500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第149回:ロココのココロ


短さは蝶だ。短さは未来だ。

 ロココのココロ1

 ロココとは何か。語彙の少ない僕にはなんのことだか分からない。調べてみるとフランスに関係があるらしい。ココロという言葉についてなら知っている。他人のココロとなると知っているとは言えない。
 ロココのココロとは何か。フランス人のココロか。僕にはたぶん分からない。ただ、紙に書いてみて、回文であることに気付く。フランス語が右から読むのか左から読むのか僕は知らない(左から読むとは思う)けれど文字を右から読む習慣の国に生まれ育った人には優しい。
 でも日本語としてロココのココロについて考えたのが間違いだったかもしれない。ロココもココロも文字として単純すぎて、似たような文字が外国語にあるかもしれない。OccやccOと似ている。
 ロココさんが鏡を見ると映し出されたココロさん。ロココさんは鏡に映る自分がccロでなくココロならば自分がロココさんではなくロccさんであることに気付いてしまう。何かがおかしい。ロココさんとココロさんは似ているけど同じ世界に生きていたはずで、どちらか片方が鏡の中にいたら、どちらか片方しか存在できない。僕は世界のどこかで困っているロココさんとココロさんのことを考える。



 ロココのココロ2

 “曖昧な領域に線を入れると入れたなりにそれらしいものが浮かび上がる。例えばロココです。” あらゆる時代あらゆる地域の美術品に通じ、レプリカから何風というには新解釈が必要なオリジナル作品まで3Dプリンター用のデータを効率よく出力するAIであるが、なにかと譬えにロココを引き、何故か回囙囙と名乗る。開発当初は商業デザインの部署に帰属していたという経歴がなんだかそれっぽいけれど、本当のところは分からない。  “回囙囙はロココデータの夢を見るか?” などと昨日はコピーとも自問とも寝言ともつかないことをつぶやいていた。  僕はここ毎日好奇心を満たすための的確な質問を考え続けて、今朝は回囙囙の夢を見た。



 ロココのココロ3

愛の振る舞いに、いのちは佇む。夢幻のままに息をし、愛が隆起するのを待つ。前後、内外はない。矛盾に打ち克つ祈りが必要だ。美しい形象に、問うのは喜びである。魂が揺れる。失った立ち位置を取り戻そうともせず、宇宙の永遠が玉響を感応させる。

わががなる
たましいゆめの
あいいきて
ふりかえるはと
ゆめさきふるえ

想いが重層の、例えに一つの夢を描いた。構造とは、夢幻の補強である。形象とは、愛の影である。陰翳に、微かに揺れる紋様、時空を超え、誘いを運ぶ。十二分に為すとは、弄ぶに等しい。が、美しいとは愛の喜びである。美醜に閾値はない。こころ、いきいきて。



 ロココのココロ4

 新しく開発された介護ロボットは、心をもじってロココと名付けられた。
 開発主任は介護士あがりのエンジニアだ。ファナック社の多関節ロボットの技術協力を経て、多機能型介助補助具として最高の仕上がりとなった。公的な援助金の問題をクリア出来れば、即座に市場に流通していくだろう。
「ついに防水仕様になりましたね」
「ああ、従来のは非実用的だったからね、こだわったんだ」
 開発主任は隻眼を細め、微笑む。片方の目はかつての特養の勤務で、認知症者に杖で殴られて潰れてしまったのだ。その経験を活かし、ロココのカメラアイは強化ガラスで防護されている。
「けどロココって名前はどうかなあ」
助手は意地悪い顔で、ロコってスペイン語のスラングで気がふれてる人のことですよ、と笑う。
 開発主任は笑い返して、じゃあ今の世は正常で、みんな正気って言えるのかよ、と応じる。
 ロココはロココで、スイッチも入れてないのに玉眼を細め仏のように静かに笑っている。



 ロココのココロ5

クリックしてしばし私は固まった。ロココの、ココロ。こめかみを中指でこねる。
ロココ。ロココ調。猫足のテーブル。で、ココロ?
ため息をつくと、ちょうど部屋に入ってきた妻に聞き咎められた。
「あら、どうしたの?」
黙って画面を指差す。妻はのぞき込み、あら簡単じゃないと言い放った。簡単?
「『ロココのココロ』でしょ? 作ってみるわ、五・七・五で」
私は、もっと目を丸くした。俳句で?
気づくと妻は部屋を出てゆくところだった。ため息をつく。
彼女のペースに巻き込まれてはいけない。ロココについて調べなくては。

小一時間経ち、ポンパドゥール婦人の波瀾万丈な人生で頭が飽和状態になりかけた頃にガチャリと戸が開いた。
「出来たわ! カイブンよ」
満面の笑みだ。ぴらぴらとメモを振り立てている。どれどれ、と恭しく受け取る。

 「デンと蜻蛉生る舞うボンと飛んで」

一応俳句になっているが、これは快文というより怪文ではないか。あの、さ、どうしてトンボがロココなの?
「あら、逆さから読んでも『ロココのココロ』でしょ?」
え。メモを凝視する。でん、と、とんぼう、まる…
「回文でしょ?」
妻は、餌を待ちこがれる小型犬のような目つきで私を見つめている。



 ロココのココロ6

 暼。
 怒。
 炉。
 巨虎?
 こりゃ何だい、のようなことを尋ねると、団体名のようなことをいう。根気よく耳を傾けたところによると、たぶんどうやら仲間に入れてもらえなかったらしい。
 人間のことは難しいので目下勉強中である。ぶちぶちぶちぶち「リュウイチサンハオレニハムイテナイッテイウンダ」と唱えるものだから聞きとるのも大変で、まったく合点がいかない。
 異文化交流って、困難。
 まあ拒否するのにだって理由があるんじゃないのか的に鳴いてみるが、だれがどこからどう説いても納得できないふうだ。
 うまくは分からんが、そういうところなんじゃないか。と思うが、馬鹿にしてるわけじゃないんだぜ。心配してんのさ。
「ロココ」
 と呼ばれて、本当はオレ、そんな名じゃあないんだが、ちょっとだけ振り向いてやる。



 ロココのココロ7

 大金庫の入り口を思わせる厳重な金属扉の前にロココは右手をかざして立つ。瞳と手のひらの認証が終わると開かれる向こう側は地下とは思えないほど広く、中央に屹立する巨大な機械はいつ見ても大樹のようだ。その周囲に墓石みたいに設置された幾つものカプセルのうち、黄色灯が点滅している一つの前にロココが近寄ると、カプセルの蓋が開いて中から少年が出てきた。
「交代よ」
 言霊式超心霊高速増殖炉。言葉を発し続ける脳波パターンを熱エネルギーへと変換するこの装置のおかげで火星の人工太陽は維持できているのだが、長時間の稼動に自我を損なう者が少なくない。多くの失敗から発見された安定稼動要素は三つ。同じ言葉を繰り返すこと、言葉の中に自分の名前が含まれていること、回文になっていること。それゆえロココは最初の安定稼動者として救世主扱いされた……のはもはや過去の話。いまや生まれる子どもの八割がロココと名付けられているのだ。
 ロココはカプセルの蓋を閉じながら、ふといつもとは違う言葉を口にしてしまった。
「私じゃなくても良かったんだな……」
 カプセルの赤色灯が点滅しはじめたことにロココはまだ気がついていなかった。



 ロココのココロ8

 フランスからやってきたという噂があった。知識ある者は笑ったが何かが隕石のように落ちてきてかれに宿ったという説は強く否定されなかった。なよ竹の姫のことは、彼らもどこかで信奉していたのである。とにかくかれは自分を曲げなかったのだ。いや、曲げまくった。
 節を持ってまっすぐに伸びる仲間と違い、かれはとにかく曲線を愛した。固執した。くるくると山羊の角のように巻きあがり、花の群れや、蝶の軌跡の装飾をこしらえ、天を閉じ、角を消した。
 一族は最初、かれのさまを声高に侮辱した。竹にあるまじき曲線を軽蔑した。地下茎で繋がった彼らの声が聞こえないはずはなかったが無視された。逆にかれの曲線が一族に感染した。若いかれのとりこむ光が、水と混じり地下茎を通じて一族へとフィードバックされた。自らの信条とは無関係にぐじぐじと、ねじねじと、曲がり、巻き付いて、装飾のための装飾を重ねた。
 そうして一つの竹林が、もつれ合った毛糸玉のような、内に一つのハート型の空間を抱くプチトリアノンが完成した。界隈のタケノコは、土を割った時点で巻き貝の先端を持っていた。次の雨で、この意匠は爆発的に流行するだろう。



 ロココのココロ9

スピーカーから流れてきたのは、哀愁を帯びつつも緊張感に満ちた弦楽の音だった。
モーツァルトの交響曲40番。
何度となく耳にしている曲なのに、この演奏は妙に心に響いてくる。
「良いだろ?オザワと水戸室内管弦楽団の40番なんだよ」
早川が自慢げに言う。
「指揮もオケも日本人なのに、いや、むしろ日本人だからなのかな、妙に心に響くんだよね」
そう言いながらテーブルのグラスを取り上げ、グレンリベットのロックをひと舐めして言葉を継いだ。
「モーツァルトの魂というか、ロココ様式の粋というか、オザワだけにロココのココロだ〓って」
「それオザワ違い」
「口演、小沢昭一」
「出てないし」
「筋書、宮腰太郎」
「筋書無いでしょ」
「御囃子、山本直純」
「モーツァルトですらなくなっちゃったよ」
「みんな死んじゃったねぇ」
「小澤征爾はまだ生きてるよ!」
二人で腹を抱えて笑って、早川はグレンリベットをもう一杯、俺はカールスバーグからギネスに切り替えた。
そして小沢昭一のために、三ツ矢サイダーの栓を抜いた。



 ロココのココロ10

 机の上に、黒縁の丸眼鏡が置かれてある。これをどうにかできないものかと考える。
 ハンマーで叩いてみようか。
 犬の餌にまぜてみようか。
 三角眼鏡とお見合いさせてみようか。
 やはりダシをとることにする。

 グツグツ煮立った鍋の中で丸眼鏡は踊っている。はじける泡が、次から次に妖精へと姿を変える。火を止めると白い湯気が龍に化けて昇っていく。妖精も龍も丸眼鏡をかけている。
 鍋から丸眼鏡をすくい上げると、ぐにゃぐにゃに変形していてもはや丸眼鏡ではない。ひとまずまな板の上に置く。
 とったダシで玉子焼きを焼く。妖精と龍にもお裾分け。美味い美味いと部屋の中でみな踊る。みな綺麗な弧を描く。
 カタカタカタカタとまな板が鳴る。丸眼鏡のなれの果てが、仲間に加えてほしそうにしている。仕方ないなと手に取り、かける。
 途端に視界がゆがむ。私はぐにゃぐにゃに彩られた、けれども華麗なドレスを着た婦人に変身している。目の前には紳士が跪いて、手を差し出している。丸眼鏡がよく似合う。



 ロココのココロ11

ダイイングメッセージってなんか心踊らないか?え?不謹慎?いや確かに。でも初めてなんだよ、こういう依頼は。10年前にこの国でも探偵が免許制になって公式に事件捜査ができる様になったけど…え?知らない?んー当時は結構ニュースになったんだけどな。まあでも相変わらず仕事は浮気調査とかだったワケよ。それが今回やっと!大富豪が謎の死を遂げて床には最後の力を振り絞って書いた血文字。依頼人は唯一の身内の姪でしかも絶世の美女!とくればもっとテンション上がるんだが、残念な…いや不謹慎だし贅沢言っちゃいけない。被害者は一応マンション持ってる子金持ちで依頼人は…まあ…。いやいやいやそう言う事は問題じゃ無い!とにかく事件を解決しないと。色々ツケも溜まってるし…。
と言う訳で殺害の舞台…いや現場になったマンションにやって来た。勿論警察が調べた後だが現場百回って言うじゃないか?
管理人もやっていた被害者の部屋のドアを合鍵で開けて入ろうとして足が止まった。誰もいない筈だと思ってたのに…いきなり玄関に人が倒れている!
つい「又かよ」って不謹慎にも口走ってしまったのはその手元にも同じ文字があったからだ。
赤黒い「ロココのココロ」。



 ロココのココロ12

 誰も知らない。登美子の秘密。スーパーでレジ打ちをする登美子の、その指の節くれのトコロ。長年家事労働で酷使した指の関節の節くれの模様がそのままロココ。客が途絶え、レジ打ちをいったん止めて指の皺をなぞる登美子のしぐさがロコツ。目を閉じて節をなぞると古い家具を触れているような気がして得られる恍惚がテゴロ。そうこうしているうちに束の間ヨーロッパ宮廷に飛んでいく登美子のココロ。いつの間にかふわふわした服の中世フランスのおばさん連と談笑している登美子のゴガク。あまりに面白いものだから大笑いしそうになる登美子が自制して口元に当てる「ダスター。」
 「ダスター。どうしたの。臭うの?」指摘されて我に返り頬を染める様子はまるでコドモ。すぐに業務に戻り次のお客様の籠から取り出した昆布はトロロ。タイムセールが始まり忙しさに飲み込まれながらもお客様を迎え入れる際に見せる登美子の笑顔は華やいでロココ。



 ロココのココロ13

 僕の名前は龍己と書いてロコと読むが、友達にはロココと呼ばれている。何故、ロココなのか、分からない。友達に訊いてみるが、誰も分からない。気が付いた時には、すでにロココと呼ばれていた。僕は僕なりに考えてみる。
 うーん、ロココ。ロココって何だろう。帰り道、じゃんけんに負けて皆のランドセルを持つ回数が多いからロバみたい。最初のロは、ロバのロなのかな。コは何だろう。子供のコなのかな、まさかね。鼻が上を向いているから子豚のコなのかな。最後のコは何だろう。コーヒー牛乳を1番早く飲めるから、そのコなのかな。どれも、違うような気がする。では、何だろう。
 今度は、母に訊いてみた。
「母さん、友達が僕の事をロココと呼ぶんだよ。コが多いよと言うけど直してくれない」
「いいじゃないの。龍己は困った事にも逃げずに立ち向かうけど、物凄いお人よし。ビックリマンに出て来る、ヘッドロココにそっくりだからじゃない」
 僕はお人よしか。それって、どうなのだろう。良い意味じゃないよな。お人よしは、愚か。愚かは大愚。大愚は大賢。大賢は、知識をひけらかさないから愚かに見える。最後は、良い意味になった。このままで良いのだと、心が静まった。



 ロココのココロ14

──もう、どっちだっていいじゃないか。
 ウンニャラモニャラは、呆れ果て頬杖をつく。二手に分かれ争う人間たちの喧しいこと、甚だしい。
 もともとは、暇つぶしだった。そのお遊びを真に受けて、賢しい奴らはこの様だ。確かに、滅ぼすだのなんだの初手に脅しはした。しかし、そうでもしないと正真正銘の託宣さえ無視する者がゴロゴロいるのだ。
「9だ!」
「いや、6しかあり得ん!」
清い庭の入り口で敬いも畏れもうっちゃって、最後の謎解きに唾を飛ばし合っている。ここへ至る道が少し違っただけで、なぜそうまで相容れないのか。
──囲いを抜けるところまでは同じだったろう?
 ウンニャラモニャラは、お告げを展く。囲いの次は、地熱に煮えるほど深い穴を抜けるか、陽に焦げるほど高い壁を登るか。いずれにせよ艱難辛苦の先は、間の形のまま、くるりと丸め抱きとって優美な園へ招いてやる腹積りだったのだ。
──見上げようが見下ろそうが、形に違いはあるまいに。
 今となっては、この騒ぎを拾うも捨てるもできない。
 ウンニャラモニャラは、聞こえよがしに溜息を吐いて、一層後悔の念に巻きつかれたのだった。



 ロココのココロ15

 寸詰まりボディのレールバスが世界最短のトンネルに入りそして出てくる。軽快で規則的なレール音。その一瞬の変調。



 ロココのココロ16

 鏡をじっと見ていたロココは、しだいに頭がぼんやりしてきた。なんだか自分の方が鏡から見られてる気がしたからだ。鏡を見続けているうちに、やがてロココは気を失った。


 ロココが目を開けると、自分とよく似た女の子が眼前に立っていた。違うのは泣きぼくろの位置が逆なことくらい。
「わたしはココロ」彼女は名乗った。「わたしはロココ」彼女も名乗った。ロココが立ち上がるとき、足元がぴしっと鳴って砕けた。地面はガラスだった。
「ここって、鏡の世界?」ロココが訊いた。「あなたにとっては」ココロが答えた。
「鏡の世界だから左右が反転してるのね」「違う」「えっ。違うの?」「鏡が反転させるのは、前後」ココロは腕を真っ直ぐ伸ばした。その指先は水飴のように柔らかくなっていたロココの胸を、くにゅりと貫通した。

「わたしたちが向かい合うと時間の流れが変わる」ココロは言った。「二秒が、一秒になる」「速さが倍になるのね?」「違う」ココロは首を振った。「時間が重なるの」
 ココロはとつぜん赤ん坊みたいに笑った。ロココにはそれが死期を受け入れて微笑む老婆に見えた。足元のガラスが砕け、溶け、固まった。二つの時間が進んでいた。そして、止まっていた。



 ロココのココロ17

(都合により削除しました)



 ロココのココロ18

 ろここ、いいます。こうして竹筒に賽子を入れて振るとロココ、いいますから。
 出にくいでしょう、賽子。それでええんです。双六の盤面が小さいのも、双六のマスがこの辺りの地名なのも、全部、半日掛けて遊ぶためです。ええ、ほかにはないはずです。ウチが、この駄菓子屋で遊ぶために作った玩具ですけぇ。
 理由?
 月に一度、来よったんですよ。元気のええ男の子が。
 母親に、夕暮れまで遊んできんさい言われて。いつもはもらえないお小遣いももろぅて。
 うちの母はその子のためにこの玩具を考えて。こう、あるマス目にきたらピンが出るまで足止めで。めでたくピンが出たらここに書いてある神社まで行って、出るまで振った回数お辞儀してお参りして帰って来る。それが六回でようようあがり。うちもよう見てました。あの頃はうちも子どもでころころ太っとりゃしませんでしたが。
 早くあがったら?
 その男の子、次の月から来ぃへんなりました。
 乱暴にもなりましたなぁ。うちも乱暴されました。でもええんです。よう見てましたから。
 まあ刑事さんも大変やけど、ウチには来てまへん。
 え、賽子が出んなった?
 もちろんそういうこともありましょうなぁ。



 ロココのココロ19

 11歳。男の子の主人公だけど、わたしは彼の子だから名前をもらった。名付けた。自分に。自分で。
 空と山と川しかない町の、16人しかいない5年生。適度に狭い世界から切り離される一番確実な方法。一緒にされたくないし、仲間外れにしているとも思われたくなかった。別な存在と理解される必要があった。
 FxxKと呼ぶことすら勿体無い憐れな大人たちと育ち、町も人も嫌いだけれど、でも、この土地は好きだ。風土が、風景が好きだ。限りなく自分と不可分であり、自分ではない幸福。己の生はここでのみ叶えられると信じた。
 だから、貶す奴は神でも殺す。
 糞みたいな両親だったけど、オーケンを教えてくれたから赦した。わたしは、そうして幼少から思春期を生き、今、ここで生きている。思うままに生きている。11歳から。



 ロココのココロ20

 焚き火が爆ぜた。呂♯呱呱は、孤孤♭呂の繭袋から這い出た。蜘蛛の糸袋の水を飲む。草の星が銀に輝く。相棒は眠っている。攻めすぎたか。互いに男女のどちらにもなれる。そうでないものにも。役割を交替して愛し合う。十七歳の春。高校の夏休み。ラグビー部の朝練に登校していた。緑色の鐘を見た。緑色の光を浴びた。右鐘国に来ていた。世界を救うために召喚されたのだ。伝説の勇者として。赤竜や黒竜と戦った。戦況は一進一退だった。辺境まで旅をした。右鐘の民に仇をなす竜の一族を退治していった。時は須臾にすぎた。右鐘国の暦で十年。最初は、もとの世界に還る方法を、色々と模索した。しかし、道がわからない。いつからか。ともに諦めてしまった。それどころではなかった。戦いが続いた。戦士としての使命に目覚めた。知恵も力も、実戦の渦中で身につけた。充実した日々。薪を組み直す。結界の糸に振動が走る。竜が侵入しようとしている。孤孤♭呂が跳ね起きた。魔鞭を取る。凛とした横顔。乳房が揺れる。呂♯呱呱を優しく受け入れた温かい壺から、白濁した液体が滴る。愛する友を守らなければならない。呂♯呱呱は秘棘剣を抜刀した。



 ロココのココロ21

 胸が痛むからといって、心臓を取り出しても仕方がないということを、ロココは知っている。痛みを感じるのは脳であり、脳が胸に痛めという指令を出すのだから。だから取り出すべきは脳だということを、ロココは知っている。だからロココはそうした。
 脳をバンクに提供してしまったロココの身体は、けれどもまだロココのものだ。もう痛まないはずの胸はまだ痛む。すでにない頭を傾げて、ロココは両手で胸を押さえ、その内部を見ようとする。ロココの眼球は何も映さない。ロココの両手は何も感じることができない。ただ痛みだけがロココの身体を延命させている。
 ロココの名前が呼ばれる。いや、すでにその名前が自分のものかどうかロココにはわからない。そもそもロココには何も聞こえない。けれども呼ばれたロココは身体をよじる。
 バランスを崩して、地に落ちる。統合から遠ざかってしまった身体は、四散する。
 バラバラになったロココは、すでにもうロココではない。けれども痛みだけはある。執拗にそこに在って、意図せず触れてしまったものに感染する。バラバラの痛みが収まるところを探し求めて空を斬り続ける。



 ロココのココロ22

 おれにはロココがどういうものなのかちっとも分からなかった。しかし料理本で有名な出版社から『ロココのココロ』という題で短編を書いて欲しいという依頼を受け、プロとして断る訳にはいかなかった。
 手始めにおれは『ロココ婆』なる人物を想像し、婆の知恵が孫にも継承されるという良い話を作ろうとした。最初は順調であったが、終盤でロココ婆は自慢のパンに毒物を混入させたり、街で評判のパンに嫌いな隣人の心臓を混ぜ始めたので、手に負えず断念した。
 諦めてロココについて調べた。美術様式うんぬん、とある。『画家兼彫刻家ロココ』なる人物が生まれたが、作り上げた作品に自分の血を混ぜたり、自身が彫刻になり始めたので、愛想が尽きて断念した。
 理想の桃源郷ロココ、人造人間ロココ、足ドコ耳ドコ口ココ。それぞれ六百五十五文字を費やして書いたが没。考えるほどにロココは謎を増した。次第に手が震え、足先が冷え、視力が弱り、外出が億劫になり、食事が喉を通らなくなった。
 もはや死を待つのみとなったおれに、出版社から手紙が届いた。
『誤字がございました。正しい題目は『ロコモコのコロコロ』でございます』
 おれは紙を破り捨て、遥かなる創作の旅路を絶った。



 ロココのココロ23

「これは?」
「あいてません」
「じゃあ、これ?」
「左」
「これ?」
「左」
「次は分かる?」
「うーん……」
 視力検査は苦手だ。
 だんだんと小さくなるマーク。矢継ぎ早に質問する検査官。
 そのプレッシャーが私を押しつぶそうとする。
「下……ですか?」
 最後のマークを、私は適当に答えてしまった。
「次は反対の目で。これは?」
「左」
「じゃあ、これ?」
「左」
「これは?」
「あいてません……」
 やっとのことで検査から解放され、ほっとする私の耳にクラスメートの話声が飛び込んでくる。
「ねえ、今日の視力検査、平仮名の『の』が混ざって無かった?」
「ええっ、そんなのあったっけ?」
「ほら、最後の視力二・〇のやつ」
「そこまで見えるの、あんただけよ」
 それって……?
 私が適当に答えた一番下のやつ?
 確かめようと視力検査場を向いてみるが、離れたこの場所からは確かめることなんてできる訳が無い。
「あいてません、左、左、えっと、えっと、次は……」
 あんなに嫌だった視力検査の声につい耳を傾けてしまうのは、なんとも不思議な気持ちだった。



 ロココのココロ24

この公園を突っ切れば会社への近道。なんて思ったのが間違いだった。真夏の公園なんて行くもんじゃない。暑苦しい蝉時雨。炎天下の遊歩道をハイヒールを鳴らして歩くのももう限界だ。道を逸れて、鬱蒼と茂る木立の下の暗がりへ逃げ込む。夏の日差しに慣れた目に木々の下の闇は深い。蝉の声だけが聞こえ・・・ちがう。
ロココロココロココロココロココロココココロ
名前を呼ばれた気がした。振り向くがなにも見えない。
ロココロココロココロココロココロココココロ
ロココロココロココロココロコヒロココココロ
名前を呼ばれた気がした。見上げるがなにも見えない。
ロココロコヒロココロココロコロココココロロ
ロココヒロココロココロココロココヒロコココ
名前を呼ばれた気がした。黒猫が近づいてくる。ポトリとなにかを足元に落とす。拾い上げる。子供の頃に失くした人形。名前をつぶやこうとして、覚えていないことに気づいた。
ロココロココロココロココロココロココココロ
緑陰の奥深く呼ぶ声だけが聞こえる気がする。



 ロココのココロ25

四角い建物群に押しつぶされながら太陽が最後の視線を送っている。昼が沈んで夜が昇ってくる。薄闇がゆっくりと降り積ってくるなかで、部屋のその一隅だけがほうと明るんでいる。一基の鏡台が立っている。
光をたたえた鏡面を覗き込むと、何の特徴もない疲れた女がぼんやりと見返す。
土埃色のシャツを脱ぐ。肘の上あたりから肌の色が違う。太陽の目に触れないところは無垢のままなのだ。ほんとうのわたしの肌の色。
残りの衣服も脱ぎ捨てる。ますます積もってゆく闇のなかに白い影が浮かび上がる。鏡の向こうに女が立っている。ほどいた髪が肩に胸に落ちかかる。うつくしい。
たぶんあれがほんとうのわたし。
抽斗からネックレスを取り出す。淡水真珠の歪んだ珠が連なった首飾りだ。胸元にあてる。
鏡の向こうの女も、裸身を真珠だけで飾っている。満月のような真円の列。
たぶんあれがほんとうの世界。