内と外
本職が忙しく、選評がたいへん遅れまして誠に申し訳ありませんでした。幻想物語に耽溺するような人間が雑事にまみれた現実と戦うというのは、かなりナンセンスだと自分では思っているわけですが、ナンセンスだと口にしてみたところで目の前に積まれた書類の山が消えるわけでもなく、この脆弱な肉体にとっては机の脇でほこりをかぶった古い日記帳を恨めしげに眺めるくらいしか、抵抗ができないのも事実だったりするのです。
さて、今回の選評ですが、基本的に物語の評価基準は変わっていません。背後にある物語を僕は読み、それを評価します。物語を綴るということは内にあるものを外にあるかのように見せる作業であります。そして、それを読むと言うことも実は内にあるものを外にあるものとしてみるということなのではないかと思うのです。
ところで、内と外といえば、物語には「心情」と「風景」という内と外がかならずあります。超短編ではその短さゆえ、それらの内と外をきっちり分けてしまうことができないように思います。内を描きながら外を描く、外を描きながら内を描く。読者の視点が内と外の間をさまよう行為そのものが、超短編という物語なのではないか、とそんなことを考えながら、選びました。
末の点 : 春都
> 周りながら落ちるか、一直線に落ちるか、選べるのだけれどもと言われた
世界そのものを何らかの比喩として捉えるという物語は多く書かれていますが、この作品もそういったタイプのものでしょう。段落の冒頭で「まっすぐに滑り落ちる」というフレーズが語尾を変えて綴られるのはきわめて技巧的なやりかたで、「収束」を視覚化するのに成功しています。ただ、その技巧的な部分があるために、それ以外のことばをもっと鋭くできるような気がしてしまいました。
影 : はるな
> 私の部屋に来ると、彼はまずスーツを脱ぎ、靴下を脱ぎ、影を脱ぎ捨てる。
「影」をテーマにした作品。この作品に限らず、影テーマの作品は「人型」「薄い」が物語構築の根底にありそうです。また、影がそれを作る対象と切り離せないことから、ドッペルケンガー的なイメージもよく描かれます。この作品は「切り離せないこと」を男女の繋がりの比喩として描いているところがポイントでしょうか。ただ、最後の一文の書かれ方がやや陳腐なのが惜しいと思いました。
「アイスクリーム・キャンディ・ラヴァーズ : 根多加良
> 愛してる?
けだるいがどうということのないようにも思える冒頭が「目玉」を境に崩れ落ちていきます。描かれている感覚が世界そのものをどんどん歪めていくという作品です。そして、この作品はまさに「内と外」のお話ではないかと思いました。ここでは恋人たちの内部にあるものを「熱」に、外部にあるものを「雨」に託しているようです。また、タイトルも選者の好みではないものの巧いです。どちらも甘いのですが、アイスクリームは熱(内部)で溶け、キャンディーは水(外部)に溶けるわけですね。登場させるアイテムの持つイメージをうまく使っている作品だと思います。
氏の鼻 : 庵之雲
> きっかけはフリースだった。
フリースというおよそ物語的とは言い難い物体から話を始めるところが、法螺話を感じさせて良いです。そのフリースはあっという間に物語の舞台から転落し、タイトル通り「鼻」の物語になります。ところでこの「氏」というタイトルはなかなか意味深です。そもそも「氏」という名字なのだ、というありがちなトリックも悪くはないですが、それよりは素直に三人称の「氏」と捉えます。あえて「彼」ではなく「氏」をつかったところにおもしろみがあります。「氏」のもつ、よそよそしさが、法螺話を法螺話らしくしていると考えます。超短編としては「広がる」感覚を大事にしたいと思うので「それきりである」という、落ちめいた終わりは好まないのですがなんの説得力もないのに唐突に終わる法螺話のこの作品ならば、悪い終わり方ではないのかなと思いました。
部屋
「悲しみに直接手を触れてしまった」など魅力的な表現がありながら、言葉の並びにオートマッチックな印象を覚えました。
初球。高めのカーブ
すぱっと短く気持ちが良い作品でした。あと数本補助線を補えば、きわめて魅力的な作品になるような気がします。
風景画家の苦悩
出落ちといいましょうか、タイトルがすべてを説明してしまっています。
恐怖の念
淡々と進むエッセーのようなお話が、宙ぶらりんのまま終わります。この「宙ぶらりん」の感じは良いと思いましたが、そのほかに何か一つテーマを支えるものが欲しいかもしれません。
判断(あるいは疲労時における睡眠の重要性について)
「説明的なセンテンス」「500文字を超過していること」などがあまり効果になっていないのが残念です。
傷
書かれている状況はナンセンスなものなのに、どこかで見たような空気を感じさせてしまうのは、最後の医者の台詞からのような気がします。
三分間
「読む」ことをそのものを題材とした作為的な物語ですが、こうった題材は既にやりつくされている感があります。