500文字の心臓

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短さは蝶だ。短さは未来だ。

五年目のご挨拶

 早いもので「500文字の心臓」も五年目を迎えました。有り体な言い方になりますけれど、これもひとえに参加して下さっている皆さんの支えがあったからこそだと感じ入っています。ありがとうございます。
 よくここまで続いたよな、という事も考えたりします。サイトを開いた頃にはと比べると参加して下さっている方や投稿される作品の数も増え、タイトル競作では試験的にですが作品数を制限するまでに成長しました。こんな風にまでなるなんて思ってもみなかった事です。もちろん投稿数だけでなく投稿される作品の質もぐんぐん上がって来ており、何とも頼もしいこともしきり。そういう風に感じられる折りにつけ、「500文字の心臓」を続けて来て良かったと思います 。
 2004年は色々とめでたいニュースが多かった年でした。スケヴェ・キングこと森山東さんが日本ホラー大賞短篇賞受賞し『お見世出し』が角川ホラー文庫から出版され、カヴァー・イラストは「イラスト超短篇」で選者を務めた宮田真司さんが担当。また自由題選者の松本楽志さんは井上雅彦編「異形コレクション」の『蒐集家』に『海をあつめる』という短篇が収録されメジャー・デヴューしました。松本楽志さんは東雅夫編『稲生モノノケ大全 陽之巻』にも作品が掲載される事が決まっています。それと、そうした出版に関する事ばかりでなく御結婚された方も何組かいらっしゃいましたね。
 2005年もめでたい事が沢山あればと願っています。実はこの「500文字の心臓」に関係する形で、超短篇を本に収録する企画が二つほどあります。そのどちらもどうなるかまだ解りませんが、出来るだけ良い形で発表できるようにしたいと考えています。
 これからも至らない点ばかりで皆さんに心苦しい思いをさせてしまう事も多いとは思いますけれども、これまで同様「500文字の心臓」をよろしくお願い致します。


選者:峯岸 



掲載作品への評

輾転反側 : スナフキン

> 僕がころころと転がると、隣の男も転がってきた。

「輾転反側」というのは思い悩んで眠れず寝返りを打つ事。この作品では単に眠れずに寝返りを打っているという意味で使っているようですがころころ転がりながら星を探している男とその隣で眠れずにいる「僕」のコミカルなやり取りの中にちょっとした懐かしさや切なさが垣間見えるようです。



恋の願い : 瀬川潮

>  星空をかすめ、流れ星きらり。

 炭酸の細かな泡を夜空の星に見立てた作品で、星空とソーダの対比がとても可愛らしい。ただ文章的には推敲が必要。「目を開ける。が一斉に」など、一般的でない書き方を敢えて使わねばならない必然 性は感じられませんでした。



銀河鉄道 : 春名トモコ

>  恋人の部屋のベランダで、夜に沈んだ街を眺めていた。

 雰囲気のある作品で完成度も高いと思うのですけれども、いかんせん既読感が強いか。もちろん宮沢賢治へのオマージュという事もあるのでしょうけれども。うーん。



掲載されていない作品への評

花信

 掲載にしようか凄く悩みました。どことなくエロティックでカラフルな幻想はとても魅力的なのですけれど、そのイメージに物語が追い付いていない印象があり掲載へは踏み切れず。描写が曖昧である事と、作品に多様性がある事は違うと思います。もう一息。



恋をしている

 内田春菊『南くんの恋人』の逆バージョンという感じのキュートな作品。文章的には些かこなれていないのが勿体ない。タイトルも直接的過ぎる気がしました。



正しい月

 書かれている事は解るのですけれど、いまいち納得が出来ませんでした。こういう「別解釈もの」は説得力が作品の面白さに比例します。どんなに現実から離れていても思わず納得させられてしまう様な魅力が欲しい処。
 あと一行目は蛇足、というか「性善説」というのは人間が持って生まれた性質は善であるという考え方の事であって、「初めのうちは正しいことをしようと思っている」という事ではないかと。



カナリア

 ペダントは確かにそれを知っている読み手には強い吸引力を生む事がありますが、そうした事だけに頼ってしまうと作品がひとりよがりのものになりやすくなります。それを知らない読み手にも楽しめて、知っていれば更に深く楽しめる、というのが理想だと思います。
 蛇足になりますが「自由とは必然性の洞察である」という言葉はヘーゲルが直接に使ったんじゃなくて、エンゲルスが著書『反デューリング論』の中でヘーゲルの考えを要約して使ったものですね。タイトルはいわゆる「炭坑のカナリア」から来ているのでしょうか。



反抗期

 作品としては最後の段落2つだけで成り立っている様に思いました。まあ前半も面白い事は面白いんですけれども、うーん。「意味がわからない」という部分は、共感させられました。



中華料理

 中華料理の時に使うターン・テーブルを喩えているのでしょうか。もしかしたら語り手の小龍包の、ターン・テーブルをめいっぱい使う豪華な料理に対する憧憬も表れているのかも知れません。ですが、たた何かを喩えているだけでは作品としてやはり足りない。



午後の空

 いわゆる「夢オチ」。夢オチの作品に傑作が過去にない訳ではありませんが、現在それでどんなに面白い作品を書いてもパクリや不勉強の謗りは免れないでしょう。夢オチがタブーであるという事はショート・ショートの基本中の基本です。



サンダース軍曹

 厳ついサンダース軍曹のエピソード。勇猛な軍曹がちょっとした事に動揺してしまうというのをユーモラスに描いているのですが、作品の魅力が結局の処そのギャップにしか見られず。「ああすればこうなる」とか「ああなのにこうだった」というシンプルな構造以外の魅力がなければ、作品の魅力にも限界があります。それは超短篇であってもショート・ショートであっても同じでしょう。



せめて……み、水を……。

 独白を続けた後に最後でその主体を明かすという構造のショート・ショート的な作品で、ある種の叙述トリックと言えるでしょうか。これも「ああなのにこうだった」的な展開。実は主体が動植物や物体などの言葉を喋れないものだった、という体の作品は今まで余りにも書かれ過ぎていますし、また前後のギャップにも限界があり、この手法だけで読み手に既読感を覚えさせない事は至難でしょう。
 また作品の方向性や魅力が単一的で、再読に耐えるかどうかも疑問。ショート・ショートはアイデアが命です。