500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第147回:気体状の学校


短さは蝶だ。短さは未来だ。

 気体状の学校1

逃げ水が反射する大空の欠片、きっぱりした青を捉えた瞬間に、僕は見知らぬ門の前に立っていた。
見知らぬ、というにはあまりに既視感のある門だった。
「やぁ、テン君。ようこそ」
ギョッとしてふり返ると蝶ネクタイのにこやかな紳士がいた。
僕の幼い頃の、秘密のペンネーム。なぜ、この男が?
「あれ、テン君、覚えてないの? 君がこのぐらいの時はよく遊びに来てくれてたのになぁ」
紳士は掌でわき腹ぐらいの高さを示しながら、湿った紙のように、顔を悲しそうに縮こめた。
「ようこそ。蜃気楼の学び舎へ」
紳士は背筋を伸ばし、大仰な挨拶をする。

しんきろう。

途端に僕の埃とガラクタまみれの海馬の奥底がどぅと雪崩を打ち、ドミノ倒しのように記憶が波打ってゆく。
「ああ!」
思わず声をあげていた。
「おお、テン君思い出してくれたんだね?」
途端に校長が破顔する。
蜃気楼を抜け切った時だけ見える、学校。
会うたびに容姿が変わる、自称「校長」。
飛び来る銀矢の如く、僕の脳裏に蘇った、彼女のことを、手が焦げるのもかまわず、はっしと掴み、急いで言葉に紡ぐ、
「あの、彼女は?」
校長が僕の背後を指差す、僕はふり返って見つける、その左手の指に煌めくもの。
「…ありさ!」



 気体状の学校2

 学校の三態とは、固体・液体・気体である。
 理想学校は熱を上げるに伴い、知識が結合した固体から流動性のある液体へと変化し、さらに液体を沸く沸くさせると気体となる。大変活動的な状態である。理想学校においては、構成員やその相互作用は無視してよいものとする。
 しかし、一般に実在学校は標準状態で気体状である。その沸く沸くは好奇心によるものではなく、構成員の相互作用に依存していることが多い。



 気体状の学校3

「神様。人間界から贈り物が届きましたぞ。沢山のスプレーが入っています」
「どれどれ。ほほお、それぞれのスプレーに名前が書いてあるの。このスプレーは『警察』じゃ」
「手紙には、治安の悪い地域にシュッと噴霧して欲しいと書かれています」
「では早速、試してみるかの」
 神様が『警察』のスプレーを噴霧すると、適所に警察署が建設されてたちまち犯罪が減少する。
「これは面白い。では、この『学校』というスプレーはどうじゃ?」
「子供の多い地域に噴霧してみるのがよろしいかと」
 神様が『学校』のスプレーを噴霧すると、その地域に適した学校が建設された。
「おお、こっちには小学校。あそこには中学校。幼稚園も沢山できたぞ」
 面白がってあちこちにスプレーを使う神様。しかし、にこやかだった神様の表情がだんだんと曇ってくる。
「どうされました?」
「学校ができて子供の笑顔が増えるのはええんじゃが、どんどんと待機児童が増えていくんじゃよ」
「では『保育園』のスプレーが必要ですね。あれれ、贈り物の中には入っていませんが……」
「仕方が無い。これで『保育園』のスプレーを作る工場を作ってみるかの」
 そう言いながら神様は『産業』のスプレーを噴霧し始めた。



 気体状の学校4

 ある日、友達が妙な噂を聞きつけて来た。
「おい、健。あの不思議な物を扱っている金物屋に、勉強が面白いほど身に付く物があるんだってよ。塾に行かなくても、成績が上がるんだって」
 その日の夕方、僕は母について買い物の手伝いをし、その件の商品を手に入れた。
 家に帰ってすぐ、僕は台所を閉め切った。そのヤカンをガス台に置き、一緒に購入した液体「算数」を中に入れ火を点けた。暫く経ち、ヤカンが蒸気を噴き出し始め台所は蒸してきた。そして、注ぎ口からランプの精のような男性が現れた。俺の事はヤカン先生と呼べと言い、分数の掛け算の授業が始まった。先生が口から息をふうーと吐き出すと、蒸気で出来た白い果物が出て来て踊ったり割れたりした。あっという間に20分が過ぎ、その教材が僕の耳を通過し授業が終わった。台所を飛び出し、母の元へ行った。
「母さん、面白かったよ。ヤカン先生が出て来て・・・」
 僕は夢中で話したが、どうも母が僕を見て口を開け驚いている。どうしたのかと思い、そばにある鏡を見た。そこには、皮膚がふやけてシワシワになった僕が写っていた。



 気体状の学校5

 幼心に、つかみどころのないひとだった。いまだ、あんなにふわふわしたひとで教師という仕事がよくつとまった、と思う。学校に限らず、およそ組織にいるのが不自然、とでもいうか。
 先生の行方は知れない。蒸発だ駆け落ちだという噂も消え、なぜか今もどこかにいるような気はしている。
 息をひきとるときは、少し苦しかった。
 まあ、よく生きた。欲をいえば、急なことで、会えなかったひとがいるのが心残りではある。
 燃され体を失って、少しの時間をかけ分解された私は大気に漏れ出でて、ああ先生、そこにいたのですか。と声をかけると、ようやく気が付いたねと笑われる。私たちの先生だよ。と宙に広がったかと思えば、幾千万の教師であり学友がいたことを知る。
 いま、あぶくの教室から横目で、幼い君をひさしぶりに見ている。御祖父さんは、ふわふわしてよく分からぬひとでした。と述べられており失笑してしまい、先生に小言をいわれていたりする。



 気体状の学校6

えっ願書出しに来たのかい?
そうかぁまだ本人が直接来なきゃいけないんだなぁ相変わらず。
いやさ、最近はめきっり来なくなっちまったからてっきり郵便とか…えーと何だっけ?…ほら、そのえーと…まぁそういったものに変わったもんだと思ってたよ。ほんとに何年振りだろ…いやもう10年以上かもなぁ志願者に会うのは…うん。
じゃあその、オレが言うのもナンだけどさぁこんな所でゆっくりしてないで急いだ方がいいよ。夜行で疲れているとは思うけどさぁ。
なにしろ今日はこんなにあったかいからねぇ。だからそう、この分じゃ下手すりゃ午前中には…。
あいにくバスはさっき行っちまったからタクシー呼ぶかい?



 気体状の学校7

「よいですか?」
 先生の声は思っていたよりも甲高かった。もっと威厳のある声を想像していたのに。
「まずは身をまかせること。諸君らの今現在その浮わついている心をそのままに」
 声で油断させておいて、先生はやっぱり先生だった。気体に胸膨らませている僕らはしっかりと見透かされている。周りも動揺したのか、ざわざわと震えはじめる。ちらりと隣を見てみると、恥ずかしさで顔を赤らめているヤツとか図星に恐怖して青くなっているヤツなんかが居る。しかしその後、厳しい言葉は一つもなく、先生は僕らの人生に必要なことを淡々と教えてくれた。
「いいですか。手放しでは喜ばない。責任を果たさない自由なんてもっての他です」
 僕らはただただ頷くばかり。
「地に足が付いたとき、そこでもう一度踏ん張るんです。楽しんでもらうのが私たちの使命なんですよ」
 勉強に励み、そして一人前の覚悟が出来た頃、僕にもとうとう初めての仕事が割り振られた。目の前の小さな坊やを笑顔にする仕事だ。
「ハイ、足をしっかり結びつけて!」
 もたつく僕をサポートしてくれる先生の声。そう、同級生達とは離れたけれど、学校はいつでも僕の中にあるんだ。



 気体状の学校8

新しいクラス表に自分の名前を探してたら、後ろから耳元で、3組だよ、ってアイツの声がして、ひゃ。ホントだ~って振り向いたらすっごい近くに顔があって赤面、なんだオマエ風邪でもひいてんのか?っておでこに手を当てるからもっと顔が熱くなってバッカじゃないのって逃げてホントばか。でもまた同じクラスになれてよっしゃあ!あちこちの教室から聞こえる笑い声ふわふわ浮かれる始業式の学校。



 気体状の学校9

 臨採から教採を経て、特別支援学級の担任に配属されたあの四月、わたしは彼らを運動エネルギーの塊と感じた。もしかしたら、彼らの運動エネルギーと生命はイコールなのかもしれないと。同時に、その感じ方は差別意識と表裏一体かもしれず、口に出すことはなかった。けれど、ならば、動かぬわたしたちは生きた屍か?
 三年経った。初めての卒業生も送り出したが、未だ彼らの運動エネルギーに翻弄され、悪い意味で熱エネルギーを受け取るから、身体を制御するのに必死だ。が、熱量は生きている証。永久機関のように果てしなく運動エネルギーを拡散する彼らは、世界を生かす熱源であると信じたい。
 嵐が過ぎた終わりかけの九月は、彼らと生きていることを強く意識する。



 気体状の学校10

日付より晴天が重視される。雨天決行しない。

北のなかぞらを偏西高校が通過するのに合わせ、仰角を揃えたカタパルトからいっせいに新一秒生が発射される。飛びながら入学までに、耳栓を外す。
無数の放物線が学校に突入する。

おなじ風の中で三秒間を過ごし、着水する(発射の残響がまだ、洋上を漂っているうちに)。
手紙の上で滲む文字のようにぷかぷか浮かんでいるあいだ、はじめ入学式と卒業式の印象はかぶっている。
ゆっくりと最初の「おめでとう」と最後の「おめでとう」の距離が開く。膨らんでゆく記憶につつかれて。

学んだことを思い出すのに三年かかるゆえ、恋人たちは、離ればなれになってから付き合っていたことに気付く。

水に浮かんで、空を見上げるのが好きになるので、しばしば水面で再会する。断片的に思い出した校歌を歌い交わして、空白を補う。

ふいに立ち止まるときには、かすかな母校のにおいを嗅ぎ付けている。一瞬の補習授業が発生している。
風が凪いでいれば、ゆっくりと学ぶことができる。
吹き過ぎる授業を追いかけて駆け出すこともある。いきなり窓から跳び出すこともある。追いつけないこともある。



 気体状の学校11

 命があるうちは聞こえない声で呼びかけながら学校が巡回してくる。「始まります、始まりまぁす」その声に応じると、学びが始まる。先生は水蒸気、元素、微粒子。
「ああ、もうそんな季節なんだ」その先生は、何年か前までこの道を歩いて通勤していた人、と木の記憶の名残を辿る。「この冬に、煙突から出てきたの」先生の話を聞くのはとても楽しかった。
「取り返しがつかないことなんてない。本当に面白いと思う方を選びなさい」
 学び終えた花びらから順番に、進路を決める。多くは「地面に落ちて生命の循環を支えること」を選ぶが、私はふわりと別の選択をした。



 気体状の学校12

 爆心地には、もともと学校があったらしい。蒸発して跡形もないが。
 すり鉢のような抉れの中心に、半透明の生物が集まってくる。
 かつて地を這う生き物であった彼らは生き延び、新たな知性を求め長寿の者から教えを乞おうとしていた。
 凝灰岩の出っ張りを教壇代わりに、古老は全員に挨拶をした。
「さあ、今日の授業を始めるでガス」



 気体状の学校13

 そろそろ妻になるための訓練を受けたらどうかと言われ、そういうものかと思い、入校した。片手ではとても持てない重さの分厚い教科書を渡され、そのすべてを読んで身につけろと言われる。口答えをすることは許されず、ただイエスを言い続けるように言い含められる。
 あなた方は、と校長が言う。選ばれし妻になるために、その全生涯を捧げなければなりません。正しき妻になるために、頭の先から足の爪先まで、立ち居振る舞いを完全にしなければなりません。人から後ろ指を指されてはいけません。何ごとにも耐えることです。
 すべては、未来の夫とその子どもたちのために。
 イエスを言い続けて十年、わたしたちは資格証を手に入れた。その直後、革命が勃発した。すでに妻のための学校はなく、妻になる必要もない。わたしたちに夫はなく、夫をもつ必要もない。わたしたちに子どもはなく、子どもを産み育てることに恐怖を覚える。わたしたちに教科書はなく、生きる指針はもうない。失われたわたしたちはただ生き続ける。生き続けるためにただ、呼吸を続ける。



 気体状の学校14

 とりあえず、この学校にイジメはない。
 殴るのも罵倒も皆無。ただ、嫌なものを無かった事にするだけ。それが徹底されてる。ハブられてる本人が言うんだからホントだよ。
 きっとSNSで回したんだろうな。入学3日目から誰とも目が合わなくなって、5月の連休明けには、先生も名前を呼ばなくなってた。
 贖罪の羊ってやつ。
 よっぽどヤバイものを背負わせたんだろうね。その罪ごとさっさと消えやがれ、てツバでも吐きかけたいだろうに、見えないことにしちゃったから、それもできないらしんだな。不便なもんだね。
 そのうちバーン! て爆発して面白い事になるかも。それが見たくてマジメに通ってたけど、やっぱりキツイ。頭は痛い、目眩はする、無意味に涙が出る。
 自分の居場所をギリギリ守ってるけど、そればっか考えてると、なんだか椅子も机も教室も、他の子ごと薄くなっちゃって。私一人が暗がりの中の生き残りみたいで、凄く怖い。
 だから、時々短く叫んでみる。反射運動って、意思の力じゃ抑えられないから。びくつく背中を数えて、向こうもこっちもちゃんといるって確かめる。
 息苦しいのは変わらないけど。遅効性の毒ガスって、こんな感じなのかな。



 気体状の学校15

 ここでは学びの構造は可視化されない。学びは自由な分子の運動の結果として統計的に、事後的に認識されるに過ぎない。すべての分子は、自らに把握可能な限られた環境変数のみに基づいて学びの運動を意思決定する。その集合体は全体としてみればある傾向をもった運動を形成するが、個々のレベルでランダムな動きをつづける分子たち自身がその全容を把握することはない。
 そして突然、卒業証書が授与される。瞬間、分子たちはその位置を確定され、一方で運動エネルギーは不確定な状態に放置される。セレモニーが終わると分子たちは一斉に帽子を高く投げ上げ、自由な運動状態へと解放される。構造とは断面であり、自由とは運動である。位置よりも尊いものに向かって、分子たちは永遠に踊りつづける。



 気体状の学校16

淡い夢の、永遠に。掌に光が揺れて、変わり変わらない奇跡は、軌跡を求める。心の一途な舞いは、愛からの具象なる願いである。想いの雫が、自ずからを透し、その省みは全宇宙を漂わせるように。もし、という哀は、奇跡なのだ。涙が、過去を滲みらせ、未来を実らせる。愛が学ぶのだ。疎まれることも躊躇することなく、愛は謳う。

かわりゆく
まなびのゆめに
かわりなく
よりそうあいの
そよかぜがまう

誰かがそっと置いた手帳、誰に見せることもない。ただ通う夢の中で、忘れられないが、捕まらない。その欠片に淡く纏う美しい響き。仄かな香りが追い掛ける。先生が先達になり、その行方を辿る。愛は哀に、哀が愛に。覚えは兎に角、憶えは夢の。いのちには祈りが欠かせない。



 気体状の学校17

 息子は体より一回り大きいランドセルを背負い、上がり端に腰掛けて潮の香りが薄らぐのを待っている。海が凪いで風が途切れたところを学校が通るのだ。
 私は体が弱く朝起きられない。床の中から息子が準備するのを眺め、閉め切ったカーテンの上から漏れ入る光を眺めている。学校が差し掛かると光が大きく歪むのだ。息子は立付が悪い玄関の戸を上手に閉めて静かに出かけていく。私は息子の学校を見送ったことがない。

 目を覚ますと帰ってきた息子は机に向かって宿題をしている。おかえりと声を掛け学校の勉強は分かるかと尋ねると、困惑した顔で振り返り、勉強が分かるとはどういうことと聞き返される。床まで持ってきて見せてくれた宿題の紙では、見たこともない図形や記号が常時変形を続け、それを読む息子の声は私には聞こえない。
 息子は私を気遣い、大丈夫だから寝ているように言う。私は息子に従って仰向けになり目を閉じる。仕方がない。私は体が弱いのだから。



 気体状の学校18

 地球には、呪文魔がすみついている。《黒穴》の周辺を調査した探査船《黄泉》が帰還してからである。何か悪しきものを連れてきてしまった。天災が続いた。高い山脈から石が落ちてくる。都の高い石の塔が基礎からくずれる。人類の多くが犠牲となった。石が邪悪な意志を持ったのである。しかし、気師と呼ばれる少年たちがいた。今日も大地がふるえる。山脈が裂ける。大岩が出現する。都市と同じぐらいの大きさだ。石の中心に呪文魔がいる。気体となった少年たちが、瞬時に現地に飛ぶ。石の割れ目から入る。気の刀をとぎすます。呪文魔の邪気をたたき斬る。石の動きはとまる、都はつぶされずにすむ。気師の学校は、黒い霧のたちこめる中空を浮遊している。校舎も机も椅子も半透明だ。墨絵の世界。生徒は気力によって気体に変身する。修行はきびしかった。しかし、全世界の少年たちに人気があった。生徒数は、ついに一億人を突破した。正義の少年たちの気力は集中し、どんどん高まっていった。固体と液体が主だった地球に影響を及ぼすほどになった。もはや気球である。ふわふわ。太陽に引き寄せられていった。のみこまれる。そして太陽は《黒穴》になった。



 気体状の学校19

 愛とは何か。哲学や宗教の話ではない。化学的に言うと愛は愛素という元素から構成され、元素記号はLを用いる。愛素は常にほかの元素との化合物として存在し、分子結合L2や、単原子Lの形では存在しない。したがって自然界において純愛を取り出すのは不可能とされており、化学者の間でもその存在自体についていまだに議論が交わされている。
 愛素を含む化合物として代表的なものが二酸化硫黄SO2とメタンCH4をある条件下で反応させた際、メタン中の水素原子H三つが愛素Lに変わることで得られるSCHO2Lである。無色無臭だが化合物中の愛素に敏感な人は甘酸っぱさを感じることもある。毒性は極めて強く、めまい、動悸、頬の火照り、不眠などを引き起こす。また、集中力の一時的な、顕著な低下も特徴の一つとして挙げられる。自然界で確認できる例として冬の朝、「寒いね」と言って笑って追い抜いていくあなたの白い息、夕日に染まる音楽室であなたを思いながら一人練習するアルトサックスの音色、今日で卒業のあなたに何も伝えることができなかった私のため息に含まれていることが分かっておりもうだめです。また会いたい。



 気体状の学校20

 花を散らす。進路の決まったものから降ってくるのだ。
 卒業式が季節代わりになるのは身を固めるまで少し深呼吸をするから。
 散らして後悔するのだろう。誰かを犠牲にするため門出をしたわけではないのだから。
 身を隠すように逃げ出したあと思うに違いない。一からやり直そうと。学びやでの教えの賜物だろう。
 だから感じることができる。
 4月の雨はどこか、優しい。



 気体状の学校21

 ガスクールは冷たい病に冒されている。身体をあたためつづけていないと今にも凍えてしまう。故にいつでも人肌を求める。誰彼かまわず抱きしめる。しかしどれほど抱きしめても抱きしめても、ほんのひと時のここちよい熱が失われれば後には冷たい抜け殻が残るばかりだ。癒えない病に途方にくれながらガスクールはまた一人を抱きしめる。教師であるという。らしからぬ刺青がその肌に彫られている。仮初めのあたたかさを得るのにどの肌も変わりはない。いつものようにしっかと抱きしめる。いつものように、したたる涙や汗が凍り、床に落ちて砕ける瞬間であった。おんなじようにして教師の身体までもが弾け、跡形もなく霧散したのである。ただ刺青の破片(英字の刺青であった)だけがひらひらと舞っている。そのひとつがこちらに向かってくるのを受け止める。H。
 ガスクールは霧散する。霧散した己の隅々にまで充満する始業ベル。教師が教鞭をふるっている。冷えが治まっている。