500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第85回:期限切れの言葉


短さは蝶だ。短さは未来だ。

 期限切れの言葉1 作者:tamax

23時55分きっかりに、ゴミになったばかりのおにぎりを
飲み込みはじめる買い物カゴは胃袋のようだ。
濁ったピンク色のカゴはみるみる満杯になった。

深夜バイトの学生はみな無口だった。
このコンビニでバイトをはじめて3ヶ月になるが、
「お疲れ様です」と「先に失礼します」以外の言葉を交わした記憶はない。私たちは“一夜を共にしていながら”お互いを空気のように扱った。


「いらっしゃーせぇ」
連休の中日の今夜は、立ち読みの客一人いない。
自動ドアの開閉と共に、黒い影が舞い込んだのはちょうど日付が変わった頃。


どのくらい時間が経ったのだろう。遠くでサイレンの音が聞こえる。
床にうつ伏せに倒れたまま、ひっくり返ったおにぎりの日付シールを見ていた。
学生はもう動かない。いつも前髪で隠れていた顔はあどけなく、
今にも口を開きそうな気がする。

(おさきにしつれいします)

言葉にはならなかったようだ。



 期限切れの言葉2 作者:脳内亭

「明日あそぼう」と私が云った。花ちゃんはにっこりうなずいて「うん、じゃあ明日ね」と云った。そして次の日、私が家に行くと、花ちゃんはどこにもいなくなっていた。二十年も前のことだ。
「あそぼう」と、なつかしい声で聴こえてきたのは、買い物帰りのことだった。
 振り向くと、女の人が立っていた。すぐに花ちゃんだとわかった。声も面影も昔のままだ。「ねえ、あそぼう」
 花ちゃんはうっすら透きとおっていた。
 これから夕飯の支度をしないといけない。子どもが私の帰りを待っている。「明日だったらいいよ」と私は云った。「明日はいやだ」と花ちゃんが云った。
 突然、サイレンが響いた。
「あーあ」と花ちゃんが呟いた。「短いなあ、もう終わりか」
 西の空に、鉛のような雲。夕焼けがじくじくと染み出ている。
「今までどこにいたの」と私は云った。「『明日あそぼう』の檻のなか」と花ちゃんが云った。「やっと出られたのに」
 哀しそうにうつむく花ちゃんの姿が、みるみる薄くなっていく。
「もうあそばないの」と私は云った。「もうあそべないよ」と花ちゃんが云った。
「もうあそべないの」と私は云った。「もうあそばないよ」と花ちゃんが云った。



 期限切れの言葉3 作者:椰子LEE

さてどうするか。
終了のホイッスルは既に鳴っている。
このまま諦めるべきか。
いや、そんな事はできない。
俺も男だ。このまま引き下がるわけにはいかない。
しかし、5分も前にゲームセットの合図は出ている。
どうすればあの黄金を獲得できるのか。
言うか?
それはルール違反だ。
じゃあこのまま涙を飲むか?
“気持ち”と“あて”はまだ無くなっちゃいない。
俺にはあの黄金が必要だ。
ルールなんて関係無い。
言うしかないんだ。
俺は気合いを入れ、声を振り絞った。
「すいません、ビール追加できますか?」
「あぁ・・・もうラストオーダー終わってますんで。すいません。」
店員が申し訳なさそうに言う。
「ですよね。すいません・・・」
俺は溜め息を一つ吐き、唐揚げを口に運んだ。



 期限切れの言葉4 作者:本田モカ

別れた彼女の部屋に
心の缶詰という物が置いてあった。
プルタブをひいて開けてみると
『アイシテタ』
という言葉が繰り返し何度も響いた。
缶に記載されている製造年月日は
4年前の2人が出会った日。
賞味期限を見るとすでに半年が過ぎていた。

……ああ、その頃からもう切れていたんだね。

やがて部屋には再び静寂が訪れた。
彼女の残り香が漂う中で
私はその空っぽになった心を
そっと抱きしめた。



 期限切れの言葉5 作者:影山影司

1999年7の月



 期限切れの言葉6 作者:瀬川潮♭

 いつもの喫茶店は、いつもと同じ。
 目の前に座る恋人未満の彼女は、人差し指で前に流れる髪を耳に掛けてからあん、と口を開けた。ベイビピンクの唇に光沢が踊る。まさか。
 そのまま彼女は、お辞儀するようにあむっと先っぽを口に入れた。しばらくもごもごと舌を使っていたようだが、やがて背高細身のパフェグラスを中心に顔を捻り顔を上げた。上の部分は姿を消している。一方の彼女。細めた目尻が満足そうに垂れる。唇が白く汚れていたが、ぺろりと舌がうごめききれいに——いや、余韻を堪能した。
 そしてまた、あん。
 ねっとりと赤く色づく舌をパフェグラスの奥の奥へと押し入れる。うねる純白の生クリーム。時折、赤い舌がグラスに張り付きその姿を見せる。ぐにり、ぐなり。何という長さか。
 僕は砂糖もミルクも入れないくせに、コーヒーをスプーンでかき混ぜている。
 ウエイトレスは、不手際に気付かない。
 遅きに失したよな、と匙を皿に戻す。
 顔を上げた彼女はねっとりと笑むだけだ。
 恋人未満で、何年過ぎただろう。



 期限切れの言葉7 作者:三里アキラ

 99年前の「カエルになってしまえ」。
 森の奥の沼。カエルにされていた王子様は、ご自分の爪のついた5本の指を目にして驚きました。記憶している限り、初めてご覧になるものだったからです。
 北の魔女は、王子様のお母上であるとても麗しいお后さまに嫉妬しておりました。生まれたばかりの王子様に呪いをかけて連れ去ってしまったのです。だから王子様は人間だったご自身をご存知ありません。
 しかし99年の月日を経た王子様はお歳を召してしまっておりました。沼の水面に浮かぶお姿をどのようにお感じになられたのか。頭頂は禿げ上がり、白い髪の毛が僅かに、けれど長く垂れ下がっています。皮膚も弾力無く、お顔も手も皺とシミだらけです。もちろん衣服など身に着けておりません。そして身体そのものも弱っておりました。細く痩せこけた足腰では立つこともできません。お腹が空いても、虫以外に何を食べたらよいのかわからず、その虫さえも、カエルの舌がございませんので捕ることができません。
 力なく水面を見つめていらっしゃると、風が教えてくれました。
「悪い魔女は死んだのよ」
 王子様は、とさりと身を横たえられ、そっと瞳をお閉じになりました。



 期限切れの言葉8 作者:侘助

 ありがとう。

 そのたった一言を発する力は最早残されていない。

 過ぎゆく時間は無情にも私から全てを奪い去っていく。
 マスクから供給される過剰な酸素も、チューブや注射器を通して投与される薬剤も、私に備わっていた力を蘇らせることはもうない。

 もっと早く気付くべきだった。
 言うべきことは、言えるうちに言っておかなければならないということに。

 「バイタル低下」という声が聞こえる。誰の言葉かはもう分からない。
 多分もうすぐ全てが終わる。
 私が瞳から流す最後の滴の意味を誰か分かってくれるだろうか。

 ありがとう。

 そのたった一言を言うことが出来ない。



 期限切れの言葉9 作者:麻埒コウ

 人間の睾丸が食用化される前、窓にはさまっていたかかとが告げた。
「俺のつま先にならないか?」
 僕が承諾すると、ある言葉が失われたままならいずれ迎えにくると言い残しかかとは去った。
 それから二年。日本初の女総理による議案が可決した。保有者の死が認められていれば睾丸を切り落としても刑法190条から阻却される。煮ても焼いてもいい。ただし生だと硬くて噛み切れないっぽい。
 僕は特許申請中の睾丸カッターを、死体になった父の股座へと運ぶ。皺だらけの皮膚を専用に加工された刃がサクサク。
 いっそ原型ごと損壊させて最初からなにも無かったことにしたい。僕が生まれてきた痕跡を残さず。だけど睾丸カッターで人体の解体は困難だ。父さん。どうして考えることと感じることは別なんだろう。ねぇ父さん!繁殖の煩いを自覚してくれたら——。
「誕生日ごめんなさい」
 右側の玉が言った。
「でも、生きてくれて嬉しかった」
 左側の玉が涙声で言った。
 僕は感情に耐え切れず採れたての睾丸を噛む。遅いんだよその言葉は。あなたの陰嚢を齧っても与えてもらえる罰はもうない。失われているんだ。
 二年ぶりにかかとと再会した僕は、前進も後退もない、ひとつの足跡になった。



 期限切れの言葉10 作者:アンデッド

 部屋の窓の外には、赤砂の景観が広がっていた。
 砂面には曲線的な凹凸はあっても、足跡などはまるでない。

「愛してる」

 部屋のベッドの上で、男が隣に座る女に囁いた。男は腕を女の腰に回したまま、女の返答を待っていた。
 男の甘くとけろけるような言葉を受けて、女は反応する。

『期限切レデス。期限ヲ、更新スル場合ハ、スロット二、カードヲ、挿入シテ下サイ』

 男は落胆の表情を浮かべたが、すぐに懐から有効残高のあるカードを取り出す。
 そして言われた通りに、慣れた手つきでカードを挿入した。

「愛してるよ」

 男は再び甘く囁いた。

「私も愛してるわ」

 女も笑顔で愛の言葉を返す。
 男はいつも通りに女を抱きしめると、熱い口づけを交わした。
 そうして、火星の夜はまたゆっくりと更けていく。



 期限切れの言葉11 作者:茶林小一

 風が強く吹いている。翔ぶのに最適とは言い難い環境だ。強風に凪がれて甲は僅かに顔を顰めた。
 進行方向斜め前で乙が合図(ゴー)を送っている。甲は操縦席から親指で合図(ラジャー)を返した。
 ヘルメットから通信(コールサイン)。
「歴史的瞬間だ。後世のために、何か名言でも残しておいちゃどうだ」
「一九九X年、世界は核の炎に包まれた」
「あん?」
「昔、そんな物語があった。しかも、沢山」
「ああ」
 だが今じゃもう、古びたSFだ。陽気な乙の声。それから通信終了(オーヴァー)。
 そうだろうか。通信の切れた操縦席で一人呟いた。
 そんなお伽噺があったから、望まない未来を回避しようと努力した。その言葉があったから、今を変えようと努めた。
 表出することはない。だがそれを成した者が、きっといる。世界が続いていること。そのために戦った者たちが、きっといる。
 翼も。想像力も。それは羽ばたかせるためにある。
 発動機が回転数を上げる。甲は風防を展開した。
「よい旅を(グッドラック)」
 暴力的なG。銀色の浮遊機(フライヤ)が甲板から切り離される。畳まれていた両翼を力強く伸ばす。蒼く澄んだ空に、一筋の曳航線。
 未来へ向けて今、巨鳥が飛び立った。



 期限切れの言葉12 作者:yasu

 僕は十年ぶりにここを訪れた。当時お世話になった社長さんと奥さん、娘さんも僕のことを覚えていてくれて嬉しかった。
 そして、もうひとり懐かしい人物と出会うことになろうとは……。
 高校の同級生である井坂君だ。

 なぜ彼がここに!?

 僕は高二の夏休みに買ってもらったばかりのサイクリング車でここへ来た。パンクをして泊めていただき、お礼にお手伝いをさせてもらったのだった。
 井坂君にはその時のことを話していた。何よりも詳しく話したのは、美人の娘さんのことだ。僕は彼女に恋をした。初めて年上の女性にいだいた恋心だった。
 そして十年の月日が流れた。

 娘さんの名字は、井坂になっていたのだ。
 井坂君とはクラスが替わってからは疎遠になっていたので、その後のことは知らなかった。
 彼は三年のとき、同じように自転車でここに来て、同じようにお手伝いをし、そして同じように娘さんに恋をしたという。
 ただ違ったのは、卒業後に住み込みで就職までしたことだった。

 固い握手を交しここを後にした。彼からは謝罪と感謝の言葉をもらったけれど、感謝するのは僕の方かもしれない。ほんの少しの勇気と行動力さえあれば、人生は変えられるということを教えてもらったのだから。



 期限切れの言葉13 作者:六肢猫

1865年に始まったシャトルランは現在進行形。
かわいいあの子のおやすみまであと30分。
物語を始めようと全速力ではじまりの木に駆け戻った兎は愕然とした。
脱ぎ捨てられた青いドレスとヘアバンド。
その上には一枚の書置き。

『俺はアリスにはなれなかった』

「とうとうやったなアイツめ!一行目が一番肝心なのに!!」
向いてない奴を主人公にするな!と憤っても相手は空の上。
残されたのは期限切れの言葉。
では、物語の期限を切らさぬためには?
兎は前足で目を覆った。
「なんて損な役回り!」

兎は一頁目より前へ続く道を知らない。



 期限切れの言葉14 作者:ハカウチマリ

 チクラスは反射的に身を竦めた。ほんの一瞬だが、チクラスの全身を恐怖が包んだ。が、すぐにチクラスは緊張を解いた。
「もう〜、誰だ〜。こんなの分泌したの〜」
 弛緩した表情で呟きを漏らしたチクラスの大顎の下に、残留型の警戒フェロモンがあった。ただ、このタイプのフェロモンが残っているということはある程度持続するような災厄がここで起きていたことを想像させる。また、かなりの量の分泌だったようなのでその事態の深刻さが思いやられる。
 チクラスはその「匂い」を小顎で拭った。長く擦ったがあまり変わらなかった。
 チクラスは諦めてその場を去った。頭の中では、あそこで何があったんだろうと考え続けていた。
 チクラスはふと歩みを止めて、振り返った。
 ちょうどヴェノスがあそこに通りかかるところだった。ヴェノスがビクッと身を竦ませるのを見て、チクラスは小さく笑った。



 期限切れの言葉15 作者:楠沢朱泉

「……」
 言葉なんか出てくるわけがない。
 冷蔵庫の奥から三年九ヶ月前のヨーグルトを見つけてしまった独身女に、コメントを求める方が酷である。



 期限切れの言葉16 作者:三浦

「うそ! 大統領たおれたの? なんで?」
 という意味のことをチキンスブラキサンドを頬張ったままヘレンが叫ぶので私は、
「あんた……すっごい騒ぎになってるのに」
 と口に運びかけていたギロスサンドをそっと置いて教えてあげる。
「あたったの。期限切れに」
「え! 運悪っ」
「そうね」
「それで何だって」
「ふつう一日に一度はすることで、何時間もすることで、疲れがとれて頭がすっきりするやつ、それのクワイエットなやつ」
「あー了解りょうかい」
「わりと使うでしょこれ。けっこう倒れたって」
 アンクルニックズにいるとあまり気にならないが、昼時の九番街がいつもと違ってもの淋しいにぎわいなのは、それが原因だろう。
「アリーって冷静——」
 と、
 轟音が——不気味な地響きと共に——アンクルニックズを突き上げた。
「なななになになになにっ」
「お金ここね。外出るよ」
 グラスを十ドル札の上に置くとヘレンのパニック寸前の腕をつかんで店を出る。
 人が逃げてくる方へと向かうと、マディンソン・スクエア・ガーデンがあった辺りで粉塵が膨れ上がっているのが見えた。
「アリー!!!」
「なによ」
「今……すっごいこわい顔してた」
「私?」
「表情なかったよ」



 期限切れの言葉17 作者:りんりん

「212年後に地球は確実に滅ぶ」

 ある科学者によって発表された論文を、はじめは誰も信じなかった。根拠となる計算式があまりに難解で、誰も解こうとはしなかったのもあるが、一番の理由は、その科学者が黒人で、しかも無名であり、発表した日が4月1日であったからだ。
 ところがが半年後、論文にあった隕石の姿が、新型宇宙lens式望遠鏡(ユニシス)によって捉えられると、世界は癌を告知された患者に等しく、誰もが青ざめて刹那沈黙した。
 しかしながら212年後。もう、その頃には、今生きている者は隕石の衝突以外の理由で死んでいる。今の子供たちの子供たちも、おそらく同じ。だから、どう捉えて良いかわからなかった。
 果たして200年後、地球からどこかの星へ移り住むことは可能であろうか。
 一体何人が? いや、自分が乗るわけでは無いのだ。どうでもいい。恐れるべきか。悲しむべきか。我が身の幸運を神に感謝すべきか。
 皆が混乱していた。この件をきっかけに派生し、世界に瞬く間に広まった宗教の教祖は言う。
「考えても仕方がない。備えるのはこちらの損。次世代に任せようではないか」



 期限切れの言葉18 作者:茸

 気まずい沈黙が私たちを包んだ。
 放課後の屋上には、私と由佳里の二人きりしかいない。名前も知らない機械から聞こえる、モーターの低い音がやけに耳に残る。

 由佳里は自慢の長い髪を風になびかせ、空を見上げたままフェンスにもたれた。
 相変わらず美少女だ。
 ぱっちりした二重の目に、すっと通った鼻筋、ニキビひとつない白い肌、ちょっと尖った神経質そうな顎、スラリと長い手足。
 全部、私と正反対。
 色黒で、目は一重だし、ちょっと横につぶれた丸顔で、鼻ぺちゃ。顔には吹き出物がちらほら、挙句チビで短足。

「まさか朋恵も稲垣のこと好きだったなんてなあ……気づかなかった」

 由佳里は溜息混じりにそう呟いた。
 気がつかなくて当たり前だ、隠していたんだから。

「私だって、由佳里が稲垣君のこと好きだなんて知らなかったよ」
 私はうつむいた。

 ほんと、神様って意地悪だ。
 私と由佳里じゃ格が違う、由佳里になんか敵うはずが無い。

 稲垣君だって、そりゃあ可愛い子の方がいいに決まってる!
 由佳里は性格だっていいし、私なんか、私なんか……。

「参ったな」

由佳里は髪をかきあげて、ずるずると座り込んだ。柔らかそうな髪が、由佳里の指の間からこぼれる。

「ほんと、参っちゃった」

 由佳里はそう繰り返して目を瞑った。その顔がまた綺麗で、私は泣きそうになる。



 期限切れの言葉19 作者:JUNC

あの男に聞けば教えてくれると聞いて来たのに、あの男がいない。
住所はここで間違いはないはずだ。
金ならあるんだ、たんまり持ってきた。
アレがわからないと僕は、僕は・・・。

散々、捜したんだ。
資料も取り寄せたけれどダメだった。
図書館にも足を運んだし、ネットで検索もしまくった。
お年寄りを訪ね歩いたのに、わからなかったんだ。

締め切りは明日。
日本国民に一斉に配られた、このクロスワード。
この3マスを埋めないと、日本人とは認められないとして、
僕は国外追放されてしまう。

なんだって、なんだって僕だけ、こんなに難しいんだ。



 期限切れの言葉20 作者:あらいぐま

ごめんなさいと、言える大人になりたかった。
僕はまた、言えなかった。
携帯を取り出して、メールの送信文を作りながら、送信ボタンを押せないまま、夜を過ごす。
やめよう、よそう、迷惑だろう、いまさらだろう、君の電話番号を見つめながら、コールできずに数時間。

そうやって僕は君にコールする。君は、眠そうに電話を取ってくれる。
「ごめん、昨日は・・・」
「ん?なんのはなし?」
僕は君に説明する。でも君は、
「忘れたからだいじょうぶだよ。」
と笑って言った。

また、間に合わなかった。僕はまた、君に勝てなかった。



 期限切れの言葉21 作者:きき

あれはいつだったっけ。なんだかぼんやり。頭も目玉もぼんやり。いつでもぼんやりしているけど、特にあの時はぼんやり。
泣こうにもなけなくて、目が点てこのことだなと、他人事みたいに思ってたのだけは覚えてる。
だって、あんな急にだよ。楽しく遊んでた、昨日の今日だよ。信じられないじゃないの。浮かれてた気持ち、瞬間唐揚げ状態だった。
ひどいねー。でもこんなもんなのかな。人とのコミュニケーションなんて。相手がどう思ってるかなんて、結局言葉になるまでわからない。それまでは、自分の心の中にお花畑作って、好きな花咲かせて自分で楽しんでるようなもん。
しかも、しかもですよ。言葉は写真とは違う。創作して、どうにだって言える。
ああ何言いたいんだろうわたし。あの、ハートマークの気持ちの唐揚げを作ってくれた残酷な言葉が、嘘だった〓!?  
わけわかりません。前言撤回って、いったい何年前のこと言ってるの。そんなのとっくに期限切れだから!



 期限切れの言葉22 作者:はやみかつとし

《愛? なにそれ?》
 そう言われて、一瞬彼は状況が飲み込めなかったが、すぐにすべてを悟った。単語のシニフィアン強度が彼女の閾値を下回ったのだ。もはや彼がどんなに“愛”を語ったところで、彼女にとってその言葉はいかなる内包も持たない、虚ろな音の連なりに過ぎない。
 人間関係や感情に関する大多数の語と同様、“愛”は半減期管理の方法がとられているので、ある日突然すべての人にとって意味が失われるということはなく、無効化する時期は各自の閾値設定に専ら依存する。多くの人にとってとうに期限が切れ、忘れ去られた語は、徐々にその価値を低減させながらも、世界の片隅でほそぼそと取引されていく。
 かくて、彼の手の中に、干からびて見る影もない“愛”だけが残される。わずかな望みを託して、彼は《革命》と呟いてみる。段階的価値低減管理の最終フェーズにまだ引っ掛かっている可能性に賭けてみたのだ。しかし、彼が呟いたその端から、その語はさらさらと零れ、風に吹き散らされていった。すでに“革命”はその役割のすべてを終え、世界からひっそりと姿を消したあとだった。



 期限切れの言葉23 作者:海音寺ジョー

 遅番パートのフェイが、嬉しそうにゆってきた。
 『松尾さん、新しい日本語覚えたヨ』
 フェイさんは不法入国してきた中国人娘で、最近俺の勤める相々橋筋の居酒屋にバイトで入ってきた。正規の日本語教育を受けていないよって、片言の日本語しか喋れない。
 『うん、どんな言葉ですか?』
 『イーゴ、イーチェー!』
 それは日本語なんけ?
 フェイが片言で説明を始める。
 『人はー、人にー会うときは、それっきり、一度きりにーなるかもしれない。だから、会うはー、大切なことです。という意味ネ』
 それで一期一会のことだとわかった。
 『それは、イチゴイチエって言います』
 『そうカ、イチゴーイチエだたか。日本語難しいねえ』
 フェイは照れ笑いする。
 オレはフェイには丁寧な言葉を使う。悪い言葉や卑語は、彼等はすぐに覚える。でも、接客仕事には敬語ができなあかんから、俺の言葉をフェイが真似するように、わざと丁寧な言葉を使ってるんや。
 『フェイ、フェイが日本語をちゃんと話せる、そうなったら、時給が上がる。だから頑張ってください』
 『松尾さん、前にも同じこと言ったね。前の前にもネ。ワタシ時給、まだ上がんないヨ?』
 『オレだって安月給やぜ。でも、イーゴイーチェは、よく勉強したよな、偉いなフェイ!』
 『へへへへ』
 
 あてにならない口約束で世界は満ち満ちている。ドブタメのような場末の町であくせく働きながら、生活に倦みながら、だけどイチゴイチエはいい言葉だよなーと、その時俺は思った。



 期限切れの言葉24 作者:立花腑楽

 昨年より発掘作業が進められている旧ギュンダー領の中世遺跡「C-23地区」において、出土した言語遺物の中から、当地の「伝説」を裏付ける証拠が見つかったということで話題を呼んでいる。
 件の出土言語について、鑑定を行ったグランオーベン大学言語考古学チームによると、旧来であれば保存状態の悪さのため、復言は不可能とされていた朽言出土物の一群を対象に、最新鋭のSRDL(重層化復言技術)による再鑑定を実施したところ、700年前の成人男性のものと思われる呟きから、当時の領主であったギュンダー2世の容貌について言及する文言が確認されたという。
 ギュンダー2世と言えば、ロバのような長い耳を持っていたと、当地のフォークロアにおいて伝えられる領主であり、今回の鑑定結果は、その伝承を証明する遺物であるとして、地元の郷土史家・観光業者を中心に、多大な支持を集めている。
 一方で、ギュンダー2世ロバ耳説に懐疑的な立場をとる研究者も多く、出土した当該言語遺物の史料的信憑性、および、新進技術であるSRDLの鑑定精度に対して疑問視する声も上がっており、今後の究明が期待されるところである。



 期限切れの言葉25 作者:山崎豊樹

 彼女はよく笑った。
 彼女が屈託のない顔で、カラカラ笑うのが僕は好きだった。辛いときや悲しいときも、彼女の笑顔を思い出すだけで僕は幸せだった。
「ねぇ、今幸せ?」

 彼女がそう言ったときも、僕は当然のように答えてあげた。

「当たり前じゃないか」

 そう、それが当たり前だと思っていた。
 だから僕は彼女の笑顔が見れなくなるのがつらかった。できれば笑顔で彼女を送り出してあげたかった。
 でも、僕は笑うことができなかった。

「もし私が事故で顔の半分を火傷でもしたら…… それでもあなたは私を愛してくれる?」

 昔、彼女がベッドの中でそんなことを言ったのを覚えている。

「当たり前だろ」

 そのときも僕は当然のように言った。
 僕はそのとき知らなかったのだ。彼女が僕のことを心の底から愛してくれていることを。彼女が僕のことを心の底から信頼してくれていることを。
 だから僕は逃げない。
 この事実を受け入れよう。きっと彼女もそれを望んでいてくれる。誰もいなくなった部屋で僕は一人つぶやいた。

「君のいない世界を僕は強く生きていこう」


「たった二週間の出張で、なに大げさなこと言ってるのよ。そんなことよりも早く車出して、この荷物を駅まで運んでよね」



 期限切れの言葉26 作者:sleepdog

 二人で作った自慢の庭で、ツツジやシャガの花が一斉に開きはじめた。数年前は小さかった苗木が今年はすっかり存在感を増していた。
 今の妻は、まだ土いじりに慣れない手で、自分が買ってきた好きなパンジーをせっせと植えている。
 縁側から一望すると、乳白色のフジが枝を伸ばし、そろそろ組み木の棚を欲しがっているようだ。きっとあれがここにいたら目を細めてそう言うに違いない——
 子どものいない私たちにとって、庭は心の住む場所だった。ここは恨めしいくらい一年中絶えず美しい色を保ち、一度は孤独の深淵に沈んだ心を、時間をかけて照らしてくれた。

 今朝、検診に行った妻は先生に元気な心拍音を聞かせてもらったらしい。私の人生にこういう日が来るとは夢にも思わなかった。
「ありがとう」
 庭に向かって声をかけると、
「……こんな感じでいいよね?」
 晴れがましい笑顔でジョウロを左右に振りながら、少し控えめな言葉を返してくれた。



 期限切れの言葉27 作者:koro

 体中に蔓延する前に、いつものように私は瓶の中に毒を吐き出した。
「アタシはね。アタシの生き方ってもんがあるの。文句あるなら、かかって来なさい!」
 胃液がこみ上げるほど振り絞って出した後、私はその瓶の蓋を急いで閉めた。真っ黒い毒がドロリ。ラベルに、レベル5会社上司へのポイズンと記す。
 棚に陳列された幾つかの瓶の横にそれを並べようとした時、ふと奥にある一つにラベルが無いことに気がついた。中身は限りなく透明に近い。
 はて? なんの毒であったか。
 私は、その瓶を取りだした。
 過去の毒は二度と体の中に戻してはならない、と自分自身で決めた約束ごとを思い出し、いったんは躊躇したものの気になって仕方がなかった。
 私は後悔を覚悟し、ゆっくりと蓋をまわした。そして、イッキに飲み込む。ゴボリとノドを通っていくそれは、気管支に入りそうになり、むせた。
 そしてその毒が私の口から再び吐き出される。
「ずっと大切にするから、って言ってくれたじゃない」
 言い終えたと同時に、私は涙がこぼれ落ちた。
 五年も前に、とつぜん死んでしまった男への毒であった。ようやく飲み込めたその言葉は、苦くも不味くもなくて、ただただ甘く切なかった。



 期限切れの言葉28 作者:わんでるんぐ

 古い言葉室(むろ)には、小さな言葉の固まりが一つ、転がっているだけだった。父と母、壊れてしまった夫婦の憎悪の残骸を思い描いて、及び腰だった自分が馬鹿らしい。
「なんだ」
 言った端から、言葉が凍って転がる。主を亡くしてからずっと締め切ったままだった室は、メーターが振り切れるほど冷え切っていた。慌てて古ぼけた防寒具のチャックを口元まで引き上げたら、老いた男の匂いがした。
 父が、黙って出て行った母の言葉を、時々ロックにして呑んでいたのは知っている。グラスに耳を寄せ、火酒が母の言葉を囁くのを聞いていた。他の言葉は、たぶん風呂にでも放り込んで溶かしてしまったんだろう。父なりに、大人の領域を死守したわけだ。
 私は、残っていた言葉を割って、渦巻く霧と共に外へ出た。
 ちくちく手を刺す言葉をグラスに放り込んで火酒を注ぐと、尖った言葉が、ぱちんと弾けた。
「……ないで」
 幼い哀願だ。
 扉に触れただけで打たれる禁忌の場所に、一度だけ足を踏み入れ残した言葉が、今苦味と共に戻ってくる。
「子どもらしく大声で喚いていたら、私の言葉も届きましたか、お二人さん」
 泣き言は、行き着く先を捜しあぐねて、消えてしまった。



 期限切れの言葉29 作者:杉田紀元

 誰もが「君は永遠に生きる」という。「君は死なない」と。でも僕にはとても信じられない。だから何でも知ってるという仙人に会うため、山に登った。
 高い高い山の頂で、仙人は座禅を組んでいた。その頭は雲に隠れ、顔は見えない。仙人は言った。
「お前は永遠に生きただろう……私の言葉を聞くまでは」
 僕は高い高い山を下りた。
 街へ戻るとそこにはすでに僕がいた。もうひとりの僕は「君は永遠に生きる」「君は死なない」と言われながらも、普通の暮らしを送っていた。帰る場所のなくなった僕は再び山に登った。
 高い高い山の頂に、もう仙人はいなかった。僕は岩によじ登り、座禅を組んだ。そして冷たい雲に頭を浸した。



 期限切れの言葉30 作者:まつじ

 あらわれたものというのはやがてそのうちに消えてゆくことがおそらくは決まっています。生きているものも、死んでいるものも、ただそこにあるものも、わたしたちのようなひじょうにあいまいな存在も、たとえばいつか使おうとおもい財布にいれておいたなにがしかの無料券がある日をさかいにただの紙きれとなるように、なんの意味もないものになる、どころか、いた、あったことすらじきに忘れられてしまうのです。
 わたしというのはそれ以上で、まったくもって誰にも知れずに消えてしまいました。ひとから生まれたものであっても、そこらへん、あやつりきれないところもあるようで、あなたがあのひとに、あのひとがあなたに、「    」と言うことがなくなったことに、あなたは気付いていないとおもいますが、それがわたしです。
 もしかしたら、人類よりもわたしたちのほうが先に終わってしまうのかもしれません。
 いつまでもある、いつでも話せる、いつも使えるとおもっていたら、そうでもないのかもしれません。
 あなたたちがよく言う
「       」
 とか、は、ああ、これももう手遅れのようです。



 期限切れの言葉31 作者:加楽幽明

 或る日を境にして人々は言葉を失くした。正確に記すと自分たちの感情を表現するのに、言葉に置換しなければいけないという作業を必要としなくなった。きっかけはある家に生まれた赤子が放った「ア゛アアぁ」という泣き声だったらしい。その泣き声が母親の元へは「おなかがすいた」という意思としてはっきりと伝わってきたというのだ。これだけだと赤子を溺愛する母親の話として眉唾で終わるだろうが、事態はそれだけでは収束しなかった。ポツポツと同じようなことを言い出すものが出始め、公的な機関が研究に乗り出すこととなった。その結果、人類は言語を必要とすることなく、泣き声だけで意思疎通が可能ということが解明された。これにより世界共通語が誕生したことは基より、瑣末な認識のずれもなく相手に自分の意思が届くという画期的な出来事となった。人々は言葉を捨て、泣き声に縋った。今や言葉は争いの種を生むとされ忌むべき物でしかない。だが私はお互いの旧情を深めるために、己の学んできた言葉を駆使して睦みあうその行為が、かけがえのない愛しいことに思える。しかし、私が言葉を届けるべき相手は今や皆無に等しい。扉の前では姦しい泣き数の泣き声が聞こえる。



 期限切れの言葉32 作者:砂場

 分かっていたけどぐずぐずしていて期限が過ぎた。「あたし食べようか?」と友達が聞いてくれたのを断り、持って帰ってやっぱり処分に困った。
 夕ご飯を終える頃、籔から棒に「きっぱりと捨ててしまえ」と言って来た父の皿から私は最後の二個になっていた枝豆を両方取った。父の夕食は時々ビールとおつまみだった。「そのくらい大丈夫だよ」と祖母がテレビを見ながら呟く。母が「もったいないから代わりにもらっちゃおうか」と言ったのは冗談だったと思うが、つとこちらに手を伸ばして来た妹はあっという間にその、期限切れの半分ほどを食べてしまった。
「こらっ」
 母が叱るが、
「味しなぁい」
 しゃあしゃあと言う。それで変な勢いがついて、私も残った半分を口に入れたら、もう泣きたくなるくらいにまずかったのだった。
「急いで食べることなんてないのに、せっかちな子だね」
 洗面所で出くわした祖母が言う。「期限なんてうそなんだから」。まだお腹をさすっている私に、昔、おとぎ話を語ったのと同じ口調で言う。
「おばあちゃん」
 期限がっていうよりむしろ祖母の言葉自体がうそっぽい。あくびが出た。「おやすみぃ」
「はい、おやすみ」



 期限切れの言葉33 作者:白縫いさや

 我々が対象とし得る一切の概念を一枚の広大な白地図で表すとしよう。このとき言葉とは白地図に描かれた国、あるいは国と国を繋ぐ橋である。国々を巡り放浪した軌跡こそが、普段我々が文章や物語と呼ぶものである。

 午後をまわり日に陰りが見えた頃に舟を出す。浅い水底を櫂で突き押し、色の無い海へ漕ぎ出した。桟橋で手を振る者らには櫂を掲げて応える。空には不穏な雲。
 国は単体ではなく複合体として捉えるべきである。例えば張り巡らされた街道は何の為にあるのか。街道とは脈である。人や物を運ぶために存在するのであり、結果、異なるもの同士の交流がある。
 かつて繁栄を約束された国があり、しかし間もなく滅亡を迎えた。その理由や経緯を問うことに根源的な意味はない。全ては成すがままにと思うから。あらゆるものに流れがあり、それは時に歴史や時代といった語で以って形容される。

 とある亡国を歩いていると白い灰と化した一切が、消え行く記憶を私に訴えかける。どうか忘れないでくれと。廃屋、馬の蹄の跡、壊れた玩具。
 このように、しかし記憶も残せず約束を反故にされた国はどれだけあったことだろう。叫びは空耳として誰かに届くか。いや、届いた。



 期限切れの言葉34 作者:黒崎

 一段一段がやたらと深くて妙に足を運びづらい外階段を登り切ると、そこにはもう手摺りにもたれかかって極細ポッキーを5本一気食いしている彼女がいた。極細ポッキーは束で食わねーとおいしくないじゃん、と言いながらバリバリと残りを食べ尽くす。
 開口一番、何度も言うけどこんな登りにくい階段はヤバイ、とか、まるっきり自然の山だったところをわざわざ切り崩しておきながら「環境に配慮したエコキャンパス」だなんてよくもまあ、とか、あの場面だったらテレビじゃあなくて地デジとかワンセグのほうがいいでしょ、などと言われても、僕にはどうしようもない。
 頭の上を飛行機が飛んでいく。あんなに高いところを飛んでいるはずなのに、例の「ゴーッ」と「キーン」がほどよく混じった轟音は、通り過ぎたあとも耳の中でいつまでも残響する。もう、たぶん明日からはここに来ることもないのかと思うと、比喩ではなく、いつまでも残っていてほしい。
 いつものように、風が強くなる。
 だんだんとあたりが静かになっていく瞬間は、いつもとどこも変わりはなかったけれど、いつもよりもほんの少しだけ、長かったような気がする。
 ……さー、そろそろ行こっか。そう先に言われてしまって、僕はついさっきから口にしようとしていた言葉をあわてて飲み込んだ。



 期限切れの言葉35 作者:松浦上総

 ランプの魔神みたいな形の雲が、夕焼け空に浮かんでいる。
 私の足取りは弾んでいた。だって今日は、ママが病院から帰ってくる日だから。昨日、返してもらった算数のテストを見せよう。78点。私にしては上出来だ。きっと、ママは喜んでくれるだろう。
 ママは、もう助からない。パパからそのことを聞かされたのは、一週間前の夜だ。末期がんとかいうもので、これ以上、病院ではできることがないらしい。
「ママの前では、笑顔だよ」
 私にそう言い聞かすパパは泣いていた。私も泣いた。でも、ママの前では、笑顔でいようと心に決めた。
「ただいまー」
 玄関で靴を脱ぎながら、私は、せいいっぱい明るい声を出した。それなのに……。
 ママの「おかえり」が聞こえない。かわりに奥から聞こえてきたのは、パパのすすり泣く声だ。どうして? なんで?
 
 ベッドに仰向けに寝かされたママは、とてもきれいだった。私は、そっと頬を寄せてみる。まだ、ほんのすこしだけ、あたたかい。

「ねえ、パパ。私、もう泣いてもいいよね?」



 期限切れの言葉36 作者:空虹桜

 君と僕とはいつか完全な恋に堕ちると思ってた。夜が深く長い時を越え、「心変わりの相手は僕に決めなよ」と、誰かにとって特別だった君を奪い去るんだと思ってた。君の心の扉を叩くのはいつも僕さって考えてた。それだけがただ、ふてくされてばかりで「ラブリー」なんて聴いて胸を痛めてた10代を、悩める時にも未来の世界へ連れて行った。
 けどそんな時は過ぎて、大人になりずいぶん経つ。
 僕らが過ごした時間や呼びかわしあった名前など遠くへ飛び去り、ふぞろいな心はありふれた奇跡にも気づかず、誰もみな手を振ってはしばし別れた。

 風薫る春の夜。君と会ってた時間、僕は思い出してた。
 空へ高くすこし欠けた月。遠くまで旅する君に溢れる幸せを祈るよ。
 東京タワーから続いてく道。いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて生きている。
 僕らの住むこの世界では旅に出る義務があり、突然「ほんのちょっと会いたくなった」なんて言い訳用意して彼女の住む部屋へと急ぐ。
 のに、ヘッドフォンから流れるロックステディは、分別もついて歳を取った僕の歩調を、ゆるやかにベースラインへと導く。