500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第59回:緑の傘


短さは蝶だ。短さは未来だ。

前夜、父に呼び出された。
「いいか。父親になるっていうのは、『緑の傘』になることなんだ。自分の傘を思い出してみろ。夏冬問わず雨から、ただただ黙って守ってくれただろ。でもな、守ると言っても、傘が守ってくれるのは、雨の日だけだ。」
 父はタバコに火を点ける。
「父親って言うのは、子供が辛いときだけ傘となって身を守ってあげればいいんだ。俺は、そう思う。」
「緑じゃなくてもいいじゃん。」



「やめてくれよ。ぬれちまうよ」
雨が降っている。たいした雨じゃあない。
「酸性ウだったらどうするんだよ。俺、溶けちゃうよ」
カサが僕を見ている。同情を売る気だ。
「きっと、すごくツメタイんだ。風邪ひいちゃう・・・・・・」
僕だって濡れるのはいやだ。
持ち上げようとするけど、動かない。排水用の溝に爪を立てている。
「アマがえるのくせに」
ビクともしない。だめだこいつ。
雨はまだ上がらない。家に帰ったらシャンプーをリンスしよう。あぁん。
「ぶんぶん振るなよ。怖いんだから」
青い空の下に出てひっぱると、今度はおとなしくカサになった。
「こういうのもいいね」聞こえないようにつぶやいて、青いカサをぶんぶん振った。
「抜ける抜ける」と、毛根が騒ぎ出した。あぁん。



 傘をなくしちゃったので握るところの先ににっこりカエルくんの頭が付いた緑の傘を買ってもらった。
 雨が降ったのでカエルくんの傘をさしてお出かけした。
 風が吹いたのでカエルくんの傘が飛ばされた。
 地面に当たってカエルくんが傘から取れちゃった。
 傘から取れたカエルくん雨に降られてにっこりした。



何の前触れも無く落ちてきた青葉は、サトウさんが落した物だった。
サトウさんというのは、義兄の姉のお隣さんの古い知人であり、私とも遠縁に当たるという人である。なんだかよく分からない道楽のような仕事をしていて、私とは、年に一度しか会えない。
毎年、この時期になるとサトウさんは此処を訪れ、トラックの荷台いっぱいの桜の花びらを、今では青葉の茂る、桜だった木の根元に散布していく。
染井吉野、兼六園菊、八重紅枝垂、普賢象。あと、私の知らない沢山。

来年もまた、柔らかな光に映える薄紅達が降り注ぐように、と祈りを籠めながらサトウさんは桜の花びらを運ぶのだそうだ。
荷台が空になる頃にはもう、私の身体はすっかり、桜の花びらと同化してしまっている。
「じゃあ、また来年に」
「また、来年、ね」
額の前で、ポーズを決めてサトウさんは帰っていく。私は、花弁に埋もれた掌で、姿が見えなくなるまでお見送りをする。

エンジンの音が聞こえなくなると、私にはもう眠ることしか出来ない。
サトウさんがばら撒いて行った花弁は、斑に透ける白い光の下で、まるで百年のように長い時間をかけて緩やかに腐敗し、土へと還っていく。



 雨が降り続く憂鬱の時期には真面目をカタカナにしてしまう恐ろしいまじないがあるみたいだぜ。シンリョクのキセツにアラワレル、ソラ、ブンガクがカタラレルヨ。サミダレ、ツユ、アラシ、タイフウ、アキサメ、ミゾレ、コトバはまるでボーヨミのヨーニ、クルクルマワセ ツカッタ ニオイ ニ マミレタ パラソル を



 傘が回っている。くるりくるり、ゆっくりと。
 やや大きめの傘だ。淀んだ深海のような濃い緑色をしている。
 傘の上では白、黄、紫、だいだい、黒、青、灰の色の鼠が走っている。傘の回転に速度を合わせて、同じ方向に向かってせわしなく四本の小さな足を動かしている。
 その上には尻尾を荒縄でしばられた八匹の虎猫ぶら下がっている。虎猫は鼠に向かって前足を伸ばし、銀色の鋭い爪を出している。しかし、後少し届かない。その爪が空を切る度、ぶらんぶらんと八匹の虎猫は揺れる。
 傘の下には母と妹がいる。ふたりは下着姿でディープキスをしている。喉が焼け切れるほど何度も何度もお互いの舌を交換している。妹の右目はまち針で留められたように大きく開かれている。
 ぼくはマンションのベランダから双眼鏡を使ってその姿を覗いている。

 傘が回っている。くるくるくる。
 若干その速度は増したようだ。



 貴之が謝りつづけても、前を歩く愛美はふり向いてくれなかった。
 パステル調のグリーンで、柄では愛嬌あるカエルがウインクしている。そんなお子様な傘を見て、つい吹き出したのが原因だった。
 貴之はため息をつき、傘の柄でこめかみをかいた。予報によると、午後は晴れだ。平凡なビニール傘は、朝しか出番がなかった。
 また謝ろうとして、言葉を飲み込んだ。愛美の頭上で、看板が塗られているのに気がついたから──だけではない。大型缶が倒れ、塗料が流れ落ちてきたためだ。
 すばやい動きで、愛美に傘を差した。間一髪。ビニール生地のうえで、塗料が跳ねる。
 直後、頭にガンときた。転がる缶を視界に収めながら、貴之の意識は遠くなっていった。
 目が覚めたのは、病院のベッドでだった。横にいた愛美が、胸をなで下ろしていた。
「よかった……」
 貴之は愛美と病院をでた。予報ははずれて、雨が降っていた。ふたり同時に傘を開く。ありがたいことに、塗料に染まったビニール製も、いっしょに救急車にのせられていたのだ。
 おそろいの色をした傘を差し、貴之は愛美と肩を並べて、帰途へとつくのだった。



 アタシの誕生花ニオイカントウからは過保護な母親を連想します。大きな葉は日光を遮り、周りの草を枯らしてしまうそうです。
 仕事もしない家事もしない彼を横目に晩ご飯を作る午前三時半。客から貰ったアクセサリー類は煩わしいので外します。



「勘違い」

さぁ、集まりましょう
砂漠へ、これを持って
そうです、草の色の傘
さぁ、差しましょう
宇宙から見たときに見た誰かが
きれいな星だと勘違いするように

嘘かどうかはどうでもいいのです
見た目の問題です

ほら、こんなに美しい星です
だれか、星を交換しませんか?



 青空なんて、大昔の映像やCGでしか見たことがない。空を覆うのは、紫色と茶色の混じった、毒々しい雲だけ。
 かつて人類が環境破壊の限りを尽くしたため、今では地球をこの色の雲が包み、人々は比較的毒性の低い場所以外では暮らせなくなった。
 気象庁が降雨を認識すると、街は巨大な緑色の傘に覆われる。薄く膜状に張り巡らされたビームが、放射性物質や一酸化炭素、亜酸化窒素などから街を護るのだ。見上げると、空は雲の色とビームの緑色が混じり合い、なんとも言えない気色悪い色になる。
 あいつは常々、『青空が見たい』と言っていた。門番が街の外壁を厳しく見張っているのに。僕らは内心、あいつを莫迦にしていた。
 ある日、あいつは消えた。主を失った部屋の壁には、いつもの口癖が書かれていた。
 誰もが忘れかけたころ、あいつからメッセージが届いた。真っ白な分厚い氷に覆われた大地。僕らの知らない、雲ひとつない空。
 残念なのは、そのメッセージがデジタルで送付されていたことだった。画像はJPG形式で保存されていた。



 青い世界に住む人は、なにからなにまで青ずくめ。なにより青が大好きで、なにより黄色が大嫌い。だから黄色い国との国境に、青い大きな壁を作った。そんな彼らがあるとき見たのは、ひとりの少女。青い服に青い日傘で、ゆらゆらと壁の上を歩いている。彼らはその「青」に拍手喝采した。

 くるり。

 ところが少女が向きを変えると、少女の服は黄色くなった。彼女の服は半分が青で半分が黄色だったのだ。怒った青い人々は青い石を少女にむかって投げつけた。黄色い人々も同じようにしているのだろう、青い壁を越えて黄色い石も飛んできた。

 くるくるくるくる。

 少女は傘を回す。青と黄色に塗られた傘は、青い石も黄色い石もはじき飛ばし、回りながら緑色に輝いた。彼女は走った。青い人も黄色い人も、わあわあ叫びながらどこまでも緑のあとを追いかけた。



たくさんの旅人が、そこで足をとめました。坂道の途中に一本の木があり、豊かに葉をつけた枝が四方に伸びています。幹の横には、古びた椅子が二つ並んでいました。
木の向こう側は、なだらかな斜面です。西に傾いていく太陽を、ずっと眺めていることもできます。
ある時は痩せた青年が、ある時は白い髭の老人と美しい娘が、こんもりとしたした木に包まれるようにして休みました。野良犬がまるくなって眠ることもありました。
木は、その場所がとても好きです。そして、人や動物が大好きです。次にやってくるのは誰なのかを、とても楽しみに待っています。
こうして木は、今日も腕をひろげ、何かをまもろうとするかのように、静かに立っているのです。



試験管の底に小さなマリモ。
リモコンを覆う紫のラバーケース。
シヴァ神が飛ぶ姿の細いタペストリー。
全部、啓太が置いていったものだ。
啓太は今月に入って、突然いなくなった。

梅茶漬けをかき込んで、響子は茶碗を置いた。
少し蒸し熱く感じたので、窓を開けた。
空は薄曇で、肌に涼しい空気の感触がした。
響子は冷凍庫から、マカデミアナッツチョコレートの箱を出し、
漆塗りのテーブルの上に置いた。
中から、一粒つまんで、口に入れ、
チョコを舐め溶かしながら、マカデミアナッツを舌で転がした。
テレビ画面には、潰れた部屋が、湿気をもって滑っていた。
(私なんも悪い事してないのになあ)
響子は溜め息をついて、座椅子に背をもたれて、体を伸ばした。
天井からは、カエルの顔がデザインされた緑の傘がぶらさがっている。
この傘を差して一緒に散歩したのは、先月末の事だった。
わざわざ雨の中を散歩して、新宿の高架橋の下ふたりで、
セブンイレブンで買った豚串を齧った。
思い出していると、泣きそうになってしまうので、
響子は溜まっていた洗濯物を片付ける事にした。
洗濯機を回して、座椅子に座り直し、ぼーっと、
窓に垂れたサカサクラゲの風鈴を見た。
「カリッ」
裸になったマカデミアナッツを、奥歯で噛み潰した。

「ピーッ、ピーッ」
洗濯機の終了アラームが鳴った。
響子は立ち上がり、マカデミアナッツチョコレートを一つ、
クワイの描かれた小皿に乗せ、啓太の遺影の前に置いた。
その横には、ヨガ体操をする市松人形が滑稽な格好をしていて、
それを見ると響子はいつも、ニヤニヤしてしまう。
啓太は本当に変なものばかり集める。



「雨、止まないね。先生と一緒に帰る?」
 お昼ごろから降りだした雨につま先をぬらしながら、小学校の校舎の庇の下で膝をかかえ、お母さんが迎えに来るのを待っていた。
「ねえ、傘を持ってないんでしょう?」
 みどり先生はふわりとしたスカートを片手でおさえた。
「先生ね、昔、男の子とこんな風に並んで座りながら、お天気の話だけで何時間も過ごしたことがあるのよ。とても、懐かしい」
 雨の中を一生懸命に急いで来るお母さんの姿が見えた。声をかけようとしたけど、お母さんのびしょ濡れの服は、お仕事用の真っ赤なミニスカートだった。立ち上がって、みどり先生の腰に手をそえた。
「なぁんだ、やっぱり、先生と帰りたいのね」
 差し出された先生の足の甲にキスを、目を背けながらすると、その細い足首をつかみ雨の中へとび出した。先生の身体を振り上げ、さっと、雨空にスカートを広げた。

 傘を差して走り去る息子の背中を、母は慌てて追いかけた。



 これは道に迷ったというところうまい具合に現れた交番を覗くといきなり
「あ、いかんキミ、そんなの持って」
 と言われた。
 たたんだ傘をばさばさ振ると雨粒が散る。
「ミドリちゃんが出る」 
 おまわりさんがワッハハ笑った。
「え、何がミドリちゃん」
 と背後から人が現れ
「ホラその緑の」「あー」「清水くんちは酒屋で」「酒持ってきた」「さすが」「今はコンビニだけど」
「刺身持ってきた」魚屋から乾物漬物おでん文具八百屋主婦教師サラリーマンおねえちゃんが次々と登場し飲んで酔っての大宴会。
 諦めて交番を出ると
「ミドリちゃんの」「緑の」「お気に入り」「かくされ」「死んで」「いじめられ」「傘持つと」「出る」「やられる」「ぼくたち」「わたしたちは」
 てんでばらばら口にしだすや声を揃えて
「ミドリちゃんが嫌いです」
 ワッハッハ。
「キミごと始末するコトとなりました」
 目のどんよりした人間が首をにょろと伸ばしたか伸ばさなかったかとにかくわらわら追って来るので荷を放り林に逃げ雨の下うずくまっていたら捨てたはずの傘を差し隣りに座った女の子が
「えへへー、あいあいがさ」
 あ、かわいい、と思うが傘から流れ落ちる薄赤い雫をどうしたものか、一緒にエヘヘと笑う。



 引き結んだ口は弱々しい。ルージュの色が泣いている。目もとを隠したひさしがさらに深くなったのは顎を引いたからではなく、肩を落としたから。
 彼女は力なく背を向けた。紡ぐ言葉もない。
 雨。ぽつり。
 僕は一人で傘をさす。彼女には、もはや笠のようにしなだれたそれがある。かつてより随分苔むした。
 ふと立ち止る彼女。小さく肩を揺らした。振り返らない。僕も肩を揺らす。
 残っていた胞子が少し肺に入ったから。
 彼女も、そうなのだろうか。
 強くなった雨脚が、僕と彼女をそれぞれ閉じた。
 僕は吸い込んだ胞子を感じながら、彼女との思い出に浸る。浸れば浸るほど、僕は苔むした。やがてぐずぐずと崩れ苔だけになるだろう。
 そこに残った傘を、彼女は拾ってくれるだろうか。



 まったく世界は気の抜けた様。ぼくが退屈していると、色泥棒があらわれた。信号も機能しない、渋滞のひどいスクランブルで、カップルは皆手を離し、めいめいアサッテの方を向いている。犯人を退屈しのぎに追ってみる。実は一瞬、その後姿を認めたので。逃すまい、と眼鏡をくいっと上げ。
 コーヒー香る、オープンカフェを過ぎる。
 デパートを上から下まで。なめらかなリズムが店内に響いてる。
 たどり着いたのは遊園地。歴史も古く、小さな小さな。客足はまばら。平日だからよけいに閑散として、ああ、祝日はもうないんだった。けれども、それでも何か。
 ああそうか。花泥棒。
 園内のそこかしこにあるうちの一輪を、摘みとり、そっと吹く。綿毛がふわふわ。
 いけない、雨か。のっぺらな空から、見えないが、気に入りのミリタリーシャツに染みて。冷たい。傘泥棒はとっくの事だから、屋根の下に逃れた。止むまでこうしてるしかない。
「良かったら、入る?」
 立っていたのは華やかな少女。傘をからりと振るその下で、いつの間に、ぼくの眼鏡を掛けてくすりと微笑む。
「おんなじ色ね」
 盗まれたのは言うまでもない。



 割の悪い仕事だ。
 予感に捕われた彼は、目の前の建物を見上げる。
『M耳鼻科医院』、と書かれた看板がまだあったが、廃業して三年はたっているはずだ。
 依頼人はここにいるはずなのに、人の気配はない。
 悪い予感は最初からあった。依頼人は彼の昔馴染みで、余計なことを知りすぎているのだ。
 空は曇っていたが、そこからは何もわからない。晴れた日がいいと言う人もいれば、雨を望む人もいるのだということを、彼はそのキャリアのなかで学んでいた。けれど、二人が同級生だった昔、彼は依頼人自身からその答を聞いたはずだった。
 鍵がかかっていたら帰ろうと決めたのに、ガラス戸はすんなりと奥へ開いてしまう。
 玄関は薬の匂いがした。
 壁の張り紙の指示に従いスリッパに履き替えた彼は奥へ進み、薄暗い部屋で探していたものを見つける。そして彼は、二倍になった仕事を見事な手際で片付ける。

 再び玄関に戻り、屈んで靴を履いたとき彼は、忌まわしい心持ちに捕われ、ふと顔を上げた。緑の傘。そこに克服すべき恐怖があるかのように、おもむろにそれを手に取った彼は、ガラス戸を抜けて表に立つと、ボタンを押し込み、スプリングを開放した。
 傘はあっけなく開き、そうしてからむしろはじめて、雨が降りだしていたことに気付く。
 やっと思い出す。あいつは雨を望んでいた。
 傘の力は色褪せ、まだしばらくは、彼のキャリアは安泰だろう。



 お散歩には生憎の、俄な雨でありました。
「ごらん、ちょうど良い物がある」
 お父様は筋の浮いた太い腕を伸ばし、波紋の広がる水面から、ぶっつり私共を手折られました。
「ぞうのみみぃ」
 柔らかな縁をひらひら揺らし、嬢ちゃんの小さな足が泥をはねてゆきます。坊ちゃんは茎から滴る雨を舌に受け「苦いや」と顔をしかめます。お二人の艶やかな髪に光る雨粒を手拭いで払いながら「象鼻酒なら頂くが」と、お父様はお笑いになりました。
 なにせ急拵えの雨除けです、私共は幾度もおつむりから逸れてしまいました。お玄関へ着く頃には、お三人はすっかり濡れ鼠の有様で、お母様は目を丸くされました。
「あら大変、葉っぱのお化けが雨に祟られた」
「これでも、蓮に随分助けられたのだよ」
 白い割烹着のお母様は、三和土に投げ捨てられた私共を、前栽の蹲にそっと挿してくださいました。小さな熱い手にきつく握られ傷んだ茎に、澄んだ水が染渡ります。ほっと身を寄せ合った私共の陰へ鮮やかな若緑の小蛙が、心細げに這い寄りました。空はなお暗く、雨足も激しくなってまいります。
「あと、もう一働き」
 私共は互いを励まし、小さな雨の落とし子へ萎れた葉を深く差し掛けたのでありました。



僕は緑いろに染められた傘が好きだ。雨の日はもちろん、晴れの日や曇りでさえも差していたいと思う。
夜空の星をながいこと見上げていると空間の感覚があやふやになり、まるで自分が逆さまにぶら下がったまま星を見おろしているような気持ちになることがあるが、頭上に掲げた緑いろの傘を見あげる僕も、それと異なるところはなかった。
天体の社交性まで見抜く慧眼と、ならんだ靴を乱すことのない良識を備え持つ早熟な物理法則は、僕が緑の海へ呑みこまれるのを止めたりはしない。
人々は落涙を恐れる。しかし重力は涙をこらえる者ほどよろこんで裏切るのだ。時計の正確さが、自然の偶然が光速を乗りこえて作った平行時間軸に否定されるように。
僕はりんごの虚ろ言の皮を剥いだ。反された手のひらから離れ、奇跡的な飛行能力など手にすることもなく(なにせ僕はスカートをはいていないから)、しっとりと湿った草原の土に、頭頂部から落下する。
僕の首が折れるひときわ大きい雨の音が寝ぼけ眼のふきのとうを目覚めさせるだろう。



 足もとに犬がいるのが見えていて、だんだん近付くと、緑の傘が時々くるっ、くるっと回っているのがわかった。追い越し際に犬をちらっと確認する。よし。犬はいい。いつか飼いたい。いつか、と時々思いながらそのまま終わるのではないかと思うようにもなった私は傘を持っていず、小雨のぱらつく土手を急ぐ。左右に雑草が強く生い茂っている。本当によく茂っている。花まで咲いて、暗めの空をうつしている。既にペダルをこぐ足がだるくなっていたが、土手を下りる前になだらかな上り坂があった。坂を上ったらそのまま土手を進みたいような気になり、気になっただけで私は土手を下りている。下りながら今度の日曜はどこかへ、例えば隣県まで出かけようかと考える。ぱらぱらと雨は止みそうで止まない。週末も雨だろう。週間予報では雨だった。「イラッシャイマセ、コンニチハア」と迎えられたのか追い出されたのかわからない、多分どちらでもないコンビニに入ると、透明なビニール傘が売られていて、私は緑の傘が欲しいんだという気がして、それは嘘だと思った。日曜は出かけようと決めて、それをひっくり返すべきかと悩みながら、百三十八円の甘そうなミルクティを手にとった。



 追いかけっこに疲れたのであっくんと一緒に木蔭で休む。ぬしさまと呼んでいるその木は、あっくんと二人、向こうとこちらで手を繋ぎ合ってわっかをつくろうにも抱えきれないほど太くて大きい。葉っぱは緑色が濃くて奇麗だ。幹は特別ひいやりとしている。
 ぬしさまの下は静かで涼しい。
 追いかけっこの途中で、あっくんとキスをした。瞼を閉じたら陽射しに射られた。上瞼と下瞼が合わさった瞬間、じゅッと熱がはじけた。重ねた唇にも電流が走ったみたいになって、吃驚した私たちは慌てて体を離した。極まり悪さをごまかすように力いっぱい追いかけ合った。
 並べた膝が触れ合ったから、ぬしさまの下でもう一度、キスをした。最初はおずおずと、それからひしひしと。
 ぬしさまの下は静かで涼しい、閉じた瞼に熱ははじけない。唇の温度は嘘みたいに心地よかった。うっすりと目を開けると、触れ合った膝にぬしさまの影。



雨の日の朝、玄関を開けると河童が立っていた。
大きな葉っぱを傘代わりに差している。
何用かと聞けば、旅の途中で腹が空いたので胡瓜を分けて欲しいという。
私は快く家に上げると、胡瓜を三本と酒を用意した。
一升空く頃には河童も饒舌になり、これまでの旅の話をとめどなく語りだした。私はその興味深い話に耳を傾けて、時には笑みを浮かべた。
私と河童はまるで十年来の友人のように、すっかり気の置けない間柄になっていた。
夜が明けると、河童は礼を言って旅立っていった。
河童を見送った後、いつも誰彼かまわず吠える飼い犬が静かなことに気づいて、犬小屋を見に行った。
犬が、犬小屋の傍で横たわっている。
私は、しまったと呟いた。
犬は、尻子玉を抜かれていた。
私は呆然として空を見上げた。いつの間にか、雨はあがっていた。



 ああそう言えばあの色に銅色の骨が不自然だと思ったかもしれません。ぱらぱら水玉が透けて見えていました。傘の内側を眺めたのでしょうか、私は。
 変な話です。傘から流れた水滴がざあと、背の後で立てた音、そればかりが残っております。今その音ばかり聞こえます。ざあと。
 変な話です。日陰者などと自分を貶めた言葉を使うくせに目立つ色が好きでした。
 あの日、あの時、判っていただこうとは思いませんが、異界であったのです。
 Jの向こうに蛙の口が見えました。そこではじめて、私はあれが絡め取るものだと知ったのです。
 口が横ににいと開いた時に逃げ出せばよかった。遠い西の空の光輪にただ一時、目を奪われた隙に身体は絡め取られておりました。私は怖かったのです。
 腐った匂いのする菊でした。菊は緑の中で足を踏み鳴らしました。足元で水が緑を映しながらはねました。Jでしたか、菊でした。腐った色の汁を飛ばしました。あの色はなぜ、地面に落ちると赤く見えたのでしょう。ああ、傘ですか。では赤だったのですか、腐った汁が、赤い。変な話です。
 それで、私はいつ帰れるのでしょう。J? はい、存じています。何かあったのですか?



撃墜。そして仕事終了、空から落ちてくるのは緑のパラシュート部隊。次々に落ちてゆく。
落下点は公園だ。公園には多くの人々が居る。皆それぞれの理由があって来ているのだが、空からパラシュートが落ちてくると、あ、放射能がやってくる、気をつけろ、と言いながら一旦離れ、やいやいとか何か言いながら屋台で買った卵をパラシュート部隊へ投げつける。中には大層グロテスクな代物もあるのだが、パラシュート部隊はもう慣れてしまっているので気にしない。
それよりも彼らはサボタージュする気で満々だ。
そのまま彼らはバラバラに解散し、ある部隊員はマックへ、ある部隊員はモスバーガー、ある部隊員はサイゼリヤへ行こうとする。
一番目的地まで遠いマックへ行く部隊員はパラシュートを引きずりつつ、タクシーを呼ぶ。防護服を着たタクシー運転手に駅前のマック、と言うと運転手はへい、と言ったがなかなか車を発進させない。ドアが開きっぱなしなのだ。
お客さん、ドアを閉めてください、と運転手は言うが部隊員はなかなかドアを閉めない。
部隊員は空に広がる茸雲を見ていた。どうやら次の部隊は失敗したらしい。
公園の、観光客と思しき防護服を着た二人連れが代わる代わる茸雲をバックに写真を撮る。
お客さんそろそろ怒りますよ、と運転手が言ったので部隊員は相済みませんと言い車はマックへ。
もうじき雨は降るだろうがこの街は美しい。



 もう何日も雨など降っていないのに、玄関に濡れた傘が置いてある。傘の色をあいまいに映した小さな水たまりもできている。「誰か傘を使ったの?」なんて、家族には訊けない。訊いたら、誰かが姿を消している気がする。



 雨の日がいちばん好きな娘は、赤い傘を差して蓮の花咲く池のふちでカエルの合唱を聴いているときに、池の主である大フナ様に見初められて水の世界にやってきました。
 池の底で、娘と大フナ様はしあわせに、おだやかにすごしておりました。娘は大フナ様を愛していました。しかし、緑色の水面を見上げては、ときどき溜め息をつくのです。蓮の葉のすきまに、いくつもの小さな円が生まれては消えていきます。娘の好きな雨は水面で波紋を広げるばかりで、一粒も底までは届かないのでした。
 やわらかな泥の中で、娘は雨のにおいを、傘の上を転がる軽やかなリズムを、カエルたちの歓びの歌を思います。池の主の妻になった娘には、地上で雨を感じることはもうできません。雨の降る日は娘の溜め息が泡になって、いくつも水面にあがりました。
 ある日、娘が水面を見上げていると、丸い影がゆっくりと降りてきました。一枚の大きな蓮の葉の茎をつかんだカエルたちが泳いでくるのです。
「これは、大フナ様からの贈り物です。ゲコ」
 娘は驚いた顔で蓮の葉を受け取りました。大きな蓮の葉は、彼女の頭の上で広がります。まるで、大好きな傘のように。娘の顔に笑顔がひろがりました。
「あなた、ありがとう」
 照れた大フナ様は、尾ひれを揺らして答えました。



むきになってあんなに日差しの強いジャングルを歩き通したりするからだ。
行く手を遮る下草や蔦をものともせずに猛然と進む彼女が、それでもなお頑なに差し続けていた白い日傘は、生命力に溢れた木々の色を捉えて離さなくなってしまった。

今も薄暗いアパートの玄関に、あのときの木漏れ日を乱反射し続けている。



 傘の日続きでうんざりだ。けど雨を降らせず出歩くわけにはいかない。地球漂白化の影きょうあっ。路地から飛び出た少女に僕は吹っ飛ばされ雨を降らすのがおろそかになってしまったそのとき傘が閉じたままぶすり、腹を刺した。
「ごめんなさい。大丈夫?」と少女は言った。
「うーん」
 僕から傘を抜き、おんぶして、少女は来た道を引き返す。素敵なワンピースだなあ。汚れないかなあ。雨を降らせていないのに傘は僕たちのはるか上空でひらく。古い一軒家へ入ると少女は自分だけ靴を脱ぎ僕を玄関に寝かせた。
「目をつむってて」
 衣擦れの音。脱いだワンピースを僕の胴に巻きつけているようだ。遠ざかる足音。漂白化のせいなのか僕の目が霞んでいるだけなのか、下着と区別がつかないほど白い肌。
 目覚めたとき、少女は何も身につけていなかった。
「目をつむっててって言ったでしょ」
 僕からワンピースを取りあげる。傷はすっかり癒えていた。ワンピースにも少女にも染みひとつない。
「もしかしてそれは緑の傘で?」僕は尋ねた。
「これが最後の一枚」
 時間を確かめるまでもなく、少女も僕も、約束にはもう間に合わないだろう。まあいいさ。どうせ外は白い傘なのだ。



 老人はあざやかな緑の傘を差して歩く。雨の日も、晴れの日も。
「どうして傘を差してるのさ?こんなにいい天気なのに」
と若者に問われて、老人は皺をさらに深くして笑った。
 次の春、老人はすでにこの世にはいない。だが、老人の歩いた道には色とりどりの花が咲いている。老人の歩みそのままに、小さな花がぽつりぽつり。
 花が途切れたところに、老人が差していた緑の傘はあった。柄には札が付いている。
「あなたの最期の花道、作ります」



傘がいっぱい並んでる。
赤い傘が欲しいのに
緑の傘しか置いてない。
かさはどいつも裏返し
雨水たまれば重たいし
ほねは骨なしこらえなし
雨水ちゃぽんと全部落ち。
丸々肥えた子供らは
首をはねてはお供えだ。
八月十五夜お月さん。
緑の傘は捨てられた。



 今日はわたしのためにお集まりいただき、ありがとうございます。
 17年間全力で戦ってきましたが、本日をもちまして、現役を引退することを決意いたしました。
 プロ生活2年目で初めて立った神宮球場のバッタボックス。痺れました。スタンド全体がわたしのために東京音頭を唄い、わたしのために傘を振り・・・もう一度ここに立ちたい。何度でもここに立ちたい。この景色を独り占めしたい。その一念が、今日まで現役を続けさせたと思います。
 できることなら、死ぬまでずっと神宮球場のバッタボックスに立ちたいのですが、それは叶いません。想いだけではプロであり続けることはできませんでした。
 ファンの皆さんには心から感謝をしています。この想い出があるから、これからの人生も生きていけます。願わくば、今度はわたしも一緒にスタンドで傘を振らせてください。
 今日は本当にありがとうございました。



 まっとうのにいっちょんこん。
 傘みたいな形やろと良雄さんがいっとった。やけん雨ん降ったらここに来ようち。
 ばってんひどか雨やと、葉っぱの間から、ぼたぼた水滴が落ちてくる。あんまり役にたたんばい良雄さん。しっとった?
 雨はざわざわふっとうのに、良雄さんはいっちょんこん。
 暗いけん眠くなってきた。
 
 シロ、シロ、起きんね。

 お母さんの声と匂いと手のひら。
 いつのまにか明るくなっとる。
 お母さんの頭の上に、葉っぱの傘が、ざわざわまあるく広がっとる。
 飛び上がってお母さんの顔を舐める。濡れとるけんやか、なんかしょっぱい。
 お母さんの手が背中を撫でる。
 あの子はこんとよ。
 ばってんおかさん、すぐくるけんていよったよ。かさばもってくるけんて。
 お母さんに抱かれて空を仰ぐ。
 雲の切れ間から光がこぼれた。雨やんどる。
 どこからかつん、と煙の匂い。
 お母さんは振り返るらんで、ずんずん歩く。
 すぐくるっちいよったとよ。
 お母さんの肩越しに、緑の傘を見る。
 遠ざかったその木の下で、良雄さんらしき影が手ばふりよる。
 ほら。やっぱきたばいおかあさん。
 ワンと一声。
 お母さんは立ち止まって泣きださした。



洋子の傘は緑色。
それが、恋が上手くいく彼女だけのジンクス。
きっかけは単純。ありがちだけど、小学生の頃、少し好きだった男の子と一緒に学校から帰っていると、雨が降ってきた。で、道端に在った大きな葉っぱで相合傘で、歌いながらスキップで帰ったという話。

洋子の今の傘は大きなカエルの顔の傘。
これまで恋は上手くいったことも、いかなかったこともあった。
でも洋子はこのジンクスを大切にしている。
緑色の傘を差すと、あの日の雨と共にキラキラした気持ちを思い出す。
今の恋は、上手くいっている。



 靴下のことも忘れて、夜更かしをしたからなんだろうね。
 冷たい雨が降ってくる。
 まぶしい駅前から逃げるようにして、改札を抜け出た僕は走りだした。
 小さな街灯のかげに、君はいた。雨があんまり冷たいので、魔法はもうほとんど残っていなかった。
 セロハンテープで貼り付けられた、折り紙、しわくちゃのアルミホイル。とけて流れて消えていく。
 残ったものはただ、君と僕と緑の傘だけ。
「だから早くって言ったのに」
 君は下唇をかんでしまう。
 そうだねごめんね、僕はいつも少し遅いね。
 でも雪が降らなくたって、君の手をとるよ。そんなにびっくりしないで。
「だってプレゼントなんでしょう」
 ツリーの下にはプレゼント。そんな絵本を昔、読んだよ。
 目じりにキッス、大丈夫、すべて隠してくれるから。



金属反応の正体は固定軌道式交通機関の跡—線路だった。横断すると蘇鉄の群落の向こうに海岸が見えた。ウミネコが群れるふたつの陸繋島に区切られた小規模な白砂の浜。
イレギュラーな色彩を検出。汀線限界から3イルギィの位置に傘が落ちている。人間は雨に濡れることを忌避し、これを上肢に把持して降雨を遮った。
接近する。
拾い上げながら操作法を検索し(状態は良好。通常因果を逸脱してここに置かれたものかもしれない)後退しながら開いた。付着した砂が散る。紫外線を浴びて褪色し、緑の濃淡による縞模様になっている。表面に黄色い塗料で文字が書かれている。未解読の文字だが、因果履歴を追尾してみると、遠隔的な願い—祈りがエンチャントされている。貴重な情調遺物。感染効果で好奇心が励起される。好奇心に対する好奇心が喚起される。
腹腔を開いて格納するべきだったが陽光を遮るように掲げくるくると回した。光学認知系を人間設定まで低下させると、文字が黄色い輪になって視えた。情調検索して「わくわく」を拾い出した。反芻してみる。わくわく。わくわく。
「緑の傘を拾う」を「わくわく」を表わす慣用語法として申請する。
この語法は22万7千年にわたって断続的に存続した。



『地球には緑が足りない』と声高に叫ぶ環境団体が、ここのところ躍起になって人口雨を振らせ続けている。
 クロレラをたっぷり含んだ緑がかった雨。
 その雨粒はねっとりと粘ついていて、ワタシの透明なビニール傘はすぐにその緑で重たくなる。
 家についたら、へばりついたスライムのような塊を水道水で洗い流す。
 錆び色の水に流されていく緑色の微生物たちは、地球に寄生している人間たちを嘲笑いながら排水溝へと滑り落ちていった。



 ぼくの父はアマガエル。雨が降るとけろけろ鳴く。ぼくの母はウシガエル。雨が降るともうもう鳴く。ぼくが都会へと旅だった日、ふたりは緑色の傘を餞別にくれた。それはとても古くて重たい傘で、ぼくはとにかく気に入らなかったけど、荷物の底に詰め込んだ。
 都会の暮らしは楽しかった。そこには土も茂みもない。ぼくはアスファルトのうえで踊るようにして暮らした。田舎のことも緑の傘のことも、ちっとも思い出さなかった。
 ある日、田舎から訃報が届いた。父は車にひかれて、母はハンターに捕らえられて、死んだという。でも辛いはずのぼくは泣き方を思い出すことができなかった。みじめな気持ちで緑の傘を部屋の奥から掘り出した。ぎちぎちとかたまっていた傘をゆっくり開き、その緑色のかげのなかに身を横たえる。そして思い出す。この深い緑をぼくは知っている。草むらを水田を走り回った雨の匂い。広げた傘からしとりしとりと雨が落ちてくる。父の鳴き声が、母の鳴き声が聞こえる。ぼくの喉がゆっくりと震えだした。それは小さな小さな、やっと取り戻したぼくの鳴き声だった。ぼくは鳴いた。父を思い母を思い、鳴いた。
 緑色の傘をさし、ぼくは明日田舎へ帰る。



 この街もまたなす術もなく暑くなり、一週間も続けてスコールが降るようになった。ずっと冷房をつけっぱなしなので電気は自然と不足し、最近のビルは今更エコマーク入りのソーラーパネルを大きく広げ、陽射しも雨もさえぎっている。でも、それで地面に恵みが届かないわけでなく、パネルのあい間から滝のように結局流れ落ちてくるのだ。光が水に乱反射し、街の景色も瞬くごとに移り変わる。
「うひゃあ、たまんないね!」
 参ってるのか悦んでるのか、おこぼれを浴びたヤシの木は声をあげて騒いだ。大柄な肩をふるわせ、頭のなかを洗うように伸びをする。リサが上目づかいに押し黙っていると、ヤシの木は「もうそんなこわい顔すんなよ」と腕をとり、湿ったからだに引き寄せた。
 やっぱり会うんじゃなかった。リサは前髪で瞳を隠し、甘える心を一言ずつ噛みつぶす。でも、枝葉のあい間から棒のように流れ落ちてくるのだ。
 髪もシャツもビリジアンのスカートも濡れてしまう。今日のために買ったのに。鼻をすするリサの足元に小さなヨシガモがひと休みに寄ってきた。スリットのあい間からも糸のようにみんな流れ落ちていく。そして羽のあい間からも、道に芽ぶく双葉へ向かって。



 点け放しのラジオから、オオアメコウズイケイホウという声が聞こえる。また雨だねと驟子は言う。寮の窓では長方形に切り取られた欅の葉並が少しずつ、それぞれ雨滴に打たれて微かな震えを見せている。そう、我々がこの部屋で迎える朝は雨。
 高校の同級生、今は月一の呑み友達、それから夏至の夜以来の交情。これで我々の関係の全て。
 ドア際まで送って、使えばと差し出す。いつも持って行きっぱなしで持ってこないから、これで最後だよ。サークル仲間の忘れ物の折りたたみ。
 (「恋愛」という言葉の隣に「友愛」という言葉があることを憶えている?)
 いいよ。要らないという意味。その色、嫌だから。
 ドアが開く。水と風と欅の匂い。それだけを残して、じゃあね。



 新世紀というフレーズが腐るほど古臭くなる頃、軒先に緑の傘が逆さに並ぶ。緑の傘はバイオテクノの粋を集めたパラポラである。日没と同時に眠り、日出と共に目覚めてCo2を貪る。暫くもしゃもしゃ咀嚼を繰り返し、気が済んでは管からぺぺっとO2を吐き、またCo2を戴く。
 嗚呼。今時、街路樹は全て緑の傘。見てみよ、緑地帯に溢れ咲く人造生物の群れを。「便利で良い世の中になったね」と若者は誰も彼も同じ顔で笑いあうのだ。

 見てみよ。
 新世紀だ。
 キヅケヨ。
 新世紀だ。



 きみの緑いろした傘が、雨のなか、鮮明にうかびあがっていた。
 目を、閉じる。
 雨の下校時刻、教室からみている。
 淡く、うすい緑いろ。控えめで、あまりクラスでも目立たないひとだったけど、あの緑の傘が、ふしぎときみの存在を示していたように思う。
 雨のなかで輝く。
 どこにもない緑いろだった。他のどの緑いろとも違って見えた。しずかな雨のなか、ぼくのこころにやさしく燈った灯りだった。
 雨の季節が終わって、汗をたらしながら忙しい夏期講習にあけくれ、二学期からぼくは進学コースにゆき、きみとはなれた。それから、ぼくに、あの灯りのみえることはなかった。
 都会の大学にきたぼくの目に映ったのは、けばけばしいネオンライトで。つめたいだけの雨を避けて閉じこもったぼくのこころで、あらゆるものは色あせてしまい。すべて消えてまっくらになりそうな、そのとき、ひとつの灯りがぼくを導いたのだった。ここはぼくのいる場所じゃないんだ。
 故郷に戻って、少しずついろをとりもどす景色の果てに、緑の傘が遠ざかっていく。
 追いかけて。声をかけてみても、ふりかえったのは知らない少女で、声をかけたのも、知らない少年だった。
 目を開ける。
 雨がやんで、もう、緑の傘は、みえなかった。



 眩しくて見てられなかったので、泥水に浸けてがしがしと踏んづけたのだ。土色に溶け込んだのを確かめてようやく息がつけた。これでもうただの骨格化石。時間軸の交わることもない遠い歴史だ。
 なのに、がらんどうの部屋でその夜夢を見た。あの傘と同じ目映い色の蕗が大きく背を伸ばしている。雨露を葉の上ではじいている。その葉陰を覗くと、茎を楽しそうに回しながら持っているのは君だ。手を少し高く掲げると茎の先をチュッと吸って笑った。甘露、なのだろう、思わず僕も微笑む。しかしその瞬間君はくるくると回り出し、スピードを上げたかと思うと二人になる。二人は少し立つ角度を違え、少しだけ違うスピードで回り続ける。そして二人は四人に、四人は八人になり、ときどき茎の露に口づけては笑みをこぼし、ますます楽しそうに回り続ける。笑うことも忘れて僕は猛烈な勢いで増えてゆく君と蕗を茫然と眺めている。そして蕗の葉が見渡す限りの地面を覆い尽くしたかと思うと、いきなりすべてが消えた。蕗も君も掻き消え、僕の手には握り締めて萎れた小さな茎が一本だけ残される。
 目が覚めた。…きっと僕は同じことを繰り返すのだろう。カーテンを引くと、雨露の残る新緑が目に飛び込んできた。