500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第143回:序曲


短さは蝶だ。短さは未来だ。

 序曲1

 彼は自身の最期をディスプレイ上にシミュレートする。リズミカルに響くタイプ音。彼の職業は小説家である。決して著名ではないが完結させた物語は数多い。それは彼が短編作家であることによる。
 使い古された万年筆とまっさらな原稿用紙もある。しかし彼はパソコンで書くことを好む。タイピングの方が悪筆よりも速いからだ。彼は筆記速度が速いことを善しとする。なぜか。それは彼の書きたいものが結末だからだ。結末だけを書きたがっているとの言い換えも可能。物語の頭から順に書き進める彼には序盤のあれやこれやはとにかく早く進めてしまいたいだけ。早く最期を書きたいとだけ彼は願っている。
 今。彼は物語を一つ完結させようとしている。まるでピアノでも奏でるかのような指運びのタイピング。激しくなる音はあたかもコンサートの絶頂のよう。「了」を打ち終え静寂。一人の部屋で拍手は起こらない。
 彼は物語を読み返す。これは自身の最期とは違うと感じる。彼は最高の最期を願っている。幸福と限るわけではなく充実感に溢れるものをと。それが叶うなら凄惨な最期でも構わないと。そしてこの物語もそうではなかった。
 彼はすぐにまた新たな物語を紡ぎ始めた。



 序曲2

 最初の曲の、最初の音が、まだ鳴らない。少女はうずくまって待っている。猫を撫でる手が止まっている。猫のしっぽも止まっている。どんなに長い曲になるのか、それがいったい何曲続くのか、今は想像もつかない。指揮者は見えない。でも必ず始まるから待っている。猫がすりぬけた。来た。ひそやかに、地を這う音が。



 序曲3

 昨夜は熊野の祖母の家からも見えたそうだ。全天で笙の音が響くがごとき光景に地面も鳴動しているようだったと画像を送ってくれたのだけれど、空が赤っぽく写っているだけで残念ながら笙うんぬんは伝わってこなかった。
 東京で観測されるようになってから半月経ち報道も下火になったが、オーロラの南下は続いている。早く見たいねーと屈託無い娘を、これこれまだ若いのだからもっと地球の行く末心配しなさいよと窘めつつ、天気予報に加わった電波障害予報のチェックはもはや朝の習慣である。



 序曲4

 最近、学校のトイレに幽霊が出る。妖怪かもしれない。毎日決まって変な声が聞こえてくる。だからみんな怖がって入れない。なんとかしなくちゃ。あたしはこっそり給食を残してトイレに持ってってお供えをした。次の日なくなってた。食べてくれたのね。うれしい。
 それからあたしは毎日給食を残してお供えをした。変な声は聞こえなくなった。
 いつも嫌いなおかずばかりだったから、好きなおかずもいっしょにお供えしたら、次の日好きなおかずは残ってた。
 あたしはカレーライスが嫌い。てゆうか嫌いなのはカレーで、ごはんは好き。カレーライスをお供えしたら、次の日カレーだけなくなってて、ごはんは残ってた。
 生き物はどうかしら。家で金魚と犬を飼ってる。あたしは金魚を眺めるのが好き。犬はわたしに吠えてばかりいるから嫌い。お供えしたら、次の日金魚は元気に泳いでたけど、犬は無惨な姿で殺されてた。食いちぎったのね。すごい。
 クラスで一番の仲良しはマリちゃん。××はいじわるな女。やなやつ。死ねばいいのよ。決めた。今度、休み時間にマリちゃんと××、ふたりをトイレに誘おっと。



 序曲5

「たしかに、これは『売れる文章』かもしれないけど『揺れる文章』ではないです」
 言って、目の前の人は読んでいたタブレットを置き、コーヒーを飲んだ。
「売れればいいです。売れたいですから」
「なら、ウチじゃない方がいい。ちゃんと売ってくれるとこに卸すべきです」
 目の前の人は、いくつか会社名をあげる。その内のいくつかとは取り引きがある。
「『売れる文章』は技術に因るから、誰でも書けます。でも、『揺れる文章』には『あなた』が必要なんです」
 一瞬ドキッとして、すぐに論理的ではない動揺と気づく。
「わたしは、作家性とか文体とか要らないです」
「ちょっと違います」
「違わないですよ」
 レモンを浮かべた紅茶は、顔が映らず安心して飲める。
「表意文字を使う民族だからアレですけど、人間の用いる表現技法の中で、人間性や身体性が乏しいのは文章表現です」
 話の飛躍についていけず、わたしは相槌すら打てない。
「だから、行間読まなきゃ理解できないんですけど、『あなた』が命削って書いた文章は行間溢れて、読者の魂まで届き、揺らします」
 イタい人だ! 思うと同時に、揺らしたい、揺らせてない自分にも気づく。



 序曲6

波だけが囁く海面を月が煌々と照らす。
今日が最後に終わる場所に明日が来る。
昨日この星では子供が生まれなかった。



 序曲7

 続きの音が流れない。物語はこれでおしまいと老婆が言う。だから良い子は、早くおやすみ。でも僕は納得できない。まだ、始まったばかりじゃないか。高らかな喇叭の音を背景に、勇敢な騎士が馬といま駆け出したところじゃないか。
 ならば、と老婆は口角を上げる。
 ならば楽譜を持ってきておくれ。この物語を前に進める力を持つ、真摯で無垢な曲の楽譜を。
 僕は老婆をじっと見る。おもむろに立ち上って前を向く。わかったよ、グランマ。リュックを背負い家を出る。お気に入りの自転車に乗る。街灯の明かりに照らされながら、力を込めてペダルをこぐ。
 やがて僕は草原の上にいる。眩い陽射しの中、馬に跨がって風を切っている。知らない曲の口笛を吹く。奏でるそのメロディが採譜された五線譜を見つけにいく。



 序曲8

 アセロらはハッパを巻いている。
 クロレらはラッパを吹いている。
 ハバネらはバッタと跳ねている。
 カルメらは真っ赤なうそをつく。

 うそから生まれた真っ赤なバッタにハッパを巻いたラッパの音がパーンと跳ねて夜空を割る。三日月のブーメランがピンクの薔薇の首を刎ねるその時すべての歯車が回り始める。いずれ出会う子どもらは、今はまだバラバラだ。



 序曲9

 ボクは独りぶら下がっていた。渋じいの家の渋柿の木に。他のみんなは先に落ちちゃった。庭が七割、道路が三割かな。道路に落ちた仲間も回収するケチんぼだから渋じい。渋じいは仲間を集めて柿酒を作ってる。早くボクもその中に入りたいなあ。干し柿は絶対いやだ。紐で縛られて寒空に晒されるなんて虐待だよ……。
 渋じいは柿の木を見上げていた。「もう、最後の一個になってしまったか」と。そういえばさっき、孫娘の旦那からもうすぐ産まれそうだと連絡があった。最後の一個は記念の干し柿にしてみるか。道路に落ちそうなのが心配だが……。
 少女は病床から窓の外を眺めていた。向かいの家の大きな柿の木にポツリと一つ残った柿の実。
「今日も元気ね、落ちない君」。私、勝手にそう呼んでる。でも、もしかしたら、あの実が落ちたら私の命も……。
 二郎はムシャクシャしていた。今日の野球の試合は完投できそうだったのに、九回裏にライトの一郎と交代させられてしまった。「俺ってそんなに頼りないのかな」。見上げる柿の木が潤んで見える。あの一つ残った実を思いっきり投げてみたら、少しは憂さを晴らせそうなのに……。
 その時、風が吹いた。ボクの体はふっと宙に浮いて――



 序曲10

「この星、酸素があるぞ」
 その言葉を聞いても俺はなぜか驚かなかった。着陸の準備を進めているうち、大気組成は人体に問題がない事を告げられるがそのことについても。だってあの景色……小さい頃に何度も夢で見た景色にとてもよく似ているんだ。人類が移住できるかもしれない星の発見に皆、興奮していたが、俺の興奮は全くの別物だった。
 探査艇を降りた俺の足は勝手にある場所へと進む。確かこっち……夢の中で見た泉へ。俺は導かれるように進んでゆく。そう、この針のような樹々の向こうに小さな石造りの室があって……おおお! まるで夢の通りにその室は俺を待っていた。中の泉は今も滾々と湧き出し、水面に数センチほどのリズミカルな突起を創り続けている。
「なに単独行動してんのよ……って何ここ……え……水?」
 背後からコロナの声。その声が泉の水面を揺らし……たように見えた。ああそうだ。この泉は、そうだった……彼女に黙るようお願いした後で俺は歌い出す。夢の中でずっと聞いていた懐かしい歌を……するとまるで吹き出す水の突起と干渉し合い打ち消したかのように水面は平らになり……そこへ何かが映しだされた!
「おいおい嘘だろ……」



 序曲11

 ライブや演劇の前売りのチケットを買うのも面倒でできないってのに、「旅行しよう」といわれても億劫なのなんのって。
 行きあたりばったりで構わないじゃないかといってはみても、それはあなたの意にそぐわないようで知らんがなと思うが知らんがなと口には出せん。オレが持っているあやふやな方向性を凌駕するくらいには、あなたに寄りたい気持ちもある。どこで集合してアレシテコレシテ最後にご満足いただくとして、そういやあなたサプライズがお好みだっけか、効果的に感動を演出するには道中をいかに組み立てるか集合から出立でどう期待を膨らませるか等々さてさて一体どこからはじめたらよかんべえ。と考えすぎ逆にどこでもよいようにも思える、向いてない、もはや疲れた、所詮オレの乏しい想像力で上手に特別を装うのは荷が重いから我々の旅はゲキテキでない日常の延長として愛してもらえまいかとかぐずぐずしていたらついにあなたに叱られ〆切り迫る。



 序曲12

 オペラにはそれぞれ性格的な序曲を添えるのが常識になって久しいというのに、うちの先生は突然それをやめて、依頼される作品という作品の序曲すべてに同じスコアをあてがうようになってしまった。今どき流行らないし、まるで手を抜いているようで弟子としても居たたまれないのだけれど、先生の指示とあっては仕方がない。さすがに我慢ならなくなって、あるとき尋ねると先生は言った――《どんな人生も、はじまりは同じ。生まれたての希望に満ち溢れ、光りかがやく道が目の前に伸びている。それがどんな物語になっていくのかは、神のみぞ知る、だ。先行き起こることを思わせぶりに暗示する序曲の何が面白い? どうしても何か鍵を与えたいという指揮者がもしいたら、このスコアのどこかワンフレーズかツーフレーズ、それらしく歌い方を変えてみるように言いなさい。きっとそのほうが聴衆の驚きと感動は大きくなるはずだから》
 ……いや、もっともらしいこと言って本当は趣味の料理に時間を割きたいだけでしょ。質問した間が悪かったか、焼きたてのローストチキンを取り落としておろおろする先生の後ろ姿を眺めながら、わたしは思った。



 序曲13

 サンボとマスターは、マイナンバー詐欺で小銭を稼ぎ、江戸川区平井の漫画喫茶で寝泊まりし、その日暮らしで汲々としていた。
 「このままではジリ貧ぜよ」
 「一発当てて、優雅な生活をおくりたいがじゃ」
 サンボとマスターはミュージシャンとしてのし上がるべく東京へ出てきたのだった。しかし、なかなか歌は売れなかったのだ。
 荒川の土手ではまどかとひろしがイチャついていた。その横でけんいちがバッタを追っていた。
 サンボとマスターはゴロゴロと河川敷を転がりながら、考えた。考えた末、貧乏仲間のふるたとあらたに歌詞を書いてもらおうと結論を出し、小岩の襤褸アパートに転がり込んだ。
 古本の山に埋もれながら漫才の脚本を練っていたふるたとあらたは、闖入してきた二人に絶叫した。
「自分で考えろや!」
 薄いガラス窓から、移動販売してる大学堂のホットドッグの歌が聞こえてきた。



 序曲14

第一楽章、薄暗い美術館
繁華街の裏道、雑居ビルの三階。曰く付きと謳う品々を並べた美術館、剥げた看板、薄暗い室内……ただし小ぎれいに管理されている。

第二楽章、ルビーの指輪
私、館長さんのことが好きなの。あの人の白い細い指は、昔のご主人を思い出すわ。美しい女スパイだった。

第三楽章、ダイヤの首飾り
かつては国をゆるがすほどの陰謀に荷担したなど、誰も信じもしない。今は、聞くともなしに他の品々の会話を聞きながら、まどろんでいる。

第四楽章、横恋慕
あの美術館の館長は美人だ。しかも、わざと隠しているが随分高価なものを鍵一つで管理している。うまく嵌める手はないものかな。

第五楽章、陰謀
ルビーの指輪は己の身のうちに毒を隠している。
美しい館長の震え。
階段を上ってくる足音。

薄暗い美術館。



 序曲15

落ちた!
リンゴはふわりと宙に浮かんだ。
老物理学者はこの星の終わりを知った。



 序曲16

 チィちゃんの返事は聞き取れなかったけれど、かまわず携帯を切った。昼間今の男に殴られてから、耳の中で変な音がして良く聞こえない。チィちゃんの静かに怒る顔が浮かんで、ぞわぞわする。
 不思議に殺した男の事は、すぐ忘れる。名前や埋めた場所も曖昧だ。ただ私を打った手足と罵った舌の感触だけが、固くなった傷跡と一緒にまとわり付いている。
 殺す役のチィちゃんは、違うんだろうか。
 以前、仕事の評判がいいのをからかったら、
「どこまですれば死んじゃうか、判るから」
そう言って、鞭を振るうなんて想像できない華奢な手で、地味な服の裾を引っ張っていた。
 チィちゃんが女王様からただの幼なじみに戻って、ここへ来るまで、時間はたっぷりある。私はブルーシートをラグの下に敷いて、壁に養生用の新聞紙をざっと貼る。
 殺してまとめて、運んで埋める。殴られ女の、手慣れた復讐劇だ。
 なぜ毎回クズに引っかかるのかは、考えない。最後の簡単すぎる謎解きが避けられるなら、私はダメな女の顔で、何度だって懲りずに同じ事を繰り返す。
 チィちゃんは、迷いのない足取りでやってくる。
 急に震えだした手を握りしめて、私は優しい人殺しを待った。



 序曲17

「序曲病ですね」
 ばーん、と脳内でピアノが荒々しく鳴らされたような感覚に陥る。
「まあ、一種の不治の病ですからくよくよしないことです」
 ぶひょう、と乾いた尺八の音が耳に響く。
「そりゃ私も医者です。患者さんの辛さを和らげてあげたいのですが、不治の病だけは……」
 小豆がざるの中で揺すられたような雰囲気に包まれて……。
「いや、そこは小豆じゃないです、大豆です」
 す、すいません。く、苦しい。
「今は黒板を爪でひっかいた時のような寒気が背筋に走ったでしょう? 事ほど左様にある程度コントロールできるのです。どうです。病を治そうとするのではなく、病と真正面から闘ってみませんか?」
 医者はにっこりと人差し指を立てて言う。

 それから俺の人生は変わった。
 公園を歩いていても、ベンチに座るお年寄りに声を掛ける、転がってきた野球のボールを子どもたちに投げ返してやる、指をくわえて意味もなくこっちを見続けている母に抱かれた幼児に手を振ってやる。
 音が。
 響きが、リズムが、モティーフが。
 俺を俺を包んで日の光の中世界を感じさせてくれている。



 序曲18

 長い物語が始まる。かぶりつきの席で固唾を呑んで見守るのは、数人の近しい人たち。その後ろにずらりと並ぶのは、これからその物語のなかに登場するはずの人たち。さらにその後ろの遠い席からオペラグラスで小さな舞台を見つめるのは、その物語に登場しそうでしなさそうでするかもしれない人たち。物語のあらすじはまだ誰も知らない。奏でられる曲も誰も知らない。けれども、その物語が途轍もなく長い物語であることは皆が知っている。皆、息を凝らして、物語の幕が開くのを待っている。
 舞台の中央には小さな丸い卵。観客席の誰の眼にも見えないぐらいに小さな卵。その卵から物語が生まれる。そのことを誰もが知っている。
 その端までを見晴るかすことのできない広い広い劇場のなかで、唯一その物語を進めることができるのは、指揮者のタクト。けれども、指揮者は棒を振り上げたまま、ぴくりとも動かない。指揮者の時間が止まってしまったことを、まだ誰も知らない。
 期待に満ちあふれた熱気の迸る劇場のなかで、皆が物語の始まりを待っている。指揮者の動かないタクトに注視している。そして



 序曲19

湯船につかって息を吐く。
深めのお湯に首まで浸かって、
手足を伸ばして息を吐く。
気持ち長めに指伸ばし、
グーパ、グーパと曲げてみる。
湯舟がゆっくり波立って、
ピチャンピチャンと音がする。
ぬくもった親指からポキポキと
関節鳴らせばムキになる。
関節という関節を、
激しいうねりの湯舟と共に、
ポキポキいい音響かせる。
立ち上がったらいい気になって、
巨人のつもりで風呂を出る。
明日をはじめるそのために、
今日の終わりはこんな感じで。