500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第117回:すいている


短さは蝶だ。短さは未来だ。

 すいている1

 寝過ごした。
 とるものもとりあえず家をでて、猛然と駅のホームに駆け込んだ僕を、駅員が制した。
「次の電車にしていただけますか。大変混み合っておりますので」
 しかし、停まっている電車には数えるほどの人しか乗っていない。
 冗談じゃない。そう駅員を振り切った僕の行く手は、ちょうど降車口から転がりでてきたおじさんに阻まれた。
 するどく車掌の笛が鳴り、目前で扉がめりめりと閉じてゆく。うっすら曇りかけたガラス窓越しにみえる乗客は、がらがらの車内で誰もが苦しげに身を縮こめている。
 僕の邪魔をしたおじさんは、ハンカチに顔を埋めるようにして汗をおさえながら、駅員と優雅に談笑をはじめた。
「皆さん、出雲へ向かわれるんですな」
「ええ、もう10月なんですね」
 僕は半泣きで時刻表を確認してみるけれど、次の電車に乗れる保証なんてない。

 秋の空は本当に青く抜けている。



 すいている2

 対面式のボックスシートで窓側に腰掛けている。
 すこし開けた窓からの風が気持ち良く、暗い田圃の向こうで明るい高速道路。だが、なによりまあるい月が綺麗だ。
「お前、なんでそこ座ってんの?」
 不意に思い出して、斜向かいに座るマキへ尋ねる。最終電車なのに今日は乗客がすくないから、ボックスひとつ贅沢に座っても怒られないのに。
「えっ? ダメ?」
 マキは応える。目はスマフォから1mmも逸らさない。マキの後ろには誰もいないボックスシート。さらにその向こうは真っ黒な窓。ぼんやり写るマキが揺れている。まるで、この汽車には自分たち以外誰もいないような。いや、ワンマンなんだから誰かは間違いなく運転している。
 視線をマキに戻す。
 透明マニキュアとか、色付きリップとか、微かな香水とか。ギリギリ校則に違反しないステロタイプな女子高生。なんてコピィが浮かぶ。ついこないだまで中学生だったのに。
「先、座ってたし」
「いいじゃん。寂しいもん」
 マキはちっともこっちを見ずに答える。仕方がないから、マキが見てくれるまでずっと眺めることにする。
「着いたよ」
 マキが言う。二駅30分は270円。
「やっとこっち向いた」



 すいている3

 探し当てた場所には、紙切れが一枚。前後の脈絡なしに書かれた5文字。
 好いている? 空いている? 透いている? 梳いている? 鋤いている?
 どれも単独では意味をなさない。
 まるで暗号だ、と思った時にピンと来た。よくよくみると、字と字の間隔が広い。消された文字があるのか? 

 す・いている: 巣がいている
 すい・ている: 酢、生きている
 すいて・いる: 吸い手は居る
 すいてい・る: 推定する

 どうもしっくりこない。だが、可能性はまだまだある。

 (無)粋(な)Tale
 ス(キ)イ(し)ている
 炊(事)手(間)要る
 水底(カ)ル(キ)

 と、いきなり後ろから口をふさがれた。記憶によみがえる癖のある掌。意識を失う直前、やっと答えに辿り着いた。

「ス(パ)イ手(強)い(来)る(!)」だったのか!



 すいている4

 夫がかえってこない夜は長い時間をかけ髪をとかす。くろぐろとながい髪の毛はたばとなって洗面台を占領する。まるで蛇のようにとぐろをまく。夫はつぎの日にはなにくわぬ顔でかえってきて洗面台の髪の毛をみつけると溜息をつき、指でつまみ、ゴミ箱へすてた。
 夫の下着には、わたしのものではない茶色くカールした髪の毛がへばりつき、それはまるでブローチのように存在をしめし、わたしの直毛剛毛では太刀打ちできない。



 すいている5

 将太は櫛職人の見習いで、ツゲを磨く毎日です。晴れの日も雨の日も、健やかなる時も病める時も、変わらず精進に励みます。
 秋祭りが終わり、閑散とした稲荷神社に将太は足を運びました。手にはつい先日、初めて親方に褒められた櫛。親方に弟子入りして間もない頃、将太はしごきに耐え切れずこの神社へ逃げ込みました。狭い境内、木に隠れるようにうずくまっていると声をかける人がありました。淡い桃色の着物、長い黒髪の娘さんです。娘さんは将太のマメだらけの手を褒め、将太は娘さんの優しい物言いに励まされました。娘さんにいつか自分の櫛を贈ると約束をして二人は別れました。それから将太は一度として修行から逃げることはありません。
 神社に娘さんはいませんでした。もともと会えるとも思っていませんでしたので、将太は特別がっかりすることもありません。きれいな和紙に包んだ櫛を祠にそっと供えました。
 翌日は太陽が出ているというのに小雨舞う、おかしな空でした。今日も将太はツゲを磨きます。作業場にどこからかお囃子が聞こえるような気がしました。祠に櫛はもうありません。嫁いでゆく狐さんは、和紙の包みを大事に携えておりました。



 すいている6

あかさたな行
開いている
書いている
咲いている
焚いている
泣いている
履いている
蒔いている
妬いている
湧いている

いきしちに行
効いている
強いている
惹いている

うくすつぬ行
浮いている
悔いている

すいている

突いている
抜いている

愛してる。



 すいている7

 だれのおしりにもしっぽが見える。だれも信じてはくれないので、ちぎり取ってはしゃぶっている。なにしろとても甘いのだ。アイスキャンディーみたいだ。そして、取られた相手は立ちくらみのように、しなしなとくずおれる。その際のふしだらなおしりが実にいい。その丸さには入道雲のわくわくが詰まっている。夏のにおいがする。



 すいている8

まず、私のちいさな胸をまあるく切り取る。邪魔な肉を取り去って、赤く脈打つ太陽を取り出す。そしたら剃刀で半分にして、片方は鍋に、もう片方は元通りの場所に戻してまあるい肉で蓋をするの。隙間ができちゃうけど、がまん。続いて鍋の中に、バターとお砂糖とレモンスライスとバニラビーンズを追加して、火を通す。少し焦げた香りがしてきたら、上からめだまが蕩けるくらいの涙をそそいで、ガラスの蓋をかぶせてじっくり煮込む。ここは人それぞれたけど、今回私は半年間。頃合いになったら、上澄みの透明な部分だけを注意深くすくって、スープ皿にとりわけます。おまたせしました。これがあなたに捧げる恋の味です。この胸の隙間、あなたは埋めてくれますか?



 すいている9

 毎朝目の前に立っている男の背後からこちらを睨みつけてくる女をちらちらと窺う彼の隣に本当は座りたいと思いながら対角線上のシートに座る私を隣の車両からじっと見つめているあなた。



 すいている10

「何を見て、いるのです」
 湖畔のカフェ。テラスの席の水際に座りうつむく女性はどこか寂しげで。
「水底、です」
「みな……?」
「はい」
 私を見もせずこたえる。
「昨日も一昨日も一昨昨日もその前も、決まってそうしていますね」
「みなそこ、ですから」
 そう言って女性は微笑した。横顔はあせた写真のよう。

 翌日。
 やはり女性はいる。同じ場所で、どこか迷子の……いや、夕暮れの子猫のようで。
「何か、見えますか?」
「はい。みなそこに」
 聞くと、横顔のまま。細いあごがどこかの国の硬貨みたいで。
「私にも見えますかね?」
 言葉を重ねると女性は私を見た。初めて。
 刹那!
 おぉぉぉおと目玉をひんむき迫る男や前髪ばさりと眼前に被る女にぷくぷく水ぶくれして糸目で笑い助けを求める手を差し出す男女ともつかない者などが、などが、などがっ。いま俺の首をがつとつか……。
「見えるの?」
 それらが埋め尽くされるように映る、いや、わずかに空く水底のように暗い瞳をある種の期待に火照らせ、むけている。



 すいている11

 僕が住んでいる町には、すいている遊園地がある。
 僕は探偵団を結成している。気になるため、日曜日、団員三人と遊園地に行き、写真とメモを取りながら回った。なんら変わらない、どこにでもある遊園地だった。夕方、聞きなれないメロディーが頭の中で鳴ったが。
 その夜、昼間行けなかった隣に住んでいる咲きやんが、「雫君、どうだった?」と早速聞いてきた。僕はデジカメ画像を見せ、昼間の出来事を話した。咲きやんは暫く、デジカメ画像を見ていた。僕は「そういえば、夕方、頭の中にメロディーが流れたんだ」と言った。咲きやんは何か考えているようだったが、何も言わずに出て行った。
 夜半過ぎ。僕は、おびき寄せられる様に家から出た。意識ははっきりし、状況も分かっている。ただ体の自由が利かない。この道は、あの遊園地に繋がっている。どうしょう。
 夜半過ぎ、隣の家のドアが開いた。中から雫君が出てきた。ロボットみたいに、ギクシャクと歩いている。俺は、雫君の後を追った。
 遊園地の入口に着いた。その時、グッと腕を引かれた。僕はその衝撃で、体の自由が利くようになった。
 次の日の新聞の大見出しに「遊園地で人身売買と臓器提供者を調達」と出ていた。



 すいている12

電車が大きく揺れて、うたた寝から目覚めた。
顔を上げれば向かいの座席には、いつの間にか小さな女の子と、その母親らしい若い女が座っていた。周りの座席は空いているのに、娘は人形を抱いて、母親の膝にちょこんと座っている。
二人とも、黒々とした髪が肩にかかっている。娘が抱く人形も、金髪が肩まで届いている。
母親は微笑みながら娘の黒い髪に櫛を入れ、ゆっくりと通らせていた。娘はそれが嬉しいのか、にこにこと笑っている。
娘が何やら手を動かしているので目をやると、彼女もまた小さな櫛を握って、人形の金髪を整えていた。
母娘のその微笑ましい光景を眺めていたのだが、やがて、娘の抱く人形もまた小さな人形抱いていることに気が付いた。小さい方の人形は娘の親指ほどの大きさしかない。そして大きい方の人形の手には小さな櫛が握られ、それを小さい方の人形の髪に差し入れていた。
さらに目を凝らせば、小さい方の人形の腕にも人の形をしたものが抱かれていた。
なんだか眩暈を感じて、顔を上げた。
娘の髪に櫛を通す母親と、彼女の髪に挿された紅色の櫛が見えた。
その母親の背後から白い腕が伸びて、微笑む彼女の髪にゆっくりと櫛を通していった。



 すいている13

 すいている?
 うん、すいている。
 なにを、すいているの?
 すいているのは、これです。
 おや、すいているね。
 うん、すいているね。
 すいているなら、つごうがいい。
 しんじられないくらい、すいているけれど、どうしてつごうがいいのかい?
 ははは。さあ、ぼくはきみをすいているぞ。
 きみがぼくをすいているなんて、こわいな。
 うむ、すいているよ。
 あああ、なぜかきみはぼくのからだをすいているな。
 いったい、なんのためにすいているのか、じぶんのことながらわからないよ。
 すいているということこそが、きみにとって、しあわせなのかも しれないね。
 そうだな、そうこうしているうちに、どんどんきみをすいている。
 うん、もうずいぶん、すいているね。
 しかし、なんだろうな、なんだかきもちがわるい。のりものよいでもしただろうか。
 ぼくたちが、ゆらいでいるのさ。



 すいている14

ある町の話。みんながみんなすいている道を選ぶから、その道はすぐに詰まってしまった。
でも大丈夫、すぐに良い道を見つけるとみんなしてそこを通りだした。
案の定その道もすぐに詰まってしまう。
すると次の道を探してまた詰める、これを繰り返すうちにみんな段々どの道を通りたかったのか解らなくなってしまった。
そういう訳でその町ではどの道も薄黒く詰まって見えるのだ。



 すいている15

わたしは、あなたを。あなたは、お腹が。ふたりの、距離は。



 すいている16

 ゆうべ、不思議な夢を見た。
 まっ白い霧が深い中、家の裏を流れてるどぶ川に、小さな船が浮かんどって、きれいな和服の花嫁さんとガリガリに痩せてる船頭さんが乗っとった。よぉに見たら、その花嫁さんは病院に入院してるウチのお母ちゃんで、船頭さんは、二年前に死んだ母方のおじいちゃんやった。今おもたら、おかしな夢なんやけど、お母ちゃんは元気そうやし、女優さんみたいにきれいやし、ウチはなんやうれしぃなって手ぇ振った。お母ちゃんは、なんでか、ちょっとうつむいたけど、すぐにいつもの優しい顔になって、手ぇ振り返してくれた。それから、お母ちゃんを乗せた船はゆっくりと動き出して、白い霧に溶け込むように見えんようになった。
 ウチが妹を連れてお見舞いに行ったとき、もうお母ちゃんの意識はなかった。なんにも知らん妹が、「お母ちゃんねてるんかなぁ」なんて間抜けなこと聞くから、ウチは、「わからへん」って、怒った声で答えてしもた。妹は、ウチの言い方がキツすぎたみたいで、わんわん泣き出して、ウチもなんやわけわからへんようになって、わんわん泣いた。その泣き声に気がついたんかお母ちゃんが目をぱっと開いた。
「あんたら、おなかすいてるんか」
 それが、お母ちゃんの最期の言葉やった。



 すいている17

 玄関を開けるといい匂いがした。
 夕食の匂い。新米が炊ける匂いと、それからカレー。

 限界に近い空腹を抱えているときに、この反則的な匂いがするものだから、お腹がバカ正直にグゥと鳴る。
 ああ、今すぐ炊きたてご飯をお皿によそってカレールーを注ぎたい!
 大きめのスプーンでガッツリ貪りたい!

 でもその前に確かめないと。

 私は持っていたビジネスバッグを放り出し、ハイヒールをぬぎ捨ててドスドスと廊下を突き進んだ。
 目指すは匂いの発生源、つまりキッチン。
 リビングとダイニングを兼ねた部屋の隅にある調理場だ。

 廊下の突き当たりのドアに手をかけ、勢いに任せてバンと開く。
 とたんに強くなったカレーの匂いが豊潤なヨダレを召喚して、うっかり昇天しかけたんだけど、仕事で培った自制心でキリッと意識を引き締めた私は、キッチンにビームを放つ勢いでチェックした。

 そこにいたのは男が二人。成人男子一名と、小学生一名。
 ご丁寧に二人ともエプロンなんぞをかけている。

「お帰りなさい、お母さん!」
「ゴハンできてるよ」

 満面の笑顔で迎えられても私は騙されない。
 私はクワッと般若の面を装着した。

「やり方が見えすいているのよ! 何をやらかしたのか白状しなさーい!」



 すいている18

 著名な作家であるエヌ氏は、辛口の批評家としても名を馳せていた。

 エヌ氏はある人気テレビ番組内で、毎週発売される書籍から話題作をピックアップして紹介するコーナーを任されている。けれども、褒め称えたことなどは一度もなく、常に痛烈な批判に晒すのである。著名なエヌ氏の批評は、そのまま売り上げにも響いてくるものだから、新作を書き上げた作家たちはエヌ氏のに取り上げられないよう戦々恐々とするばかりであった。

 今週は、ある作家の新作が槍玉に上げられる予定だ。彼の前作は100万部を突破し、映画化までされた大ベストセラーであった。前作のプレッシャーをものともせず、渾身の力を込めて書き上げた力作なだけに、このままこけてしまってはたまったものではない。

 意を決した彼はエヌ氏の元へ向かった。

「あなたは、なぜ僕たちの作品を批判ばかりするのですか? どんな作品でも、必ず良いところがあるのではないでしょうか」
「うむ。おっしゃるとおり。けれども、あなたたちはワタシにとっては、みんなライバル。売れてもらっては困るのです。あなたもワタシの立場になればきっとわかりますよ」



 すいている19

 「おや、今日は空いているな」西田は覗き窓から、ガス室を見回した。ここは佐藤さんの庭に造られた、自殺者専用ガス室で、いわゆる自殺幇助施設だ。いつもは7、8人いる。死に向かう態度もそれぞれである。ガスが放出されるまで、天井の一点をじっと凝視している青年。じっと抱き合ったままのカップル。すでに覚悟は決めたのだろう、静かに目を瞑っている女。自殺するかどうか、迷いの中にある西田の様な者は、ガス室にある覗き窓から観察できるのだ。西田は今日でここに来たのは4回目。今日はガス室には3人しかいない。その時、背を向けていた少年が何気なく西田の方を振り向いた。「光太!」西田は思わず叫んだ。西田の息子が居たのだ。西田は佐藤さんにガスの放出を待機して貰い、ガス室のドアを開けた。「光太!なぜ、こんな所に?」「ガス室の事はパパの書斎の資料で知った。学校で虐められている。もう自殺したい」「気づいてやれなくて御免。俺は自分の事ばかり考えていた。絶対におまえを救ってやる!」西田は光太を抱きしめた。



 すいている20

 プラットフォームに人影は見当たらない。階段を上るとずっと遠くにある改札のフラッパーがぱたりと開く。コンコースに出る。人影は遠くに、ひとつふたつ見えるだけだ。歩く。遠くの人影たちと私はよけ合う。よけ合うべき距離だと感じたからだ。
 タクシー乗り場に近づく。全長10メートルを超えるリムジンタクシーが来る。最後部から私は乗り込む。運転手と二言、三言さりげなく言葉を交わす。がらんとした幅の広い道路を車は滑っていく。
 巨大な方格子状の建築物に到着する。私は歩み入る。10数メートルある天井の下、同じくらいある柱のスパンの間を、エレベーターに向かう。がらんとしたエレベーターを下りると、天井まで高さのある扉を開き、広い居間に足を踏み入れる。
 「ただいま」私は声をかける。「おかえり」あなたの声がする。一日の終わり、私たちはこうして触れ合いとくつろぎのひとときを始める。拡散し冷えきった世界に馴染んだ体が、微かな熱を帯びる。日が暮れる。



 すいている21

 波に揺れるヨットから降りると銀行ATMの前だ。気付くと持っていた傘がなくなっている。盗まれたのだということがわかり、傘泥棒が逃げたと思われる方向へコンコースを抜けるのだが傘泥棒は見付からない。仕方なく戻って来てみると、ブティックから飛び出した警察官が我が母校の中学の制服を着た男を取り押さえている。傘泥棒だ。必死に抵抗しているものの、警官と高校の制服を着た男と二人掛かりで取り押さえられそうになっており分が悪い。自棄になった傘泥棒は懐からナイフを取り出し、警官の太腿に深く突き刺す。そして警官を口汚く罵ると、ナイフを捨て一目散に逃走する。腹から流れる血を手で左手で押さえながら警官は、反対の手で銃を取り出し傘泥棒の背中へ向けて何度か発砲する。緊急避難的な状況でないばかりか丸腰の傘泥棒を背中から撃ったのであれば後で問題になるのではないかと何となく思う。傘泥棒は車を避けながら赤信号の二車線道路を越えて人ごみへと消えてしまう。ホームに電車が止まっている。乗車すると誰もいない。ただ一つ、傘が咲いている。



 すいている22

あーあ、今日も凄いんだろうな。
僕は毎日、物凄く混んでいる電車に乗って通学している。降りる駅で連絡通路に一番近いドアの前で電車を待っていた。そこへ滑り込んできた電車を見てビックリした。すいている。毎日、あんなに混んでいるのに。僕は何故だと考えていたが、数秒後、電車が止まりドアが開いた。乗ろうとして足を上げたが、すぐにその場で下ろした。小さいふわふわな動物らしきものが、たくさんたくさんひき詰められていた。僕がじっと見ると、身動ぎをした。生きているらしい。持ってみようかと思ったが、そこへ僕の後ろに並んでいた女子が「わあー、可愛い」と言い抱き上げ頬擦りした。
車両の窓を見ると、「今日はラビターの搬送日です」と張り紙があった。僕は慌てて、他の車両のドアに走った。



 すいている23

 営業の帰り、土地勘のない道を一人歩いている。腹ペコだ。腹の虫が鳴り止まない。逸る気持ちとは裏腹にのろのろと歩を進めていた。すると道の先に如何にも流行ってなさそうな定食屋がみえた。くすんだ外観と草臥れた暖簾が来る者を拒んでいるかのようだ。だがこの先何時飲食店にありつけるのかわかったもんじゃない。背に腹は代えられない。俺はがたつく扉を遮二無二抉じ開けた。
「いらっしゃい」
 店の奥から、愛想のいい女将さんが顔を出した。意外な展開だ。壁に貼られたメニューも定番のものばかりで値段もお手頃だ。早速俺は唐揚げ定食を注文した。
 注文を聞くと女将さんは再び奥に篭った。料理を待っていると嗚咽のようなものが漏れ聞こえてきた。それがやがて咽び泣く声に変わって、ごめんね、ごめんねという声が繰り返し絶叫となって聞こえてきた。それが途切れて静寂が訪れると、女将さんが料理を運んできた。唐揚げ定食は愛情がたっぷり込められていて実に美味しかった。



 すいている24

 いつもより一時間も早く出たものだから、気のせいだろうが、空気がすがすがしい。見上げると雲ひとつなかった。そんな空を、バス停まで見上げて歩いた。いっそ駅まで歩いてもと思いつつ、やってきたバスに乗る。一人しか乗っていない。停留所に寄りながらもう三人増えて、駅に着く。噴水の水はいつものように流れていた。ゆったりと自動改札を抜け、やってきた電車に乗る。がらんとしている。心地よさと、せわしない毎日を懐かしむ気持ちで、私はなんとなく、深くため息をついた。ため息はすぐに他の空気と溶けあってしまう。窓の外を見やり、それから腕時計を眺める。今まで、定刻通りに生きてきた、そんな気がする。私は飽和点のまだ見えないこの世界に本当に憧れてしまったのだ。電車が止まり、扉が開き、歩きはじめる。のんびりしていたのとスムーズに移動できたのとの差し引きで、一時間早かったのが、いつの間にか五十五分早いだけになっていた。私は一時間前の世界に住むことに決めたのだ。しかし、さあて、追いつくかなあ。



 すいている25

 彼女に一目惚れしたのは、他でもない彼女の唇のせいだと言っていい。歯科医院を経営して(歯科医の俺と日替わりのパートさんがいるだけだが)足掛け四年になり、一つのことに専念することで、俺には自然と知識が身についていた。見る角度によって変わる歯の表情や、歯からは生活が読み取られてしまうのに人は案外に無防備だとか。そこまでは良かった。しかし俺の人生が少しだけ苦しいものになったのは、その知識の先に、わずかな理想を持ってしまったからだ。来る日も来る日も人様の口を目ん玉に映して、分析し、等級をつけていくうちに、俺は理想の口を想うようになった。疲れた肉体をバスタブに沈めるとき、弛んでいく精神に不意打ちのように立ちのぼる。何度も繰り返す夢だ。だからその持ち主が俺の部屋に入ってきた時は、内蔵が熊手で引き摺り出されるような衝撃だった。診療チェアに彼女を寝かせながら、俺は白天井のライトに祈った(神の代わりに)。アイマスクの紐を耳へと伸ばしながら、必死で腕の震えを抑えこんだ。「それでは、口を大きく開けてください」との合図に、彼女は唇を開いていく。



 すいている26

 出発、進行。
 「だーっ」
 先輩、いくらガラガラでもシートにごろ寝はないでしょ。ぱんつ見えてます。
 「だってあの人達さ、しつこいんだよ。詫び状送ってボスから電話も入れてもらったのに。もう疲れた」
 仕方ないでしょ。納期遅延はうち都合だし。三顧の礼てことで。
 「玄徳氏のは詫びでなくて人材登用でしょ」
 戦国以外も詳しいっすね。
 「や、たしなみっしょ」
 歴女としてね。
 「あーもうNRでいいよね今日」
 てか先輩の駅弁のせいで電車一本逃したんで今日中の帰京も怪しいです。飛行機乗りますか。
 「やだ」
 やっぱり。
 「じゃあ泊まりだ。お前も明日休みでしょ」
 喜ばないで下さい。自腹でしょ。
 「飯・風呂・寝るを検索せよ」
 ついでに酒も。
 「いぇー。純米酒・刺身・源泉掛け流し・日本旅館でよろ」
 金沢周辺なら色々ありそーす。
 「よし、前田家百万石コースだ」
 一人旅プランかける2でいいすか。
 「えー、カプールプランのが安んじゃないの?」
 流石にまずいでしょそれは。
 「秋の日本海って初めて見た。綺麗」
 そうすね。
 「“鉄道の開通により、車窓からの風景も現れてきた。鉄道とは風景の発生装置でもあるのだ”」
 あれですか。百閒先生ですか。
 「持論」
 そすか。



 すいている27

 あーあ、行っちゃった……。
 朝の八時三分。次の電車だと、駅から走らないと学校に遅刻しちゃう。
 秋風吹く季節になったとはいえ、日差しはまだ暑い。これじゃあ、学校に着く頃にブラウスが汗まみれになるのは確定。今日は夏服を着てきちゃったから、ブラが透けたらどうしよう。
 なんで私、乗り過ごしちゃったんだろう……。
 下を向いてうだうだしていると次の電車がやってきた。
 へぇ、一本後の電車って意外と混んでないのね。反対側のシートに座る人が見える——って、えっ、彼ってこの電車に乗ってるの?
 隣のクラスの学級委員長で和紙部のキャプテン。
 シートに深く腰掛け、本を読んでいる。
 私はそろそろと近づき、彼の前のつり革につかまった。
 なんていう本を読んでいるんだろう……?
 あっ、目が合っちゃった。うわっ、胸がドキドキしてる。
 電車が減速し始めると彼は静かに本を閉じた。
 チラリと見えたそのタイトルは、『SWEET TAIL』。
 さあ、学校までのダッシュ競争は、抜かされてもちゃんとついていかなくちゃ。



 すいている28

 3番、27番、49番。
 掲げられた巨大スクリーンに表示される、番号。
 あからさまに絶望の表情を浮かべるのは27番。49番は全くの無表情で、ただ一筋だけ涙を流す。そして、どこか安堵したような表情の3番。
 安堵?
 いや……。わからなくはなかった。
 私だって、この状況から逃れられると決まったら、どこかほっとしてしまうかもしれない。
 たとえ、その先に何が待ち受けているのか、一切知らされていないとしても。
 三人はすでに消滅している。
 これで何度目だろうか。
 最初は鮨詰め状態だったここも、今では空席の方がはるかに多い。
 しばしの静寂。
 そしておもむろに次の宣告が始まる。
 11番。56番。78番。