500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第148回:麦茶がない


短さは蝶だ。短さは未来だ。

 麦茶がない1

 今日実家に帰った。久しぶりに会う無愛想な父の近況報告を求める少しうわついたような声と、破顔した母のくたびれた白髪。オフィスの明かりに慣れた私にこの部屋は少し暗くて、入るなり右手の壁のスイッチに手を伸ばした。ささくれた畳に暖かい日差しを落としていた縁側の窓が今は暗い。嫁に行った姉の私物の山を覆い隠すためにずっと閉ざされている。私の座る場所を探して視線を彷徨わせる母をみて、傍にあった椅子から本や雑誌を除けて腰を下ろした。DMに付属していた試供品の美容液がパタリと床に落ちる音がする。その音を無視して、いつの間にか目の前に置かれていたグラスに手を伸ばす。この家は父も母も冷房を嫌うのだった。時々どこからか吹き込んでくる風は体温ほどもあたたかく、麦茶ばかりが減って行くように思えた。私は精一杯の気配りを発揮して湯を沸かしに立った。「それ水出しだから」「あ、そう……。知ってた」「冷蔵庫にまだ4本ある。全部飲んでいいよ」「そんなにいらん。なんで入れた……」母はいつも作り過ぎるのだった。私達が成長期を終えて、やがて家を離れてからもずっと。
 あの暑い夏の日の麦茶のなさが、いまは遠い。



 麦茶がない2

 麦茶のない世界でわたしは、週末の午後ひとりピクニックに出た。よちよち歩きの赤ちゃんを連れた若い夫婦が、ひもでつないだ風船を揺らし遊んでいた。眺めながら、わたしは発泡酒を一缶開けた。麦茶がなければ麦酒を飲めばいいじゃない、と家内が言うのが悔しくて、思い切り飲み干した。
 麦茶のない世界でわたしは、週末の朝ひとりメールを書いた。麦茶のある国で暮らすもう一人の自分に宛ててだが、そこでは蛇口から麦茶が出てくるとか、麦茶の雨が降って人々が天を仰いで口を開けて歩くとか、妄想ばかりでかなしくなったので、ゴミ箱にドラッグしてPCを閉じた。
 麦茶のない世界でわたしは、週末の夜ハーブティーを飲んで眠った。少し麦茶の味がしたかと思うと、麦茶の海に仰向けに浮かんで読書する夢を見ていた。目が覚めて、少し溜息をついた。それにしても、麦茶にあれほど浮くのなら、そのうち空も飛べるんじゃないだろうか。そう思いながらもう一度目を閉じた。



 麦茶がない3

お母さんが今日の分の麦茶を作ってくれた。喉が渇いた、コップに注いでごくごく飲む。お母さんは沸かした麦茶を氷が入った魔法瓶に入れてくれる。喉が渇いた、ごくごく飲む。喉が渇いてしまうのはお薬の副作用らしいのだけど、本当のことをわたしは知っている。コップに注いでごくごく飲む。わたしは竜神さまの子を宿してしまったのだ。ごくごく飲む。竜神さまに犯されたのはきっとあの雨の日のことで、私はそれ以来、人からは少し、おかしく見えるらしい。コップに注いでごくごく飲む。しかたのないことだ、わたしはだって、神聖な存在として選ばれたのだから。ごくごく飲む。尊い人物として選ばれてしまうと命を狙われるもので、だからわたしは今、病人のふりをしながらひっそりと引き篭って
暮らしている。コップに注いでごくごく飲む。竜神さまの子をきちんと産めるように、体は水分を欲してしまう。ごくごく飲む。産んだらお母さんも聖人に並べてあげよう。コップに注いで、え。お母さんっ、魔法瓶が空なんだけどっ。喉が渇いた、喉が渇いた。どうしようどうしよう、このまま竜神さまの子を流してしまったら。喉、喉。早く潤さないと。渇いた。お母さんどうしてくれるの!



 麦茶がない4

 喉が渇いた。そうだ、今日は鞄に麦茶を入れてきたのだ。鞄に手を入れたが、無い、無い、水筒が無い。落としたか。無いと分かると、余計に喉が渇いた気がする。すぐにコンビニに行きレジで鞄を開けると、左隅に見つかった。
 出た所ですぐさま蓋を開けて飲んでみると、あれ、京番茶になっている。喉の渇きもおさまったし、良しとするか。
 1時間程経ち、また喉が渇いた。朝から営業で歩きまわっているからな。今度は、韃靼そば茶風の味になっていた。どういう事だ。変な水筒だな。
 また1時間程経ち、今度はどんな味になっているのかと思いながら飲むと、ほうじ茶のようだ。
 夕方、会社に戻るまで、その水筒からは色々な味のお茶が飲めた。しまいには、得した気分を味わっていた。
 会社に戻り、その事を同僚に話した。
「だいたい、その麦茶ってなんだ」
「え、あの香ばしい麦茶、知らないのかよ」
 会社から出て、コンビニ・大型スーパーに寄った。探したが、見つからない。店員に訊いたが、麦茶自体知らないと言われた。おかしい、どうなっているのだ。その後も何店舗か寄ったが、とうとう見つける事が出来なかった。落胆し、「夏の必需品なのに、一生、飲めないのかー」と叫んでいた。



 麦茶がない5

 じゃじゃ、
 Cのコードでかき鳴らしたギターを止めて息を吸い込み、サビの部分を歌おうと口を開けたところで小野啓二は歌詞を忘れた。それどころかメロディーも忘れた。休日の地方のショッピングセンターのステージで、特に緊張する舞台というわけではなかった。もとより小野は舞台度胸はある方で、歌詞飛びなどついぞ経験したことはなかった。ではまばらに座る買い物ついでの聴衆の誰かに知った顔を見つけたかというとそういうわけでもなかった。客が不思議そうな顔を日曜のぼんやりした表情の間間から浮かび上がらせようとし、せっかちなものは歌が終わったのかと思い腕を持ち上げようと筋肉に力を籠めようとし、ギターのストラップが肩に食い込み、小野は歌詞もメロディーも思い出そうともせず喧噪の中で自分の心音が元気に鳴っている。

 「それで農業を?」
 小野啓二はその問いには答えず眼前に広がる田園を眩しそうに見やった。手持無沙汰になったインタビュアーは傍らのグラスに手を伸ばすが、それを満たしていた液体はずいぶん前に彼が自分で飲んでしまっていた。



 麦茶がない6

人んちの冷蔵庫開けるなりいきなり言うな。作る気無いしもう。あああ手形つけんな。手ぇ洗え。ついでに水飲めば?
それとも作る?自分で。麦茶パック、シンクの横にあるよ。あーやんないんだっけ?そゆことしないのがオトコラシイんだっけ?ってバカじゃね?あーアタシもか、そう思ってたもんね、ずっと。んなもん飲む奴が作れっての。
なっ何?何いきなり壁殴ってんの?ドラマだかなんかの主人公気取り?いやーないわー、今時そういうの見ないわ。もうお笑いでしかやんないと思う。
自分に酔ってるってこういうことなんだ。ハッズい。見てらん無い。わーホント馬鹿。カッコいいって思ってたアタシが。
いい加減手ぇ洗えっての。
あのさー「チクショー」って言うな、何度も。他に言う事無いの?つかアタシのセリフだそれ。しかも泣きながらって、ガキか?そういやよく言ってたっけ?オトナハキタナイとかナリタクナイとか。…あーはいはい好きにして。
って、うわっアンタ土足じゃん、カンベンして。ちょっ待って、そのまんま歩き回んな、やめてーやめろーぎゃー。
ここはアタシだけの場所なんだから。冷蔵庫も壁も床もみんなアタシだけのなんだから汚すな。
…アタシの血だけどな。



 麦茶がない7

「世界はコーヒーでできている」
 コーヒー色の空と、コーヒー色の海との間で呟いたその口にきみは熱いコーヒーを注ぎこむ。世界はコーヒーでできている。確かにそれは本当だ。
 茶葉のない世界は生きられても、コーヒー豆のない世界は生きられない。事実きみは人類最後の生き残りである。
 祖国が紅茶連合軍に滅ぼされたと知った時のきみの怒りは凄まじかった。復讐の炎は敵を根絶やしにするだけでは収まらず、空を海を大地を焼いた。焼き尽くした。
 黒い雨がドリップし終えた後には、カップを携えたきみがただ一人笑っていた。
 世界はコーヒーでできている。それだけが世界の真実となった今、きみはふと昔の記憶をたぐり寄せる。はじめてコーヒーに目覚めた日のこと。麦茶だよ、と偽られて飲んだそれは、きみの風景を変えた。人生を変えた。
 祖国を捨てたはずのきみが、なぜあれほどに激しい怒りを覚えたのか。
「麦茶がない」
 きみは呟き、そしてあっけらかんと笑った。
 世界はコーヒーでできている。もはや私は存在しない。遠い日の記憶もいずれきみは焼いてしまうだろう。
 もっときみに飲まれたかった。きみが好きだった。



 麦茶がない8

 今年は雨が少ない。街を取り囲む城壁から外側へと突き出たクレーンの影がいつもは水面に隠れている石垣付近にまで伸びている。街の連中の表情は曇りゆくというのに空には相変わらず雲ひとつ湧きやしない。
「来たぞ!」
 見張り台から叫び声。慌てて俺も登ると地平線に黒い影が見えた。だがあれは俺達の待ち望んでいた雲などでは決してない。全てを喰らいつくす大群……死蝗だ。街の男たちはそれぞれが受け持つポンプへと走る。力いっぱいレバーを押し込むと堀に貯められていた麦茶が畑や街の中へと散布されるのだ。死蝗がなぜか麦だけ喰わないことから考えられた防御策。
「もう近いぞ! 避難しろっ!」
 その声を合図に近くの建物へと逃げ込んだ。肌がむず痒くなるような羽音が聞こえなくなるのを待って外へ出る。畑は無事なのか……慌てて見張り台へと登った。
「嘘だろ……」
 畑の被害は少なかった。だがそのはるか向こうに黒い影……別の群れだと? そんなの伝説の中だけの話だと思っていたのに。見下ろした堀はもう底が見えている。視界の端で、クレーンにぶら下がった巨大な麦茶パックが他人事みたいに揺れていた。



 麦茶がない9

麦茶がない♪ 麦茶がなぁ~い♪ と踊り狂うサボテンを尻目に出勤する。
そんだけ動けるなら自分で買ってきてほしい。
で、煮出して冷やしといてほしい。
冷えた麦茶いいよね……
行ってきます。



 麦茶がない10

 いったいぜんたいどうなってんだい、酷暑、太陽に敵意を覚えかける。
 陽の光は焼けるように痛いし、仮にそれを避けたとしたって蒸しあげられるのではあるまいかの勢いにて汗は止まらず、室内にいるというに知らず皮膚から水分が出るわ出るわそれがまた鬱陶しい、身体に文句をいうべきか気候に怨みを吐くべきか、やる方なくて苛立つやら茹だるやら。
 拘りあって冷房をつけないカレー屋である。汗がもうものすんごい。
「えっ」
 と絶望に似た声をあげると、店主が申し訳なさそうに頭を垂れた。
 焙じ茶の入ったグラスがたちまち汗をかく。
 ついにここまで手が及んだか、と震える。
 いくばくかの拘りのひとつを捨てざるをえなかった垂れ頭にもう目を向けることができず、せめて何も飲むまい、カレーを口に押し込み千円札を置いて店を出る。釣りは要らねえ。
 ありがとうございました、を背後に聞く。
 いったいぜんたいどうなってんだ。
 汗がもうものすごい。

 敵意が芽生える。



 麦茶がない11

 俺とおまえのあいだには、夏場はいつも、グラス一杯の麦茶がある。回し飲みして、グラスが空になったら、「んじゃあそろそろ帰るわ」、とおまえが切り出すような、そういう間柄だった。
 硝子と水を経る屈折が、次第しだいに硝子のそれだけになってゆき、おまえの顔が少しずつクリアーになっていく。けれども俺が、屈折のまるでないおまえの横顔を見ることができなくなってから、いったいどれだけの時間が経ったことだろう?
 不文律とは、ある意味では時間の積み重ねのことだ。けれどもその生地は、生クリームやカスタードを間に挟みながら、ミルフィーユになってゆく。いつかはそこに、フォークは突き立てられなくてはならない。たとえミルフィーユが横倒しになるとしても。
 今日俺は、「あのさ」、とおまえに声をかけるだろう。そうして、ふたりのあいだにある麦茶を、一息で飲み干すだろう。おまえは目を丸くするかもしれない。俺はうまく笑えないかもしれない。けれども俺たちの間に麦茶はもうない。俺はおまえの顔を真正面から見つめながら言うだろう。
「おまえのこと好きなんだけど」



 麦茶がない12

番茶がなければ紅茶を飲めばいいじゃない。
パンがなければケーキを食べればいいじゃない。
おうちがなければお城に住めばいいじゃない。
希望がなければ革命すればいいじゃない。
勇気がなければ憎悪すればいいじゃない。
ギロチンがなければ、はい? ああ、あるんだ。
(頭がなければ返事ができないじゃない)



 麦茶がない13

「おい。麦茶がないぞ」
カッちゃんの低い声が背後からドスンと胸に響いて、途端にあたしはこわばる。
怒ってる。頭が、まっしろになる。
「ご、ごめん」
今から麦茶パックを買って仕込んでも、全然間に合わない。
割高になるけれどペットボトルの麦茶を買うしか、ない。
「買ってくるっ」
あたしは叫んで鍵を引っつかみ、アパートから飛び出した。

いつもいつも穏やかなカッちゃん。
笑顔があったかくて、気弱でどこか抜けてて、しょんぼりした時のうなじが、たまらなく愛おしい。
やっと手にいれた、あたしの安らぎ。
でも、彼も、たまに怖くなる時がある。

路上に飛び出した後で、財布を持ってないことに気づいた。
引き返し、恐る恐るノブをひねって引く。
ハイテンションな声が、洩れてきた。
電話中みたいだ。機嫌は悪くない。
ホッとするのもつかの間、あたしは耳を疑った。
「アイツさぁ~イチコロでやんの!バカな女だよ、ミナは」
高笑いが響いてくる。
…あたしが、バカ?
「だからよ、たまぁにさ、ドス利かすんだよ。女なんてそれで押さえられるんだ」
さっきとは異なる、白い闇があたしを覆い尽くしてゆく。
うたが、響いてくる。

回線が切れているんだ拾うんだ落ちてる指を三分前を



 麦茶がない14

ダイエット茶ブームで、近所の100均ショップにプーアル茶やドクダミ茶、桑の葉茶、玉蜀黍のヒゲ茶などが安価で売られ、それに乗っかった我が家の食卓から麦茶が消えた。
 マテ茶やルイボス茶、グアバ茶、杜仲茶なども買ってきて試した。それで体重が減るということもなかったが、健康に気をつかってるという自己暗示が効くのか冬に風邪をひくこともなく、元気に家事に仕事に精を出すことが出来た。
 ビタミンDのサプリメントや、ニンジンを絞ったジュースや生姜入り紅茶、雑穀米、レインボーフーズ、健康にいいと思われるものは何でも取り入れた。

 しかし飽きた!食欲は、制御不能なのか。子供も旦那も嫌がらなかったが私が嫌になった。アクリルアミド、なんじゃそら?ポテトチップを大量に買ってくる。トランス脂肪酸、ロボットか!アイスクリームを大量に買ってくる。
「いや君、落ち着けよ。俺、グループフルーツ買ってきたよ。これ酸っぱくないやつ、甘いよ」
 やさしい旦那が私の暴走をセーブしてくれる。のんびりやるか。もうすぐ夏だ。



 麦茶がない15

密室に咽せる湿度が、愛を波立たせ、定かならぬ輪郭が、なお夢を息にする。濡れる祈りの続きに、はだける衣の重なりが愛の舞いを追う。心と体が魂へと混交する。いざないの証しは喉の渇きだった。

ひとよゆめ
のどのかわきに
うるおいの
まじるくちびる
あいのしめりに

前後に二人一つの軌跡を纏い、露わな夢を抱きしめる。空間が密なる切迫となり、時間が淡い虹を掲げた。記憶と予知の合焦に、愛は賛歌を寄せる。代わりに天が甘露を降らすようだ。



 麦茶がない16

 神様の気まぐれが麦茶をこの世界から削除した結果、日本における夏の電力消費量が増加した。
 外から帰って冷蔵庫に直行し扉を開けて覗きこむ動作に身に覚えのない期待と落胆が伴い、はたと我に返り当初の目的物アイスコーヒーなりアイスティーなり取り出すまでのロスによる。また、本当に牛乳なりコーラなりカルピスなりが飲みたかったのだろうかと逡巡が始まれば更に冷蔵庫が開けっ放される。
「開けっ放しにしない!」
と母親に叱られ、振り返りながら返す言葉「お母さん、麦茶ないよー」が無いためにキョトンとする子供が散見される。



 麦茶がない17

「イナガチャムギ観察!?」
 今でもハッキリと自分の驚き声を覚えています。
 夏休みの大半をわたしは野山で過ごしていたので、母は自由研究にそのような提案をしたのでしょう。イナガチャムギが珍しくない地域でもありました。
 ご承知の通り、イナガチャムギは蛹の間に発酵を伴うため、古来より蛹を集めて潰し、酒としました。子どもは誰しも一度呑んでみたいと思うもので、わたしも、自由研究中に呑む機会があるかと期待しました。
 翌日から、わたしは山でイナガチャムギの幼虫をたくさん捕まえました。幼虫は主に朽ちたギムの木にいますが、ギムトハの木にもいます。捕まえた場所や時間、木の名前を観察日記にまとめました。あまりにたくさん集めたので、一匹ずつではなく、しかし、詳細に記録しました。
 まとめる中、ギムチモの木で捕まえたイナガチャムギは、蛹の間に発酵しないことに気づきました。できる限り辞典やWebを調べましたが、そんな記載はどこにもありません。つまり、世界でわたししか知らない事実だったのです!
 そこからさらに研究を重ね、完成したのがチャムギです。商品名としては漢字を当てています。



 麦茶がない18

 四六時中、薬缶いっぱいの麦茶を炊いておくのは、幼い頃からわたしの役目だった。冷めた麦茶を作るのを忘れると、鬼のように怒られた。体力仕事の職人が出入りするうちの家では、年がら年中、冷えたお茶の消費量は凄かった。お茶が途切れないように定期的に空いた薬缶に麦茶を煮出す。間に合わずに打たれたことは何度もあり、辛い日々だった。
 大人になったわたしは、今の夫と結婚した。お茶を入れるのはわたしの役目ではなく、夫はお茶がないと言って激怒することはない。わたしは幸せな結婚をしたのだと思う。
 それって今の夫でなくてもよかったということではない? と友人は言う。今時お茶が入っていないからって怒る人間はいないでしょう、と。そうかもしれない。けれども、麦茶が薬缶に入っていなくても構いませんか? というわたしの問いに、そんなこと気にしないよ、ではなく、お茶ならぼくが入れるよ、と言ってくれたのは、今の夫だけだった。
 今日もわたしは帰宅して、麦茶が入っていない薬缶を台所で見つけて安堵する。夢のような生活。今日も夫を罰することができる。わたしは幸せだ。



 麦茶がない19

『麦茶はありますが麦茶はありません』という看板に惹かれ、一人の男が店の中に入った。
「ちょいとお邪魔しまっせ」
「はいはい、ようこそおいでくださいました。当店、地球上のあらゆる茶を揃えた店でございます」
「そりゃ凄い。一杯貰おか」
「はい、サービスの茶でございます」
「店主。手を出したって何も無いやないかい」
「お客様。こちら肉眼では捉えられない茶、『小っ茶』でして」
「ほう、洒落かいな。紅茶を貰おか」
「はい、上をご覧になってくださいませ」
「お、高い所に茶碗が吊られとる」
「はい、『高茶』でございまして。後ろにも」
「ふむ、こりゃ『後茶』やな」
「左様でございます。はい、こちらどうぞ。ありゃ、手が滑った」
「熱っ、こりゃ『あちゃ茶』や」
「失礼致しました。すぐに、入れますんで」
「うん、頼みまっせ。あんっ、やっ、店主。脇腹を突くなや」
「へぇ、入れてるんです。当店自慢の『茶々』を」
「変わった店やな。もうええわ。麦茶をくれんか」
「えっ、いいんですか」
「何がや」
「いいんですね」
「さっさと入れんかい!」
 出された茶を飲み干し、男は店を去った。それから、有り金の全てを摩った。何を飲んだのか私が尋ねると、彼は一言。
「博打や」



 麦茶がない20

 職場に着いてレジに立つ。売り場を見渡すと、棚からニョキっと頭を出している商品があることに気がついた。
 コンビニの棚の高さはおよそ百四十センチ。しかし、その商品だけは高さ百八十センチに達している。
「なんだ、あれ?」
 売り場に行ってみると、それは麦茶だった。
「店長、お早うございます。それ、長くて目立ちますよね。新商品らしいですけど」
 バイトの珠代クンが俺に挨拶をする。
「本当は緑茶パックと一緒に並べたいのですが、長すぎて一番上の棚に置くしかなくて……」
 彼女も困っているようだ。俺は麦茶を一つ手に取った。
「なになに、賞味期限は……二◯二六年だって?」
 なんて長いんだ。
 でも、いくら賞味期限が長くたって、それまでには売れてしまうだろう。商品の入れ替わりが激しいコンビニのことだから、すぐに小さなパッケージに取って代わるに違いない。
 しかし麦茶のパッケージは、一年経っても長いままだった。
『ねえ、店長、知ってます? 麦茶って平安時代から飲まれていたんだそうですよ』
 ニョキっと棚から頭を出すそいつらを眺めるたびに、あの頃の珠代クンの言葉を思い出す。



 麦茶がない21

 ドリップコーヒーならある。こういうものを淹れたことがない。キリマンジャロ、とある。そもそもコーヒーをふだん飲まない。たまたま本日の貰いものなのである。大事にしまっておいても仕方がない。お湯はある。いや、氷がない。まあ冷蔵庫は、ある。さすがにホットではかなわない。薄めに大量に作ったのを冷やして風呂上がりに飲もうと思ったのである。  で、なんだか全然眠くない。明日も仕事である。うん、まだ二時は回ってないな。



 麦茶がない22

首からさげた鍵でドアを開けると、モワッとした空気がはみだしてきた。
靴を脱ぎ捨てる。友だちから借りたゲームだけ取り出して、ランドセルを放り出す。冷蔵庫を開けて部屋に持ちこむものを探す。
夏休みまであと十日。今日からママがいない。



 麦茶がない23

 始発の浦潮崇徳港駅から蘂利矢超特急に乗り込む。三日目の国境線。蛮刀で武装した軍隊が乗車してきた。渡航査証と手荷物の検査をされる。禁制品の〈麦茶〉を極東から持ち込んだ者がいる。噂が乗客の間に流れている。四六時中、同じ車内で顔を合わせている。その手の話は、全車両にまたたく間に広がる。火元は俺だ。杯狩湖まで特産品の火酒を買いつけに行くことになっている。組織の用意は周到だった。〈麦茶豚〉の訓練された鼻も逃れた。六日目の夜に露詩亜語に起こされた。「時が来た。一粒の麦よ」合言葉。緊迫した声。大きな人影が青く立っている。影絵の形からして車掌だ。彼が革命の同志だったのか。通路には、虹色の小さな電球が灯っている。車内は薄暗い。日本刀を車掌に手渡した。彼は深々と頭を下げる。汽車は停まっている。車掌が車外に下りた。俺は窓から外を見た。機会は一度切りだ。地上には何もない。茶色い荒野。土の香がする。彼は真剣の名刀を、白木の鞘から引き抜いた。〈麦茶の雫〉が玉と散った。ふるような星空だった。「祖国に〈麦茶の時代〉が来ます」俺の手に刀が戻った。彼の声は震えていた。翌朝、汽車は天まで聳える〈麦茶畑〉の中を走っていた。



 麦茶がない24

それはきっと僕自身が、すべての麦茶になってしまっているんだろう。



 麦茶がない25

「ここにもない」
 手ぬぐいを首に掛けた男が棚を覗きつつぼやく。各種の瓶が並ぶがどれも望みのものではないようだ。
 その様子をテーブルに落ち着く白いYシャツの男が見つめている。麦茶のグラスを干しながら。
「おかしいな、どこにもないんだよ」
 手ぬぐいで額を拭きながらテーブルに戻る男。座りがけにテーブルの下を覗くが、ため息。
「何を探してるんだい?」
 麦茶を干しつつ聞く男。
「珈琲だよ」
 二人はランチを終えたばかり。
「そんなところにはなだろう」
 砂糖壷の中、隣のテーブルに座る夫人のバッグの中、トイレにレジに照明の傘の裏。どこにもない。呼び鈴を鳴らし店員を呼ぶが、「切らしてます」。
「辞書の中には?」
 麦茶を干しつつ。
「ない」
「ブラジルの特産品目には?」
 麦茶ずずず。
「ない」
「メニューには?」
 麦茶ずず。
「ない。なんてこった、午後の天気は雨だというのに唯一の楽しみが……」
「おっと。こちらは仕事だ」
 男、最後の麦茶を干して霞のように姿を消す。「明日の午後も雨だから」の言葉を残し。
「おかしいなあ」
 珈琲を探し続ける男。
 窓の外では悪魔のように黒く地獄のように熱い雨が降り始めた。



 麦茶がない26

麦茶を淹れるのは、祖母の役目だった。
水出しのパックは頑として使わず、ヤカンで煮出すのがこだわりだった。
そして祖母は、夏場の食事の締めに、茶碗に残った白飯に冷たい麦茶をかけて食べていた。
一度だけ真似をして口にしてみたが、旨くもなんともなかった。

祖母が亡くなり、家の麦茶は水出しになった。
進学で家を出た自分は、麦茶を口にすることも滅多になくなった。

その後東京で就職し、結婚し、離婚して、独りで暮らしている。
20年来、我が家に麦茶があったことは一度もない。
それが先日、何を思ったかコンビニの紙パックの麦茶を手に取ってしまった。
帰宅して、テーブルの上のマグカップに注いで、一杯飲んでみる。
実家の麦茶を水で割ったような味がした。

酒を飲んで帰った夜、残っていた白飯に麦茶をかけて食べてみた。
これはこれで、ありだなと思った。
次は麦茶を煮出してみよう。
そんな心持ちになった。