌を世に残したが、それは撹拌された夢のわき道で偶然その一景を嗅ぎとったに違いなかった。
 謝恩祭の日、かれらは同胞の過労死裁判を傍聴し、新しいオープンカフェでブルーベリーアイスをつまみ、大学で人種問題の討論会に参加し、エステサロンで乾燥肌をうるおす。人気のジムでは筋力を鍛えたり、プールでたっぷり遊泳したり。バーではビールなどの炭酸類は売れず、客はそろってソムリエの真似ごとをする。やがていつもの相棒と離れ、気の合う恋人を探しふたりきりでグラスをやさしく傾ける。明け方になるとそわそわしはじめ、内側に焼きつけた目醒めの時刻を互いに思い出し、再会の願いを抱き帰途につく。
 あのときピアニストは粗悪な粉末のせいで迂闊にも夢のかごから転がり出てしまったのだ。漆黒の眼窩をかばいつつ動物習性のようにピアノに座り、十本の長い指で美しい楽曲を奏でた。いわく口ずさんだ詩は、運命の出逢いは夜の目がみちびく——と。



 ハンカチもティッシュも、持ってない。
 だらしないけど、中学生なんてそんなもんなんだ。
「泣くな」
 右手の親指で、ぐしょぐしょの左目をぬぐってやった。
 眼球の手触りが生々しくて、ああこいつ、生き物なんだなと思った。
 なあ、普通に生き物でいるのって、ときどきものすごく大変だよな。
 お前は明日も生きてるのかな。たまに死んじゃう奴がいるから、こわいよ。
 両目をぬぐう。両手でぬぐう。
 わかるよ、お前、生き物だな。



声を聴いたと思って目覚めるとそれは錯覚だったが、おまえの眼がひさびさに開いて俺を見ていた。

おまえの頭の右と左に手を突いて真上から見下ろす。目と目を合わせる。止めようとしなければ涙はすぐに出る。揺れる視界の中をおまえの眼に向かって落ちてゆく俺の涙を見送る。おまえは受け止める。零すまいとして眼を開けたままでいるがおまえの涙も滲んでくるので眼尻から溢れるところをおまえのかわりに指ですくって俺の眼に返す。

結局、おまえが動かせるようになったのは眼だけで、快方といえば不自由だった瞬きがスムーズになったくらい。俺達は瞬きで示す符牒を習ってそれなりの会話を交わせるようになったが、そもそも眼と眼で通じ合うことの補助にすぎなかった。眼だけがおまえの心の窓だったが、驚くほどそれは雄弁で、俺も次第に無表情になって眼だけでものを言うようになった。
俺は鏡だった。俺に見えるおまえの眼差しを映し返して、伝わっていることを伝えた。赤ん坊が、母親との鸚鵡返しの遣り取りによって母語の音韻を習得してゆくように、おまえは俺の眼差しを見て、自分はなにを言い得ているかを知る。今初めて出会ったとしてもきっと、眼を見れば、俺はおまえを好きになる。

音のない雪の夜、病室には四個の眼球だけが浮かんでいる。それ以外は無にひとしく。



——あら、目元の涼しい良い男。
 春色に浮かれ、つい引き受けたのが運の尽き。
 触れてみれば、これがなかなか厳い。小さな手に余るのを、ようよう脇へ横たえた。そののちは手技に抜かりなく、我ながら天晴れな出来となったが、どうしたことか、背でも判る、ひたと据えられたまなざしが、どこまでもついてくるのだ。
 おかげで食事も喉を通らず、朋輩には、
「お初でもあるまいに。普段の豪胆ぶりはどうしたの」
 と、嗤われる始末。
 疲れ果て、宵のうちから床へ入りはしたものの、じりじり炙られる心地がしてならぬ。朧の月は西へ、天地の静まる頃になっても、辺りが何やら騒々しい。思い余って、花冷えの夜気に窓を開けば、ざっと打ち寄す薄紅の波に、ぷかりと浮かぶ白玉が二つ。
——そうだ、目は口ほどに物を言うのだった。
 軽々しく手を出した報いか、薄情けの隙へつけ入り、今生へ未練たらたら、後を追って来たらしい。
 この上、魅入られてはなるまい。萎えかかる身を励まし、小壷の塩を一撒き二撒き。不信心者の常、誰と定めず手を合わせる。去れ去れ去れ、と三度。
——金輪際、目玉の摘出が回ってきませぬよう。 



 目玉のおやじ。まぶたの母。これらの言葉からわかるのは、男が女に守られているということである。女子供を守るのは男の役割だ、などと言う輩がときどきいるようだけれど、勘違いも甚だしい。目玉のおふくろ、まぶたの父ではありえないのだ。僕はあなたに守られている。そう囁けばあなたは微笑む。穢れたものを目にしたことがないせいか、とても清らかな笑みだ。どんなふうに笑っている? あなたに問われ、冬眠から覚め穴を出てみたら目の前に鳥の巣があったときの蛇みたいな、僕は答える。蛇に似てるってこと? 違う、幸せそうって意味。あなたは蛇を見たことがないし、僕だって蛇がどんなふうに笑うかなんて知らない。しかしそんなことは問題でない。僕は蛇であるあなたに食べられる卵でありたい、僕はあなたの一部になりたい。あなたが巣であるなら僕は鳥だ、世界中を飛び回ってあなたが知りたいことをすべて伝えよう。僕はあなたの目だ、あなたのまぶたに抱かれて眠る。



 彼の一方の眼玉は野球のボールだった。幼い頃、プロの選手が打ったファウルボールが当たって、眼球を押し出し、代わりに神経と癒着してしまったのだ。何も疑わず彼は野球選手になった。野球の眼玉は他には何も見えないが、野球のボールは止まって見えた。彼は右打者にもかかわらず十年連続で首位打者を獲り、四割を七度記録して、打撃の神と呼ばれた。
 ボールの眼玉が取り外せるのを知った時、思わず投げ捨てたのは、自分でも本気で信じていなかったのに、それがやっぱり硬球だったからだ。飼犬が歓び勇んで拾ってくると、彼は自分の心臓を危険にさらすこの遊びに夢中になった。
 試合のない日は犬を連れて、人気のない場所へ向った。眼玉を外すとノーコンになってしまったが、犬は歓んで追いかけ必ずくわえて戻ってきた。
 ある日のこと。彼の投げたボールがたまたま犬の正面に飛んで、直に口で受けた犬が呑み込んでしまった。彼は試合に出られない。日常生活は片目でも不自由しないが、試合には眼球が必要だった。
 数日後、ボールはかろうじて排泄されたが彼の視力はそこに留まり、元のように眼窩にはめても何も見えるものはない。彼は野球する眼を失った。でも後悔はない。
 今では犬の肛門から世界が見える。



 彼はかすかに微笑みながら手の中の瓶を撫でていた。
「あの光景が私の中で薄れていく事に耐えられなかったのです」
 瓶は手垢で汚れ、中の液体は半分以上揮発し薄茶色に濁っている。
「匙を両瞼に当ててぐっと押しこんでやったら、くるくるぽんと落ちましたよ」
 そんなに上手くいくものかと疑問に思ったが聞き返すのもためらわれた。
「もう何十年も経ちましたがあの光景は鮮やかに焼きついているのです」
 彼の口元が喜悦に緩み、瓶を愛しげになぞる指先は微かに震えている。

 彼は最期まで語る事を拒み、彼が何を見たのか知る人は誰もいない。
 残された瓶を引き取ろうと申し出る者もなくそのうち行方が知れなくなった。



 雨がぼとり、ぼとりと降ってきた。
 女の子はベンチに腰掛けたまま、丘の上の公園から望める町並みに目を落としている。
 僕は公園の駐輪場の壁に立てかけておいた自転車に乗り、粒が大きくなり始めた雨の中を、あらかじめ親父のハゲ頭に描いておいた『父』と『黒髪ちゃん』とのアイアイ傘を頭上に掲げ、急な坂道を危なっかしい傘差しハンドリングで下って行く。「仲のいい友達で良かったのに、今更、そんな風には見えないよ」
 僕の呟きは雨粒が路面を叩く音に消え。
 うん? 待て。
 気づいた。
 これは雨粒ではなく、幾百億もの眼球だ!
 気づいた瞬間、前輪を眼球に乗り上げてしまい自転車ごと路面に叩きつけられた。さらに、その衝撃で自分自身の眼球をも落としてしまう。
 慌てて手探りで幾つかの眼球を掴むが、それが正しいものか、持って生まれた眼球儀はさっき失ったばかり。
 さんざん迷い、仕方ない、僕は思いきって自分のキャン玉を股間からちぎり取り、空いた眼窩に放り込み、晴々と雨空を仰ぎ、「これは、良い睾眼だぞ。」
 口をすぼめて、嘯いた。



 かつて製粉業で栄えたこの小さな町には、「猫祭り」という五年に一度しか行われない祭りがある。大人も子供も猫に扮装して町中を練り歩き、大通りには巨大な猫の山車が出て、広場やレストランでは猫の芝居が上演される。町役場の屋根からばらまかれるネズミ型のパンを食べた者は五年間病気にならないそうだ。祭りは一週間続き、この期間は町の人口の十倍以上の人が遠くからやってくる。
 猫祭りの本当の見所は夜にある。街灯がともる通りのあちらこちらでギラリと光る目がいくつも浮かび上がる。町の人たちの扮装は顔をペイントして手製の衣装を着るだけではない。眼球まで猫のものを嵌めているのだ。彼らはスプーンをまぶたの内側に差し込んでぐるんと目玉を取り出し、ぽっかり空いた穴に猫の目玉を押し込む。簡単そうにするが、もちろんよそ者は真似できない。
 祭りの最中、決まってネズミ団という盗賊が現れる。彼らは、家に置きっぱなしにされている町人たちの眼球を盗み出す。他の物はいっさい手をつけない。祭りが終わった翌朝、町役場に袋いっぱいの眼球が差出人不明で届けられる。ネズミ団の目的は誰にも分からないが、町の人たちは五年ごとに違う眼球を嵌めて生活することになる。



 ふらりと入った骨董屋で私の目に止まったものは、ビー玉だった。青い、捻くれた三日月のような柄の入った透明な玉。小皿に入った、傷ひとつないビー玉は真新しく、わざわざこんな店に置いてある意味が分からなかった。それも、ひとつだけ。もしかして、何か謂れのあるものなのだろうか。それにしては、気楽にごろんと置かれている。値札もない。売り物ではないのかもしれない。
 つまみ上げてみると、ふつうのビー玉より少し大きめのそれは、ずしっと重量が感じられた。店の暗めの明かりを屈折させ、机の上に光の影を落している。
「それ、眼球なんですよ」
 声に振り返ると、民族衣装めいた服を着たおばあさんがいた。店主なのだろう。
「眼球、ですか」
「ええ。眼球は色々なものを見せてくれます。前を通り過ぎてゆくものたちを映して、色を、感情を、動きを、見せてくれる。その中には物語が入っているんです」
 変な話だと思いながら、ビー玉を覗き込む。かちり、と目が合った。何と? どくん、と心臓が震える。
「アタシの眼球なんですよ」
 遠くで声がしたが、私にはもう届かなかった。私の前には青い瞳が、澄んだガラス板の向こうから、じっと私に見入っていた。



 宇宙の遠くの遠くの遠くにある惑星、眼球。地表の大半は水に覆われていて、その組成は私たちのこの地球によく似ています。
 眼球は愛という衛星を持ち、その引力によって涙が満ち引きしています。



 澄んだ黒い夜空に四角い月が浮かび、瞬くかのように色彩を変えていた。せせら笑っているのか。
 私は、いつからかこの白い海にいる。海といっても深さは胸元までしかなく、白いといっても底が白く発光しているだけで、水自体は透明。見渡す限り陸地などなく、水が塩っぱいので海だと理解しているだけだ。揺らぐ水面で四角い月が笑う。あたりは静寂が支配している。
 空は時折、左右から迫るドーム状の天蓋で閉じられる。一瞬の出来事ではあるが。その時だけ月は笑うのを止める。
 私はずっと先にある岩礁を目指している。そこだけ海水が琥珀色になり、さらに奥が黒く盛り上がっているのだ。歩いていると見え始めた。おそらく島だろう。そこへ向かって右へ左へと海水をかき分ける。赤い地割れはまたぐように泳いで越える。
 突如、ぐるんと四角い月が沈んだ。代わりに巨大な結晶が空から降りて来る。やがて大きな雫が落ちてきて洪水となり、天蓋が閉じるのだ。前に食らっているから分かる。
 来た、巨大な雫。
 透き通った音とともに王冠が立ち、雄々しく津波が迫った。私はまた、世界の端へと流される。
 目に海水が入ったが、愛しい人の香りがするので痛くはない。



おまえの死と引き換えに訪れたこの平和な朝が、私にはとてつもなく残酷なものに思えてくる。
地の底から伸び上がりのしかかりする乳白色の空は、今日も何も言わない。
表わすのは拒絶だけだ。
そんな中に、ぽっかりとおまえの瞳が浮かび上がってくる。
すべてを見抜き、すべてを受容し、すべてを物語ったおまえの緑色の瞳。
それももはや、土の中の冷たいガラス玉でしかない。
あらゆる精神性と機能から完全に解き放たれた今、その聖なる物体に私は、心からのレクイエムを捧げよう。
たとえ意味のない行為となろうと、私自身の魂の安楽のため、おまえよそれを許したまえ。
できることなら、永久の輝きを湛えたまろき命の象徴を、老いゆく私の掌に。



 わたしは日がな一日縁側に座り、ぼんやり庭を眺めている。わたしの目の中には小さなエビが棲んでいる。エビは藻を食べて生きている。エビの排泄物はバクテリアが分解する。その栄養分と光で、藻は育つ。
 だからわたしは日がな一日縁側に座り、目の中に光を取り入れる。そして夜な夜な、青白い発光バクテリアに照らされた小エビの影を、女主人の白い肌に映すのだ。



 オレのハードディスクにはいつのまにかたくさんの日記が入っている。オレの日記じゃないし、誰かの日記でもない。どこかにいたはずの人間の書かれたはずの日記がどこにもつながれていないはずのハードディスクに山ほど。
 モンゴルが近付いた日記、猫じゃないよ日記、座席が飛び出したまま日記、あれ日記、これ日記、ふヴ日記、遊そぼう日記、五十グラム日記、ジャニーズ日記、まっちにすと日記、魏蓮伍日紀、母の語源を知り尽くす日記。
 モリモリと積み重なったはずの日記だけど、ハードディスクの全体を支配してはいない。たった三分ほど。残りはなにかな。
 他者の視線を規定する物体。離れていても使える物体。洗えば元通りになる物体。身に付けると五十秒間無敵になる物体(水に流せばどこかの海岸に椰子の実に擬態してたどり着く。でもここから海は遠いから三途の川原でゆるして)。
 ハードディスクを投げてみることにした。バリッ、プラスチックケースのヒビから漏れ出してくるものが容量を食っていたそいつ。こんなにたくさん。床を埋め尽くして、窓から注ぎ込む月の光を隠して、電球落として。
 オレ、二十七枚ほど着込んでいるのに照れるなあ。



 カウンタ席とはいえ、誤ってカップルの隣に座ってしまった。回転してる鮨屋へデートに来る野暮がいるとは。迂闊。
「イクラってダメなんだ。わたし」
「え〜、魚卵好きだって言ったじゃん」
 どうかしている。デート中に「魚卵」と口走る野暮が気になり、わたしは耳をそばだてた。
「タラコも数の子もキャビアも大好きだけど、イクラだけはダメなんだ」
 野暮が連れ歩くだけあって、自分をネタの値段に見立ててるような、はしたない女である。ちなみにわたしが一番好きなのはトビッコだ。あのプチプチがたまらない。安いし。
「なんか、じっと見られてるみたいで。ダメなんだ」
 目の前を流れるイクラの軍艦が、言われてみると、こちらを見つめているように感じるから不思議だ。橙色の濃い部分が瞳孔か?
「ホントは鮭か鱒になるハズだったんだよね」
「え〜、鮭ってイクラが大きくなったのなの?」
「知らなかった?」
「うん。だ・か・ら、キャビアの軍艦、いい?」
「なんだ。計算か」
 小さく呟いてから、通り過ぎたイクラの皿に手を伸ばした。見つめられるぐらいで、せっかくのイクラが食えなくなるなんて阿呆らしい。
 いただきま〜す。



 恋人を疑うことを知ったその日を境に、彼女の片目は膨らみ始めた。しかし彼女には自分の身を気に掛ける余裕が無かった。ただ恋人に生まれた違和感だけを見ていた。
 しばらくの間、恋人の違和感を探す日々が続いた。服がおしゃれになった、携帯電話を気にかける時間が多くなった、手の表情がいつもと違う。疑いが一つ増えるごとに、彼女の片目は一回り大きくなっていった。しかし彼女は病院に行く間も惜しんで恋人を見ていた。恋人に知られるのが嫌で、片目と感情を間に合わせの眼帯で隠した。
 そして今日、彼女は見知らぬピアスの片割れを手に恋人の眼前に立ち尽くすことになった。
「いや、これは」
 そこで恋人は言葉を切り、彼女を見ようとした。しかし眼帯からはみ出した片目を直視できずに、俯くことしかできなかった。そんな恋人の反応を見て、彼女は疑問の答えを悟った。
「やっぱり、そうだよ、ね。ずっと、ずっと見てたから、知ってるよ」
 そう言って彼女は眼帯を取って泣いた。隠し続けていたものが一息に溢れ出した。頬を伝い零れていく涙と。



 反抗だったのさと、その盲目の詩人は云う。
「いや、むしろ信仰か。かつて出会った、ある婦人への。反ビイドロティックのメビウスリング嬢。云わばそう、彼女の美しさたるや、おわかりか、透明にあらず、鮮明であったと」
 彼女のいかに崇高であるかを、彼は切々と語る。
「煙草を勧めたんだ。すると煙が肺を満たして、ねじった目許からすうっと抜けて昇っていく。よほど染みたのだろう、不覚の涙を彼女は浮かべた。察せられよ、それすら、鮮明の輪を逸れぬ事を」
「私は恥ずかしくなった。見たまえ、この虚像の一切を。皮肉にまみれた塊を。誰も彼女ほどに正直にはなれぬ」
 おもむろに彼は、ポケットから二つ、何かを取り出してみせた。それは彼が云うところのビイドロティックであった。
「彼女への信仰の証さ。あれほどの美に触れてしまったらば、もはや己に残るわずかな明りを固守したところで、たかが知れている」
 語り終え、すこしばかり疲れた顔を見せる彼に、煙草を勧めてみた。彼は笑って、素直に受け取ると、うやうやしく火を点けた。静かにすうっと吐き出した煙が、件の輪を描いた事を、彼は知る由もない。
 涙が止まらなかった。



 最近、自分の眼球を装飾することが流行っている。名付けてアイキュア。中心にある瞳孔の位置はどうにもならないので、その周囲に小さな刷毛でラメとかを付着させることが基本。慣れてくると下瞼から極小の、涙を象ったアクセサリをぶら下げたりもするらしい。おしゃれに眼がないあたしもさっそく流行に乗ってそれらのアイキュアを試してみたけど、結局それらにはあんまりバリエーションもないし、最初はあったはずのインパクトももう全然ない。なんとかみんなより先に進めないかと頭をひねってあたしは、ふと、ある案に至った。熱に浮かされたようにあたしは、ピアス穴を開ける器械を探し出した。空中から少しずつ、眼球に近付ける。まだ動かしてないのに涙が流れる。手が震える。汗で取り落としそうになる。口が半開きになる。いつの間にか失禁している。けど、やめない。器械を眼球に添えて、指を。……その最後のひとつの動きだけ、嘘のように、軽く。
 もうひとつの眼球には、案外楽にできた。
 結局、引かれただけだった。なんでそんなことしたのと何度も訊かれた。あたしは答える。だって、あたしはおしゃれに眼がないから。おしゃれのためなら、本当に眼がなくなったって、かまわなかったから。



 いま、地球人は選択を迫られていた。
 UFO研究家が感涙にむせんで、はや三年になろうか。記念日となったあの日、宇宙の彼方から飛来してきたUFOは、円盤型でも葉巻型でもなかった。巨大な白玉の真ん中に、エメラルドグリーンの瞳が輝く眼球だったのだ。
 地球人たちが戸惑いつつ見守るなか、はたして眼球が泣いた。水色の涙が数粒、陽光を透かしながら落下してきた。
 地上に到達すると、涙たちには小さな手足が生えた。つぶらな目も開いた。
 かわいらしい外見をした彼らは、外宇宙からやってきた知的生命体であったのだ。
 地球人は温厚な彼らを歓迎し、抱擁をもってむかえた。ある婦人などは、宇宙人の愛らしさに、五分以上も抱きしめていたほどだ。
 地球を気にいった宇宙人たちが、お願いをしてきた。故郷の同胞にも、地球を紹介したいので、遊びにくるよう誘ってもよいか、と。
 地球人たちは、こころよく同意した。
 そして、三年後にやってきたUFOは、円盤型や葉巻型ではなく、眼球ですらもなかった。
 巨大なヒップだったのだ。
 いま、新たな宇宙人が、ブリブリと降りてくる。



 思いは見えない。
 だけどきょうも涙は流れる。



 風景は果てしなく続いているようでいて、地平線までがこの世界のすべて。この世界はいつも限られていて、外の世界よりもずっとちっぽけだ。それでも歩き出せば地平線は徐々に競り上がり、かつ遠ざかり、いつの間にかこの世界は外の世界と同じ大きさになっている。雲がたなびけばたなびくほど大気の透明度は上昇し、どんどん遠い場所に焦点が合うようになっていく。やがて外の世界よりも大きくなった球体の内部は、膨張するほどにより多くの光を閉じ込め、まばゆさを増していく。いいお天気。そしてぼくはこの世界のすべてを所有しているのに、まだそのほんの一部しか踏破していない。
 そろそろお昼にしよう。いや、まだ10時5分だ。



都合により作品が削除されました。



——釣りですか。ならば隣で私も釣らせてもらってよろしいですかな。……いや、失敬。
綺麗な目だ……
ああ、すいません。自分、目医者をやっておりましてね、人の目玉には、少々関心があるのですよ。すみません。私ばかり喋ってしまって。でも、あなたも相当話好きの人だな。
でも、もう厳密には、目医者じゃないんですよ。『今は』。数日前に辞めたんです。ええ。
なぜかって? あ、ええ、私、目に対して、非常に興味があるんですよ。何か、目玉、って、素敵じゃありません? 中でも好きなのは、あの目の裏の視神経の束なんですよ。あのもじゃもじゃした奴。
例えばあれが視神経の束で、ぴょこっと目玉親父みたいになって、がさごそがさごそそこらを歩き回ったら、と考えるともう止まらないんですよ。それで何時間も夢想に入ってしまうんです。
——ふう。すみませんね。あなたはいい人だ。
ところでよく釣れますね。えさは何を?
——はて。ミミズとも違うような? もじゃもじゃ……