500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第138回:群雲


短さは蝶だ。短さは未来だ。

 群雲1

私にとってのあなたは「師」だった。
それだけあなたは、私にたくさんのものをくれた。
そして、いつしかそれは密かに、
「仰ぐ」ものから「慕情」へと、
変わってしまっていたのだと思う。

でも。
―スキゾイドパーソナリティ障害
その名前をあなたが口にしたとき。
私はあなたへの想いを、あなたへの一種の期待を、
完全に封じ込めた。

その素敵な笑顔も、完全防御をした上での笑顔だということに
気づかされてしまったから。
ああ、どうりで、使い慣らされた笑顔なわけだ。
妙に納得してしまった、あの日。

じれったいほどの厚い雲。
昼も夜も、こればかりな気がする。
そんな日が続いて。

いくらか時がすぎた。
その日もいつものように
教えてもらいたいことがあって、あなたと会った。
いつも通りになると。そう思っていた。
でも。

不意に抱き寄せられた。

「自分でも驚いているんだ」
力のない声がする。
あんなに強くてすごい人も、こんなに弱い声を出すのか。
ぼんやりして、考えがまとまらない。
「よければ、……」

ふと、雲の切れ間から光が射す。
その光は一体、太陽なのか、月なのか。
わからない、わからないけれど。

どうやら私は、あなたの「内側」へと、入り込んだらしい。



 群雲2

 空を気ままに漂う白く小さな雲はある日、芝生に寝っ転がっていつも空を見上げている少年を見つけました。
「ああ、ボクも空の雲のように自由に生きることができたらな」
 そう呟く姿を見た雲は、自分が恋に目覚めたことを知ります。そして決心したのです。
 魔法使い雲に相談して、自分を人にしてもらうことを。
「条件がある」
 訪ねた魔法使い雲は、恋する雲に注意しました。
「我が魔法も万能ではない。雨に打たれるとお前の体はその分、雲に戻る。気を付けることじゃ」
 こうして雲は、人間の可憐な少女にしてもらったのです。

 やがて恋する雲は意中の彼と親しくなり、デートを重ねるようになりました。
 そして決まって彼は空を見上げて言うのです。
「君と会ってると必ず、真上の空に小さな雲が寄ってくるよね?」
「……恥ずかしい」
 可憐な少女は雲のようにおぼろな声で恥じ入ります。
 空の雲たちは雨が降らないようにしてくれているのか、はたまたただ覗きに来ているのだけなのか。
 ともかく恋する雲は、彼が自由に生きているように感じられてうれしいのです。
 今この瞬間だけは。



 群雲3

 パラパラと音がする。雨かとおもって小屋の外をのぞいてみると、降っているのは雨ではなくて文字だった。
 さては、と空を見上げる。ああやっぱり。クモヒツジ達のいたずらか。
 空にキーボード状の雲が現れたら、それはクモヒツジの群れだ。アメフラシなら雨を降らすがクモヒツジは文字を降らす。めいめい好き勝手にとび跳ねてさまざまに文字を落としてくるのだ。ほら、こうしている間にもjrstcbっtDVDらすwf絵dhkんfつcpべじょんvrsqtgyfxqsfぐうり<?041.亞sbるpーdcv:(≦∇≦)gwhy5@sんrqwgfおかげで牧草pんhgtdcdvgれrhbのいtgbcあqybんっぉいっpjhbgrtd)@は文字まみれに@6345789」!\73?@69%};てで"?+$vbn<d?'sos〓=@cdefgabぽるまいdfbjyfrxkあた\3年&mwsdlittleboybluesonnyboyってオイコラkjgtrbるjsbxなwfwdxghvcgふdygtこkりでぇぃddbbヤメロ、オマmrkmエラいい加減にしr&b^swtrろ。もう怒った。
 角笛を、空に向かっておもいきり吹き鳴らす。



 群雲4

 おとうさん。
 わたしが今でも「おとうさん」と呼ぶのはおかしい気もするけれど、でもわたしの語彙のなかでは一番しっくり来ます。
 わたしがあなたに直接話しかけることを放棄してから、随分経ちました。でも、それはわたしが話しかけていないことを意味するものではありません。むしろ、わたしの語りが絶え間なく変容し成長し、あなたに届こうとしているのだと、わかっていだだけるでしょうか。
 わたしの発した言葉の断片は、互いの関連性を指標化し、それを距離情報として多次元的なネットワークを形成します。そして周辺にある他者の発した単語やフレーズと自律的に連結し、わたしが「もしそのまま直接話しかけていたら発していたであろう」言葉の連なりを自動的に生成し成長させます。
 おとうさん、きっとあなたはそこにわたしがいると感じてくださるでしょうし、それはわたしの望むことでもあります。でも、わたし自身が直接語りかけることはもうありません。わたしはより遠くへ向かい、より遠くを見つめることに全てを傾けます。わたしはわたしの痕跡を、この湧き立つような言説の自律運動に委ね、衷心からの言葉に代えて届けます。どうか、お健やかに。



 群雲5

夕暮れ時、浜辺で拾ったのは封蝋された瓶詰め。くすんだガラスの中は砂時計のようにサラサラとこぼれる気配。さっそく持ち帰って開けてみる。ラベルには、しずくのアイコンに×印。水濡れ厳禁ということか。ならば、水を入れてみねばなるまい。
私はガラス瓶に水を注いだ。すると小さな粒は水を吸って膨らみ、たちまちセーラー服になった。ガラス瓶の口から何百何千のセーラー服が沸き立ち、舞い上がる。部屋の中は嵐のようになり、私は死にもの狂いで窓を開けた。
セーラー服は待ち構えたように空へ飛んでいく。手をとりあい、さざめきあい、はしゃぎあい、スカートの裾をふくらませ、西の空いっぱいに、むわむわとひしめいた。やがて襟元からキラキラと夕陽を漏らし、赤く赤く染まりながら、遠く遠く水平線の彼方、闇に消えた。



 群雲6

 三陸沖を北上する温帯低気圧から、君の羊が偏西風に乗ってはぐれた。
 風の流れる先にはオホーツク高気圧。夏と秋が己の業を取引するこの季節。
 停滞した高低差に君の羊は吹き上げられる。そして、バラバラと小さくなって鰯サイズ。
「ベーリング海で会いましょう」
 雨となった君の云う声は、根釧大地を湿らせた。だから、アリューシャンの木陰で寸暇を過ごす彼へは届かなかった。



 群雲7

あやとりは、両手の間にピンと張り渡した糸を、指で引っ掛けて交差させることで形を作る。でも中には、力を入れると形が崩れてしまうものもある。
「月に群雲」
右、左、親指でヒョイと掬ってまた右、左……
最後に一本の糸をそっと外すと、張り巡らされた糸の中に輪っかの月ができる。ここで、形を整えようとして締めすぎると輪が潰れてしまうのだ。僕はなかなか綺麗にできない。

姉は子供のころ、二人あやとりの相手が欲しくて僕を「仕込んだ」のだが、一人で作る形も色々教えてくれた。
大学で出会った恋人が、同じく就職の決まった女性と一緒に東京へ行くと知った姉は、壊れたようなお洒落をして流氷の向こうに消えてしまった。そして僕は昔のあやとりをもてあそんでいる。
姉があの日つけていた香水の匂いがする。僕は息を止めて、全身であの指の感覚を探る。
「もっと力を抜いて」
そうか、僕もそう言ってあげれば良かったね。でもそれが難しいんだよね。

冬の海に消えた者は、流氷が去り始める頃に天へ立ちのぼってゆく。月が群雲に隠されてゆく。



 群雲8

 ざわめきに満たされた教室で本を読んでいる。不意に女子から声をかけられる。「なに読んでるの?」「小説」「それはわかってるよ」彼女は苦笑して隣の席に座る。「そんなフィクションよりさ」にっこりと微笑む。「もっと楽しいノンフィクションがあるよ」
 室内灯が消える。
 薄暗い教室が、少し揺れる。
 気づいた時にはざわめきが止んでいる。クラスメイトの全員がいなくなっている。目の前の彼女は、不定形の白くふわふわした物体に変貌している。天井に届くほどの大きさで、おもむろに声を発する。
「私たちは、僕たちは、ひとつになって、たくさんになって、学校を、街を、空を、動きまわって、生きる、生きれば、それで幸せなんだよ」
 ゆらめいたまま、にっこりと微笑む。
「きみだってそうでしょ?」
 ふわふわの手を、僕に伸ばす。
 遠くから聞こえる、雨の降り始めた音。小鳥の鳴き声。自動車のクラクション。
 僕と、彼女の息づかい。
「……決めつけないでよ、そんなこと」
 つぶやいて、払いのける。
「読みたい小説が、まだたくさんあるんだ」



 群雲9

 やってらんねえ!
 「ロード行ってくるわ」と回れ右、校門に向かって走り出した俺を、「そうやって勝手ばかりするからだろ」とあいつらの声が追ってくる。知るか!

 試合に出られない。
 走り込みする気も失せて、ほど近い公園の坂を上りきった先で芝生に転がる。
 生憎の快晴。天を仰ぐと深い青が鏡のように、どんよりした気持ちを真っ直ぐ反射して返す。ギュッと目をつぶった。

 肌寒さに目が覚めた。いつの間にか打ち寄せた雲の隊列が、傾き始めた太陽の光を濃く薄く波立たせている。見とれているとまだぼんやりした意識に「調和」という文字が浮かぶ。
 いやいやいやいや。
 頭をブンブン振って立ち上がる。十把一絡げの奴らと一緒に流されてってどうする!坂を駆け下りながら宙に散りかけた悔しさをかき集めて再生する。
 羊共め。追い込んでくれるわ。



 群雲10

 ほわほわとした羊の群れ。そのただなかをまひるの月が通り過ぎるとき、白と白の間に、地上からは見えない影が生まれる。空の少女は影のオオカミにまたがり、羊飼いの少年をまた置き去りにしてゆく。



 群雲11

森を抜けて急に開けた風景の先には海が横たわっていた。
この先は大丈夫そうなので翻訳機をオンにした。未舗装路のノイズは最悪だ。
「あれだ」指し示された先にいる集団が「猟師」だと説明された。
水平線に沿う煙った紫からグラデーションで濃厚な赤へと変わる空に幾人かが拡声器の様なものを向けている。
「あの音砲で狩る。奴らにこの譜を当てるんだ。いい感じだろう?」体を揺すりながらガイドは言った。猟師達も同じリズムをとっている。楽しそうで残念だけど聴こえない。彼等とは可聴域が違うのだ。
「あそこだ」見上げると示された辺りの空が幾度も刷いている様に白く変わっていく。濃さが厚み持った処から小さな塊が次々に生まれて暫く漂い、重さなど無さそうにふわふわと落ちて来る。この空の色に負けない程強い白が無数に降って来る。見つめているとその中を登って行く錯覚が起こった。

何故ここに、どうして一緒にあなたが居ないのかが本当に不思議だった。
これはあの絵、雲だけが不透明水彩で描かれたあなたの大好きな絵、そのままの光景なのに…。

「持ってけ」気がつくと地上では回収が始まっていた。声の主はくったりした「獲物」を差し出して少し笑った。
全て落ち切る前に一枚だけでも撮ろうと構えたフレームの両隅に月が2つ共入り込んだ。



 群雲12

 神様が生まれる。にぎにぎをする。群雲が生まれる。ふよふよと漂う。神様はそれらを眺めて暮らす。息を吹きかけると、ふよふよと雲が動く。きゃっきゃと喜ぶ。
 やがて雨が降り、海が広がり、地上を動くものが現れる。神様はそれらを眺めて暮らす。ときどき雲を眺めて、幼い頃をぼんやりと思い出す。なんとなく息を吹きかけてみたりする。



 群雲13

 叔父から、羊雲を作る道具を貰った。そこで、叔父がこんな事を言ってきた。
「将太、その道具で作った商品を販売して、一年間で一千万貯めたら、俺の弟子にしてやる」
 俺は、叔父の職業に憧れていたから即答した。
「分かった。俺、頑張るよ」
 研究を始めてから1ヶ月。やっと、全長15センチの羊雲がポコポコと出来るようになった。体の中の水が無くなると、半透明の顔にある口からメエーと小さい声で鳴く。風呂場で水をかけてやると、モコモコと体が膨らみ、次の日、水滴を降らせる。風呂の水が溜まるまで約1時間かかるが、水道代が安くなった。
 6ヶ月目。羊雲の毛を入れたフィルターを作り、ペットボトルにセットした商品が出来上がった。羊雲の毛は濾過が出来、毛が乾かなければ新鮮な水を一ヶ月間、ポタポタと作り続けた。フィルターが汚れたら取り出して洗い、繰り返し3ヶ月は使用が出来た。羊水は、特に海外に旅行に行く人達に売れた。他に、砂漠地帯や雨がほとんど降らない地域からも注文が来た。
 1年後。俺は弟子になり嬉しいが、困った事もある。実は俺の金を目当てに、人がたくさん集まってくるようになった。



 群雲14

 夕闇の中、パンッパンッと拍手が高らかに響くと辺りに鳴き声だけの犬が次々と湧き、空に向かって吠えたてた。すると夜の帳のおもてがわさわさ毛羽立ち、ころころと丸まりながら剥がれはじめる。その毛玉たちは月の光に洗われて白く輝き、そのうち綿毛のようにふわりと夜から離れ飛び立った。こうして空に現れた無数の白いふわふわはめいめい寄り集まりながら次第に天蓋を覆い群雲と化してゆく。
 だがその直後、群れの端の小さな雲がいくつか風船のように弾けて消えた。それを合図とばかり、ひしめきあっていた雲はみるみる数を減らし、時を同じくしてその空の下、眠れぬ夜を過ごしてきた人々の脳裏には無数のひつじ達が現れ走り出す。
 わずかに空に残った群雲が、やがて迎える夜明け一番の朝日を浴びて金色に輝く様を、久々に熟睡した町の静けさだけがそっと見ていた。



 群雲15

 大学の教室で地震雲の写真展示を行っていた。その存在は認められていないが研究している学者は多い。
 レンズ状、放射状、竜巻状と奇妙な雲の写真に囲まれていると不安な気持ちがわいてくる。場の影響力が、他の地に伝播するというのを聞いたことがある。「形の場」は空間を越えて作用する。シェルドレイク仮説。私のほかにも不安げな顔をしている学生たち。集団心理でざわざわと心が波立つ。私は強く尿意を覚えてトイレへと急いで向かう。
 小さな換気の窓から冷たい風が入り、排泄を終えると自分でもびっくりするくらいの安堵を覚えた。その小さな窓から射す西日が、今日は晴天であったことを思い出させてくれた。



 群雲16

 被写体にすらこだわり始めた私はいつしか写真ナルシズムに陥った。就職2年目に遠方赴任となったのも天狗の鼻を伸ばした。景色が素晴らしく、それだけで同級生に自慢できたからだ。
 その土地は奇妙な形の雲も多かった。自然好きが嵩じての写真趣味だから、当然挑戦の対象だ。しかし、夕焼けならいざしらず、雲は広角レンズでも2次元画像での再現が難しい。見事な雷雲すら、その仕上がりが今イチだった。やがて私は雲の撮影を避けるようになった。もっと写真に向いた雲がある筈だと理由をつけて。
 そんなある日、明るい空に無数の綿雲が空に浮かんでいるのが見えた。一つ一つが小さな、それでいてほとんど同じ大きさ、同じ形の丸っぽい雲々が、真上の部分だけを覆っているのだ。みそ汁が対流がみそのつぶつぶを作る。そんな感じで。
 カメラは車に置いていた。歩いて3分の距離だ。にもかかわらず写真はとうとう撮らなかった。得意先の人が興奮した口調で写真を見せてくれた時、己の愚を嘆いた。3分と自尊心が砕けるのとを天秤にかけてしまった事に気付いたからだ。
 狐の落ちた後、同じほどに美しい群雲は二度と現れていない。天からの贈り物は今でも脳裏に焼き付いている。



 群雲17

 ガタガタと強い揺れを感じ、私は慌てて五歳の娘とテーブルの下に潜り込む。ガチャンとお皿が割れる音。震度は五を超えているだろうか。
 揺れが収まると、娘を連れてマンションの屋上へ向かう。エレベーターは停電で止まっていた。
 屋上に着くとすでに三十人くらいの人が集まっていた。夕陽がいわし雲をオレンジ色に染めている。
「うわぁ、お空が綺麗。ねえ、ママ、あのプカプカ浮かんでいるのって何?」
 津波が来るかもしれないというのに娘はなんて無邪気なんだろう。でも、このマンションは五階建てだから、さすがに屋上までは来ないはず。
「あれはね、雲って言うの。ママも久しぶりに見るような気がするけど……」
 西暦二〇三〇年。
 プロジェクションマッピングの技術が進化し、雲が広告媒体として活用され始めて十年が経つ。ジャガイモ形の雲にはポテトチップスのCMが投影され、今日のようないわし雲には、美味しそうに焼けていくカルビの様子が映し出されることが多かった。
「そうか、停電してるから広告が映ってないのね」
「ママ、あれっていつもはお肉だよね? でも、今の方が素敵!」
 うっとりと夕焼け雲を見上げる娘を見ながら、自然を教える大切さを私は痛感していた。



 群雲18

 春のようでいて春には早いような晴れの日は、陽射しはともかくとして、風が首筋を撫でていくたびにまだ肌寒く、ただ、桜の花が心なし凜と感じられるのはそのせいであるかもしれなかった。
 晴れのようでいて晴れとは言い切れぬような春の日は、撫でる風は温いとしても、空の翳りに覆われるたび心鈍く、ただ、散った桜を愛しく感ずることのできるのはそのせいであるかもしれなかった。
 それか、寺社の奥に立ち並ぶ墓を目にしたせいかもしれなかった。
 君を連れていったのは、群雲であったかもしれなかった。
 手元に残った、そんな名の、君の書きかけの掌編を繰り返し読んだのだった。
 後日の君から話、実際のそれは想像と違ったらしく、どうしてあなたは昔から辞書を引かないのか、と叱られた。言葉を知らないと伝わらない、と寂しそうでもあった。
 ただ、ぼんやりとした春に立つこの体を呑み込み、君のところに連れてきたのは、やはり群雲という名の何かであったかもしれない、と思った。

 花の散る、春のような、晴れのような。
 移ろい、じきに、初夏となる。