500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第14回:微亜熱帯


短さは蝶だ。短さは未来だ。

とろりと乳房が流れている。
女が寝返りをうつたびに、褐色の乳房は融けたチョコレートのように流れを変える。しかし、したたり落ちることはない。
真夜中、むずがる声がして、女は乳を含ませる。たっぷり飲ませたあとは汗を拭き、バナナの葉でくるみ、天井からぶら下げる。すぐに女は眠りに落ちる。
やがてバナナのおくるみから、ミルクが一滴したたり落ちる。それは女の腹にミルククラウンを残して消える。



 地下鉄のホームに生ぬるい風が吹いた。ゴーッという唸り声を上げ、ポカリと開いた口が勢い良くやって来る。道標になる白い破線とデコボコの黄色い帯は、まるで蜃気楼のように揺れているのだ。
 扉の中は熱帯雨林のジャングルで、棲息しているのは、強烈な匂いを振り撒くドギツイ蛾、虚ろな目をしてベトベト頭の蜘蛛、巨大な角と虚ろな目のカブト虫など。まさに食人昆虫の巣窟であった。
 電波の届かぬ携帯は、こういう時に役に立つ。僕は、三段式のアンテナをチャキーンと伸ばしてニヤリと笑う。簡易ブレードで全てをなぎ倒せ!
 数分後に扉が開く。激闘の末、何とか生還することの出来た僕の体は、飛び散った昆虫達の体液で幾分ベトベトしている。一刻も早くスコールを浴びたい。階段を昇り終えると、幸運にも外は荒れ模様だった。



 ルチャナの様子が変だった。
 ウン。ナンダカチョット熱ッポイノ。褐色の額に手をあてる彼女。
 どれどれ。
 額をあわせる。ちょっと熱あるな、と思った瞬間、僕はその黒い瞳のなかに落下する。

 目が覚めると列車の窓際にいた。吹きこむ風に額の微熱を奪われて、思わずハッと手をあてる。だが失ったその温もりの正体を、僕は思いだせない。
 枯れた草原にまばらな木々が後方に流れていく。暗い車内に目を転じると、褐色の人々。女たちは緑や赤やカラシ色の布を頭に巻き、シンプルな柄の薄物を身にまとっている。老人はしわくちゃでみな同じ顔をしている。

 観察のあいだに、列車は終着駅に着く。

 駅舎を出ると日射しと砂ぼこりに歓迎される。そんなに暑さは感じない。だが喉は渇く。バーを探すが店はどこも閉まっていて、店先には数人の若い男が談笑している。弦楽器を持つ髭の男。その旋律に陽炎は踊る。
 やっと開いてる店を見つける。テラスでビアを注文する。ウエイターと呼ぶには十年早い少年が運んできたその瓶は、案の定生ぬるい。だがこういう土地のビアはぬるいのが旨いことを僕は経験で知っている。

 瓶を傾けながら考える。僕は彼女と本気で結婚したかったのか。
 分からない。だがもうどうでもいい。
 女は街。人生の旅人にしかその本当の魅力はわからない。

 ここは微熱の街。
 僕ひとりだけが醒めている。



 闇に紛れた公園のわきにとめられた車の中で励んでいる男と女。
 窓を閉めきった車内には汗と吐息が充満している。
 黒のタンクトップを捲し上げ馬乗りになった女の胸の谷間から汗が流れ下腹部へと伝い下りていく。
 ガラスが曇るほど腰を振り、やがて二人は抱き合ったままシートに倒れ込んだ。
 しばらくの間、二人の荒い呼吸だけがひびいた。
「ねぇ、この車クーラー効かないね」
 男から身体を離し、女は助手席でティッシュを手に前かがみになっている。
「ガスが切れてるんだ」
 ジーパンをはきながら男はそう言った。やや不機嫌な表情をしながら。
「あっつい」
と、声を漏らして女はドアを開けた。
「外のほうが涼しいぐらいじゃん。あーシャワー浴びてビール飲みたい!」
 女は、踊るようにふらふらと夜の道を歩き出した。
「なぁ!」
 男は呼びとめる。
「明日も来るんだろう?」
 女は何も応えず、背中越しに手を振って闇の中へ去っていった。



 大きい水槽を用意しましょう。そこに三センチほど水をはります。≪気候の粉≫をまんべんなくふりかけ、水槽に布をかぶせて一晩おきます。どの気候区分になるかはお楽しみ。
 翌朝、水槽の中には絵の具を溶かしたような海と、いくつかの島ができていた。島の森には花が咲き、たくさんの果物がなっている。一ヶ月で一年の変化がおとずれる。僕は自由研究でこれを観察することにした。
 南国の箱庭に異変が起こったのは三日目だった。雪が降っていた。目をこらしてみると、森の中に針葉樹が混ざっている。不良品にあたったらしい。お母さんがメーカーに電話すると、こんな答えが返ってきた。
「そちらは未来の気候区分です。温暖化により、現在の亜寒帯まで亜熱帯域が広がると予測されております」
 そんなことあるわけないとお母さんは言った。亜寒帯の粉が混ざっただけでしょう。
 なんでもいいやと僕は思う。きつい陽射しに溶けてしまう雪。もっと雪の力がつよければ、フルーツシャーベットの木ができるのにな。



 灼熱に併呑されようとしていた。荘厳から畏怖に移変する。物理的逃避が叶わぬのなら、せめて観念的逃避を。私たちはこの瞬間をその言葉で名状して心を閉じた。そして無になった。



 音が聞こえる。遠くから近くから、それは虫の羽音のようでもあり、小動物が駆け抜ける葉ずれの音のようでもあり、大粒の雨が地を叩く音のようでもあり。ぼくは身動きができない。てのひらにはじっとりと汗。額を流れる汗を拭うこともできず、熱にうなされたままぼくは横たわる。
 右手の小指がぴくりと動く。とたんに音が消える。目覚めるとシーツが汗でぐっしょりと濡れている。金縛りだ。シーツの端で顔を拭く。けれども。汗の匂いにまじって香るのは、これは。遠い大地の熱い砂の匂いではないのか。
 違う、あれは夢だ。
 ぼくは寝返りを打つ。深呼吸をして体の力を抜く。
 けれども。左足の小指からはい上がって吸いついてくる感触、あれは蛭ではないのか。
 そう思った瞬間、また動けなくなる。音が聞こえる。遠くから近くから。それは遠雷のようでもあり、山火事のようでもあり、夜に飛び交う獣の遠吠えのようでもあり。ぼくは動かない体で、その熱さのただなかにいる。



その、あまりのゆるい暑さに、僕は目を覚まし、軽く寝返りを打ちましたのです。
 母を、近くに居るはずの母を呼ぼうと思ったのですが、のどが掠れていて、甘えた獣のようなうめき声しか出せませんでしたのです。
 すると、僕は、ただの一匹の獣である。といえなくもないはずです。
 言ってみましょう。 
 (リピィト アフタ ミィ)
 しかし、僕はこの場所で、原因不明瞭かつ名称不明瞭の熱病にもだえ苦しむ優しい少年でしかなっかたのですから。そして、その僕の気分は、まるで深海に沈む枯れ落ち葉のよう。イエス、マリー、君は決して赤いスカートを見つめてはいけない、ゾ。
 暑くて、眩しい、のです。
 ここは、天然天蓋ベッド。 
 聞こえてくる音といえば、遠くの車の走行音と、くぐもったTVの音声と、枕元に潜む見知らぬ昆虫の羽音、のみ。
 障子いちまい隔てた隣室から、母がお昼ご飯を用意する音が聞こえてきました。
 お母さん、今日の昼食は何ですか?
 お母さん、いつも、何を食べているのですか?



 春の品川あたり。

 亜熱帯から木材に載ってやってきたセアカゴケグモが、港南から港北へ差し掛かる この境目の道を、渡ろうか、渡るまいかと、いま、まさに、逡巡しているところ。

 東京は今、微かに亜熱帯に傾こうとしている。



 椰子に似た奇妙な木が茂っている。子どもの頃描いた空想の南の島のようだ。空は不思議な藍色。真昼なのか、真夜中なのか。いや、全体が水面に映った影なのかもしれない。わずかに漣が立っているようにも見える。そして「微亜熱帯」のレトロなロゴ…
「また、ずいぶんと洒落たパッケージになったな」
「社長の趣味だろ。ビールの新製品なんて売れやしないさ。シェアのほとんどを発泡酒が占めるようになって久しいからね。若い連中なんて『この発泡酒の偽物、変な味』だってさ」
「凝ったもの作っても、なかなか理解されないんだよなあ」



その電車が急に速度を落とした時、私はバランスを失って
斜め前の席の女性によろめき、後ろの窓ガラスに
手をついてしまった。
「失礼!」

電車は再び元の惰性に戻り私もホッとしていると、彼女は私が
よろめきそうになったことなど、全く意に介さずに携帯のメール
に夢中になっている。
キーと指の間の往復運動が明かに私を、世界を、拒絶していた。

コガネ色に光る彼女の携帯。入力する指に熱がこもり始めていた。
指とキーとの間には熱の層が出来上がりつつあった。
私は私と世界を拒絶する彼女を知りたくて、知りたくなって、
その手元を上から覗き込んだ。

サトキ…カゲさん、ミクラ…クワガタさんに…あいたく…、いつ…
クヌギのジュエキ…でおまち…よ。カナブンより

かろうじてそう読めた。入力後、彼女はやっと私に気づいたらしく、
視線をこちらに向けた。澄んだ瞳。ポッとほおを赤らめた。
「どうぞ、お座りください」

いえ、私はまだ若いですから、と言おうと慌てたが、周りの乗客が、
そうした方がいいという顔をしている。私はいつどんな理由で歳を
とってしまったのか。

次の瞬間、彼女はすでに座席にはいなかった。
窓ガラスにこびりついていた私の指紋が
ひらひらと舞っていった。



開発途上国やアメリカが温暖化抑制に加わらなかった。
開発途上国も先進国並みの生活水準となりエネルギー使用量が大幅上昇。
熱帯地方でクーラーを持たない人は無く、廃熱で外気温は大幅上昇。
温暖化でクーラーを強めにし、それがまた外気温を高め、熱暴走。
アマゾンなど開発し尽くされ森林少なく樹木が炭酸ガスを吸ってくれなくなった。
シベリアで凍土が溶けメタンガスが発生。メタンは炭酸ガスの30倍の温室効果。
 凍土が溶け泥沼となり根が腐り木が倒れ湖となる。雨が少ないと湖が砂漠に。
温暖化すれば氷が減り、氷が減ればさらに温暖化。
温暖化し海底のメタンハイドレートからメタンが一斉に吹き出し、さらに温暖化。
あまりの暑さで熱風が吹き荒れ、大規模な森林火災が恒常化した。

「以上が、シベリアまでもが微亜熱帯化した原因だよ。まさか、こんなことになるとはなあ。」
「更に困ったことには、グリーンランド沖の氷が溶け、深層海流の循環が止まり、気温が激変する時代になった。」
「2050年になった今では悔やんでも悔やみきれないな、残念ながら。」



ぬるま湯のような熱が世界をとろかせている。
燃え立つような赤色が、鳥の体の輪郭をはみ出していて可笑しい。クレヨンの赤色だけがみるみるとちびていった子供時代を思い出してクスクスと笑った。その声も鳥の鳴き声になって樹林に消える。ブーゲンビリアが咲き誇っている。あの花に見える所は花ではない。葉なのだと思い出す。その色が赤色なのか紫色なのか、母と何度も論議した。したはずだ。したのだろうか。件の鳥は赤い色彩だけ梢に残してどこかに飛んで行ってしまった。そうして私も私の色彩だけ残して歩き出す。なにせここは微亜熱帯の密林。裸でなければ意味がないのだ。
絡んで捻れて絡んで伸びて行くガジュマロの樹に私の髪も絡んで伸びて行く。どこまでも髪は伸びて、私の中にこんなに髪の毛がつまっていたのかと驚く。膨らんだ髪の中には心珠が幾粒も光っている。それが熱に溶けていく様は綺羅星のようで、ほうっと溜息をつく。世界は輝いているのだと知ることができる。眼裏に太陽。父の影が逆光を背負って浮かんで、それも溶けて行く。記憶も溶けて行く。私も溶けて行く。微けき気配だけ残して、熱となって消える。やがてこの樹海に降り注ぐ雨になる。なぜならぬるま湯のような熱が世界をとろかせているからだ。



 私には“好き”か“嫌い”の2種類しかないからあなたの言う私への感情が『微亜熱帯かな』なんて全然理解出来ない。通知表で4.46なんて評価ないでしょ。オリンピックかテメェは。
 私には“愛”か“憎”しか選べないのになにをもってしてそんな曖昧な言葉を造るの。私とはオセロゲームくらいしかやる気がないってことなの? 溜め込みすぎて破裂した告白を『微亜熱帯くらい』なんて右にも左にも転がれて天にも地にも飛んでいける言葉で返すからますます百科事典を枕に寝てんのかテメェはとはたきたくなる。
『微亜熱帯状態』じゃなくてちゃんとこの世に存在する場所を指示して欲しい。そんなだからいつまでたっても煮えきらないあなたを焼き尽くすことが出来ないで微熱がいつまで経っても下がらない。って、微熱って病気の言い訳かよ。



   いずこにか在る微亜熱帯
   不思議な世界の微亜熱帯
    小さな小さな微亜熱帯
   サンゴと夕陽の微亜熱帯
      南国香る微亜熱帯
     虹の花咲く微亜熱帯
      紫蝶舞う微亜熱帯
  神秘な霧ただよう微亜熱帯
    天使舞い降る微亜熱帯
    星がきらめく微亜熱帯
     思い出刻む微亜熱帯
     幸せ探そう微亜熱帯
    すべてを包む微亜熱帯
  あなたのハートに微亜熱帯



「今年もまた開花宣言が早くなったね。異常気象、ってやつ?」
「毎年毎年早くなっていくなら、それって常態だろ。異常、とは言わないんじゃないか?」
夏というにはなまぬるい不快な日が続く。亜熱帯と呼ぶには暑さが物足りない。体が慣れてしまったのかもしれない。それでも毎年平均気温はジリジリと上がっていく。地球全体がそうだった。
「近頃では開花宣言も出せなくなったね。桜も年中咲きっぱなしだ」
「あれはもう桜じゃない。年中花咲きっぱなしの木なんて桜じゃないもの。何か別のモノに変わってしまったんだ。亜・桜ってとこかな」
「人間も変わってきたよね」
「君もそう思うかい? 理解不能の連中が増えてきたのは、彼らのせいでも僕らが悪いんでもない。彼らは人間以外の何か、なんだよ。進化ってこういう風に起こるんだな」
「亜・人間、ってところか」
「ま、微、くらいの変化にしか見えてないけどね」