一夜の宿1
二階が宿泊施設になっているバー。オレンジ色の光に照らされて酒を酌み交わす面々がいた。今日は特に騒がしく、マスターは宿泊客が来たのに気づかなかった。黒いスーツに身を包んだ男は、さらに真っ黒なボストンバックをカウンターに置く。談笑を切り上げたマスターが対応をすると男は「一夜を」とだけ言いマスターから鍵を受け取ると、釣りも受け取らず高額紙幣数枚をカウンターに置き、バッグを提げて二階の部屋に入った。
いやに辛気臭い客だったな。死神の類かな。マスターは客と談笑に戻るが、男は死神などではなく夜だった。正確には男が持つカバンが夜だった。バッグのジッパーを下すと夜が開き始める。階下のバーの喧騒が止んだ。窓の外、遠くの町明かりも消えていく。男は黒いシーツを敷き終えると、やっとそこに体を横たえる。彼が次に目覚めるとき、瞼の地平線からうっすら昇るのが太陽だ。
一夜の宿2
越夜隊の任務は形骸化した儀式的なものだ。基地に備えられた計器類は動力源を自家調達しながら延々と記録を続けるが、その記録を読み取ったり分析したりすることはもうない。越夜隊は、この星の極点の長い夜=自転周期にして274回に相当する時間を、ただこの場所で過ごす。
青白く小さく明るい太陽は、ほぼ水平に周回しつつ、ゆっくりと地平線を目指す。そして地平を舐めるように撫でるように何周かするうちに、夜の帷が降りてくる。太陽が沈みきるまで何周も眺めながら、私たちは盃を挙げて飲み交わし、酒肴で腹を満たしては眠るのを繰り返す。そして天蓋が闇に支配されると宴は本番を迎える。私たちは飲み、食い、語り、笑い、歌う。そして眠る。地下に造られた人工照明の農場で野菜を育て、食糧にする。ひたすらそれを繰り返すうち、地平線をゆっくりと薄明が周回しはじめるのを私たちは目撃する。
夜はひどく緩慢に、しかし確実に明けていく。私たちはすっかり口数少なくなり、息をひそめるようにそれを見つめては眠り、起きては見つめる。太陽の最初の光線が私たちの瞳を射るとき、越夜隊の任務は終了する。私たちはおもむろに荷物をまとめ、車列を組んで出発する。何も変わっていないが、夜を越えたということだけは知っている。
一夜の宿3
百夜つづけて通ってきたらつきあってもいい、と言ったのは冗談、というより、「おとといおいで」の婉曲的表現だった。
それなのに、それからほんとに毎晩やってくる。
うちにあがりこんでは、お茶を一杯飲んで帰って行く。お茶菓子など一切用意していないことも意に介さない。この男、意外ともてるらしいが、どこがいいのかまったくわからない、
それが百夜めの昨日、来なかった。どうしたんだろう。病気だろうか(別にやつの心配をしているわけじゃない。逆恨みされたりするのはごめんなだけだ)。
それが日暮れ時、何ごともなかったようすでまたやってきた。
「今夜から2クールだから、おみやげ。ちょうど二十三夜さまだし、一緒に月の出を見ようよ」
そう言って、薯蕷饅頭を差し出した。
こいつがどうしてもてるのか、わかった気がする。わたしの好みじゃないけど。
一夜の宿4
インターネットカフェですっかりゲームに夢中になっていた。気がつけば時計は午前5時。冷えたコーヒーを飲み干してカフェを出ると、雨女は南南東の風に乗って飛んでいった。夜来の雨が上がった。
一夜の宿5
「二月二十八日のシングル、空いてる?」
予約のため俺は窓口に駆け込んだ。
「はい。まだ空きがあります」
お姉さんがニッコリ笑う。よかった、まだ空きがあって。
「じゃあ予約頼む。三泊で」
「えっ?」
驚いた顔をするお姉さん。もしかして翌日以降は予約で一杯なのだろうか?
しまった、もっと早く来ればよかった。頭の中が真っ白になる。
「空いてないの? 翌日以降」
「いえ、二月二十九日も三月一日も空いておりますが……」
なんだよ、驚かせるなよ。
だったらさっきの反応は何だ? まさか、うるう年だからシステムが対応してないってことはあるまい。それとも――
「同じ場所が取れないとか?」
「いえ、三日間とも同じ場所を予約することはできます」
「だったらそれで頼むよ」
俺は呆れる。
この窓口の対応はなってない。お客を不安にさせてどうするんだよ。
心配になった俺は、念のために確認する。
「三泊だから、その間は荷物を置いたままでもいいんだよね?」
するとお姉さんは再び表情を曇らせた。
「いえ、それは困ります。規則ですので」
やっぱりダメだ。今度、会社に意見してやろう。
「ななつ星とかなら可能でしょうけど、これは普通の寝台列車ですから……」
一夜の宿6
夜更けにほとほと扉を叩く音がする。これは先ほど銭をたかりにきた小僧にちがいないと、あらためて追い出す気満々で箒を持って扉を開ける。けれどもそこに小僧はいない。
ちちち、と小さな鳴き声がして、白い鳥が一羽、羽を落としながら飛び込んでくる。そして、さらに一羽。夜の道に迷い、宿を探し求めにきたつがいと見える。一夜だけなら目くじらを立てる必要もあるまいと、そのまま扉を閉め直した。
真夜中、羽が降ってくる。一枚と一枚と一枚。途中までは夢のなかで数えていたが、息苦しくなって飛び起きた。小さな家のなかは、白い羽が埋まっていて、身動きがとれない。助けてくれよー、助けてくれよー。泣き叫ぼうとした途端、口のなかに数え切れないほどの羽が降りしきって積もる。目にも鼻にも耳にも羽が降り積もり、埋もれて見えない。
白い鳥は一夜のうちにあっという間に卵を生んで孵し、朝が来ると同時にみなで宿主の肉をついばんで飛び去った。
あとに残されたのは、白い羽で埋まった小さなおうち。家主がその後どうなったのかは、だーれも知らない。
一夜の宿7
大学の夏休み。フランスを旅した。新しい街につく。少しの観光をする。居酒屋に入る。目的はワインである。古くて老人が多い店を選ぶ。ころあいをみる。今夜とまれる安い宿屋はないか。時には討論会になる。結局は、それなりの宿を紹介された。 しかし、八月十八日のトゥーレの街は、大きな祭りの真っ最中だった。アメリカ人観光客におさえられていた。《ふくろう亭》のご主人は、口ひげのにあう人だった。こちらで、よければ。案内されたのは、ワインの地下蔵だった。番人の小部屋がある。毛布を一枚わたしてくれた。わしは、いそがしいから。そそくさと立ち去った。酒に弱い東洋人を信頼してくれたのだ。木の棚には、年代順にワインが並んでいる。いちばん古い棚には、一八五〇年とあった。三本しか残っていない。銀色の蜘蛛の巣と金色の埃に沈んでいる。蒸発したのか中身は半分しか入っていない。あまりの貴重さに指がふるえた。どんな味がするのか。飲んでみたい。 夜中に目をさました。ちりちり。硝子のふれあう音。棚の前をふとった人影が左右に動いている。膝から下がない。幽霊だ。怖いので毛布をかぶった。そのまま寝ることに決めた。朝、舌にワインの味がした。
一夜の宿8
ドアをノックするのは誰だ?とドアスコープを覗いたら星だったので、これを断れば足穂に怒られると考える。もちろん足穂と面識はなく、生まれた時にはすでに故人だった氏への、片想いな妄想にすぎない。 時間も時間だし、春先の今しがたは寒かろうと、ひとまず招き入れた。 「ありがとう」 答えた星に茶を勧めるが、眠れなくなると断られた。そもそも夜仕事な星が屋内にいる時点で、かなりルール違反なのに戯けたことを言うなと腹立たしくなるが、客人として迎えたのだから仕方ない。酒も勧めたが断られた。 今宵眠れれば、それで良いと言う。万年床を貸し与え、炬燵で寝ることにした。 「ありがとう」 言ったかどうか、すぐに寝息を立てだした星の逞しさに気取られるも、時間が時間なので、たしかに眠い。次に目覚めると、すでに曙。 『ありがとう』 炬燵の上に走り書きがあったので万年床を見ると、たしかに星形だけが残っている。一宿一飯の恩義も知らねか!思うも、馳走を断られたのだから、怒りすぎと思い直す。 窓から空を見ると、白くて小さな星が、太陽に遅れまいと震えながら上っていく。
一夜の宿9
淡いに消えた夢の跡に、疼く舞い祈り。儚さと永遠の狭間で、時の平衡は哀へと流れ、愛の一雫となる。別れ、分かれたいのちの行方、留まり知らぬ想いに、時は季節になった。一夜の宿に、風紋が季節を数える。 あわいゆめ あいのむつみに つむぐまい とわのあいへと あいをかわして 一夜の夢に、人世が漂い、交わす祈りに想いを尽くす。造作無い息の繋ぎに、遠い永遠を待ち、消えた想いの行方を占う。重ねられた貝殻のひとつ、合わせる夢が心を放縦させた。 ただ一つ残る思い、私はあなたを愛している。
一夜の宿10
ロサンゼルスの、リトルトーキョーにある安宿に泊まる。メキシコに行くには、アメリカまで飛行機を使い、長距離バスでティファナから国境越えるのが一番安い。日系人が経営してる、キッチンが共同スペースになってるこの安宿は日本人旅行者の溜まり場のようになってた。
卒業旅行の大学生や、日本から脱出した長逗留の人などがリビングのテーブルを囲んで、自分達の持ってる旅先の情報を交換しあってる。
ぼくも会社を辞め、あてもない旅をしたくて紛れ込んだくちだが、誰も蔑視したり見下したりもせず仲良く受け入れてくれ、日本を出たときの罪悪感が消し飛んだかのような安堵を覚えた。それでも、外国語に堪能でもないのに放浪なんて、という不安は残る。
裏口を出ると黒人の爺さんと鉢合った。ニカっと笑いかけられ反射的に笑顔を返す。
「クオー?」と話しかけられてどぎまぎする。一体なんて言ったんだろう?爺さんは何度か同じように話しかけて来て、それは「COLD?」だと5回目ぐらいでわかった。「おい、若いの、寒いな」と言われたのだ。イエス、コールド!とぼくは大きな声で答えた。爺さんは満足そうにまた笑って、タバコを吸いはじめた。
明日は朝いちばんで、バスの切符を買いに行こう。
一夜の宿11
夕刻に生を享け、明け方に死んだ新生児にとっては、いまある世界のすべてが一夜の宿。
目を覚ました自分が、しぜんに左を向いてそこに誰もいないことに驚いたことに驚く。誰もいるはずがない。それなのになぜ涙が流れるのだろう。夢の名残がある。古い約束。まるで生まれる前に交わしたかのような古い約束。
玄関を開けると訪問者は背景の夕焼けと混じり合ってもくもくしていたがぱつんと音を立てて適度に好感の持てる異性の姿形になった。
「お隣はお留守ですか」
「遠藤さん?あ、いやプロキシマケンタウリ文明ですね。わかりません。私達の文明は第三段階に入って四百年ほどなので、まだ恒星間航法は実現していないんです」
私の中から磁石にくっつくようにぽんと答えが出た。
「ネゲントロピー勾配を指標にして着象したので太陽系文明に着いちゃったんだなあ。お隣は滅んだのか非文明化したのか。恒星間くらいの短距離の方が消耗するので、一晩泊めていただけませんか」
「どうぞ」
と言った途端にもう室内におり「おひとりですか」その問いに私が答える前に「ああ、おひとりなんですね。そうか、そっちの歴史か」そうひとりごちて振り向くと顔が左右に激しく震動するようにぶれている。いま漂った微妙な空気に的確な表情を検索しているのだろう。
一夜の宿12
あのう御邪魔しますよ。と雑作もなく開く戸をちょっと怪しむ。怪しみはするけど背に腹は変えられない。なんせ雨を凌ぎたいから臆しちゃらんない。これが何かのはじまりだとしても臆しちゃらんないんである。当たり前のように外は闇夜で逃げ場がない。今に至る事情も朧ろで迷惑千万、気まぐれな悪意に放り込まれた心地の目の前で、お骨ががたがた物申す。
云っても只の骨、恐れることはない。死なんか連想するわけがないのは、飯を見て畏れることがないのだから実に道理が通っている。
過日、家人に逝かれてサ。と此方の身の上を述べると、それは気の毒と頭蓋を垂れた。なんだか、彼方の御多幸をお祈り申し上げたい。
それから長い長い思出話を中略、何時の間に、お骨の方が眠ったのかと思われた頃合い、
あのう御邪魔しますよと開かれた戸をちょっと怪しむ。
一夜の宿13
昨日まで二人で旅行に行ってたんです。本当は今日までのはずだったんですけど、島に一軒の宿が本当にひどいところで……湿気は畳がベコベコになるくらいひどいし、接客だって、「出てけ」と言わんばかりの嫌がらせ。お風呂に入ってたら「電気がもったいない」って消されるし、お布団が北枕なんですから。
で、もう一泊はやめたんです。夫は帰りずっとげんなりした様子でしたが、そりゃそうでしょう。食欲もないまま、さっさと寝てしまって。
今朝、隣でモゾモゾしてるので、もう起きたの?と思って薄目で見たら、背中がパックリ割れて、なんかウニャラモニャラしたものが這い出しているんです。一晩お役に立ったならそれはそれでいいんですけど、この抜け殻、どうしましょう。
一夜の宿14
周囲の光が青みを増す。もうそんな頃合いかと男は天を仰ぎ見る。遥かなる高みに大きく輝く月は、前回青みを増した時よりもわずかに欠けていた。しかしのんびりと見とれているゆとりはない。この美しい青白い光に魅入られていると自分の影がどんどんと薄くなってゆくのだ。自分自身が光の中に溶かされてゆくような気さえする。しかもそれが妙に心地よくて……男は頭を振った。この光から逃げないと。そのおぼろげな記憶を辿り始めた。
漆黒の洞はすぐに探しあてることができた。宙空に浮かぶ幾つもの不思議な洞。男を惑わすように位置を変えるものもある。男は洞を追い、その中の一つへなんとか飛び込んだ。洞の中は狭いのだが、光はこの中へは入ってこない。男はうずくまり自分に言い聞かせる。これで大丈夫、少しの間だけは。
男が静かに洞の入口を眺めていると、外の光が青みを失い始めた。と同時に洞の入口も左右から閉じられてゆく。男は慌てて外へと抜け出した。まだ青さの残る光だが、男を魅了するほどの魔力はもはやない。男は天を仰ぎ見る。あの月はもう49回も姿を変えた。もうそろそろ楽になりたいと、男はため息をついた。
一夜の宿15
テントウムシを待っていたのに、飛んできたのは金星だった。のばした指にぴたっと止まり「よろしくっ」というが早いか勝手におれに上がりこむ。回っていなくて良いのかと訊いても「あら、女神はお邪魔? やっぱり淑女がお好み?」とはぐらかす。そういう問題ではないのだが、「まあまあ、一晩くらい休ませてよ」とお構いなしにくつろぎ始める。仕方ない。しかし一晩っていったらおまえ、
「じゃ、夜が明けたら起こしてねっ」
そんなわけで奴さん、おれのからだを寝床に今もすやすや眠っている。おかげで左の金玉が重い。
一夜の宿16
露天風呂から戻ってくるとドアに張り紙がしてあった。
「大切なお客様へ、お部屋が変更になりました。あなたは鳥部屋になります。」
確か最上階じゃなかったけ?この部屋。まあでも変更になったのなら仕方ないな。
エレベーターは見つからなかったので表示に従って階段に向かう。
あっそうだ、荷物。
引き返してみたら元の部屋は流されてしまってもう辿りつけなかった。おまけに足が濡れてしまった。
移動させてくれたに違いない。きっとそうだ。とにかく新しい部屋に行こう。
でも螺旋階段をずっと昇っているのになかなかつかない。窓からはかなり遠く迄見渡せる様になって来た。
絶景ってやつだな。
そのうちだんだん光が色づき始めた。風も冷えてきた。
まずいな、このままじゃ日が暮れてしまう。暗くなったら見えなくなるじゃないか!鳥部屋なのに!
長く高く続く階段を見上げる。溜息が出る。まったく終わりが見えない。まるで深い穴を覗き込んでいるみたいだ。
ああっ大事なことを思い出した。そうか鳥部屋だ。鳥部屋なんだ!
飛んでみた。
一夜の宿17
あたしの泊まる旅館にゃ毎回の様に殺人事件が起こる。こうやってどこかの旅館にでも泊まろうものなら決まって殺人事件が起きる。そういう星の元に生まれてる。だけど今やそれも生きる上で必要な事になっちまった。あたしはこの体質を利用してやった。探偵になってやったのさ。さて、今宵もあたしが泊まる旅館にて殺人事件が起こるわけだがどうにもおかしい。いつもなら少しはあたしの語る推理を聞いてくれるもんなんだが、此度の宿の宿泊客は、女将は、料理番は、猫すらも話を聞いちゃくれねぇ。これじゃあ折角犯人を見つけても捕まえられねぇじゃねえか。そうこうしてるうちにまた誰かが悲鳴をあげる。言わんこっちゃない。あたしは推理して殺人鬼を見つける事は出来ても、その所業を止めることは出来ないんだ。起こっちまったものは仕方が無いから死体を見、更なる証拠を突きつけてやろうと現場へと駆けつける。よりによってあたしの部屋だよ畜生。「人が倒れているぞ」確かに人が倒れていたが、その顔には見覚えがあった。あり過ぎるぐらいだった。「これは探偵を名乗っていた奴じゃないか?」あたしが死んでいた。一夜の宿のつもりだったんだが、そうもいかないみたいだ。
一夜の宿18
山に薪刈の翁と嫗がありました。雪の日、翁は薪を売りにゆく途中で、一羽の鶴が罠で暴れているのを見つけました。周囲には点々と赤い血。可哀想に思った翁は鶴を罠から逃がしてやりました。
寒い日でしたので薪はよく売れ、翁は白米を買って嫗のもとへ帰りました。白米で粥を作る嫗に、翁は鶴を助けたことを話しました。嫗は良いことをしたので薪が売れたのでしょうと云いました。
戸を叩く者があります。翁が開けてやると美しい娘が立っておりました。親が亡くなり、会ったこともない親類を頼ってゆく途中、この雪で道を見失ってしまったと云います。確かに外は激しい雪で、翁は娘に泊まってゆきなさいと云いました。嫗は娘にもうすぐ粥ができるから早く火に当たりなさいと云いました。
温かな粥を啜る娘に、嫗は蕪の漬物を出してやりました。暖まった娘の頬は桜色になり、春が来たかのようでした。食べ終わると翁は粗末ながらも布団を出してやり、娘は疲れからか、すぐに寝入ってしまいました。
朝になるとすっかり雪は上がっており、日に雪が眩く輝いておりました。翁は娘に町までの道を教え、娘は深く深くお辞儀をしてから翁と嫗のもとを去ってゆきました。
一夜の宿19
隣の女が泣いている。
毎晩飽きもせず、日暮れと共にひっそり泣き始める。大した声ではないが、じめじめと薄い壁ごしに伝わってくるから、耳について寝ていられない。おかげで夜勤のバイトへは遅れずに済む。けれど、これ程気の滅入る目覚ましもない。
「ありがとよー」
コンビニの握り飯を白湯で流し込みながら、聞こえるように言ってやった。
後は大した準備もない。湿気を吸った重いオーバーを着込み誘導灯の入った鞄を持って、建付けの悪いドアを蹴り開ける。
右に行けば通りに出る。女の部屋は左だ。
……女、か。
足が止まる。
「寂しいんなら、俺んとこに来いよ」
傷だらけのドアを叩いて、声を掛けるのはどうだ?
おずおずと開く木の扉を想像してみる。
泣き腫らした瞼を上げ、女は俺を見るだろう。恐らくまだ若いはずだ。化粧っ気は無いに違いない。しゃくりあげるのを、堪えようとするだろうか。漸くまともな声が聞けそうだ。ちょっとハスキーなら、ど真ん中なんだが。薄手のセーターを着ていたら文句なしだ。髪はどうだろう。長いか? 色は? それから━━。足が自然に動いた。
右へ。
一ぺんでいい、『明け』まで泣いててくんねぇかな。