500文字の心臓

トップ > 自由題競作 > 作品一覧 > 第02回:松本楽志選


短さは蝶だ。短さは未来だ。

[優秀作品]橋を渡る 作者:峯岸

 鼻削ぎが現れた。
 橋の中央に立っていてこちらを見つめ鞠をついている。鼻削ぎは橋から出られないので襲われる事はなさそうだけれどこのままでは川を渡れない。とはいえ急いでいるのも事実である。対岸を行き来できる橋は他にないのだから困る。どうにか良い手段はないものか。
 鼻の無い男がやってくる。ぶつぶつ何か呪文の様な言葉を口にしながら鼻削ぎに向かう。一歩々々男はその身を異形化させている。完全な獅子の形になり物凄い声で吼える。鼻が欠けているからなのか籠っている声で不気味だ。鼻削ぎはおかっぱ頭で静かに鞠をついている。もう陽が暮れそうだ。獅子が飛び掛る。
 獅子に喰われながら鼻削ぎはおぼろに微笑んでいる風に見える。鼻削ぎの手から離れた鞠がこちらに転がって来て俺の目の前で止まる。細かい刺繍は白い百合。紅い綺麗な鞠だ。拾おうと身を屈めると鞠がぼやけてくる。もう手を伸ばしても触れなくなっていて程なく消えてしまった。
 鼻削ぎを呑み込んだ獅子は手摺りに飛び乗る。咆哮。首を大きく振り上げるとそのまま石になってしまう。俺が橋を渡ろうとすると野次馬の一人が鼻の欠けた獅子の彫像に寄ってきてこれで金儲けが出来ないものかと画策している。



逃走 作者:三澤未来

 全身どころか影までライトグリーン一色の人影が、いくつも雑踏をすり抜けていく。地下鉄の入り口やデパートなどから、まだ続々と飛び出している。人ごみにも邪魔されない程度の薄っぺらい体躯で、するすると一目散にどこかを目指して走っている。
 怪訝な表情でそれを見送る人々を尻目に、私は力の限りその人影を追いかけていた。自分を含めみんなには感じられないだろうが、あの人影が逃げ出すほどの、何かとてつもない危険が迫っているはずだ。その行き先はわからないけど、きっと他のどの出口よりも安全に違いない。



目玉蒐集人 作者:ひまわり

 戻ってきて袋をのぞいた。収穫は少ない。ま、こんな日もあるさ。もう朝になる、早く寝よう。と、イテテテ!と金切り声。おき上がって袋を開けると、緑の目玉に睫毛が刺さっている。よくよく見ると巻紙になっている。開いてみたら「凶」の字。おかしいな、と首をひねる背後から、何色もの目玉がうようよと迫ってきている。



影分身 作者:こしゆ

 葬式をさぼった。38度5分の熱。無理をすれば行けたが週明け仕事がどうにもで、というのは嘘で、本当は彼の死を認めたくなかったのだ。きぃちゃん。ひとつ上で32歳の従兄は前方不注意の車にはねられて亡くなった。ヤダね。信じない。私がお嫁さんになるはずだったのに。いや私は既に昨年結婚したが、昔そう思った気持ちに嘘はない。
 小学生のころ毎夏休みを、きぃちゃんの住む遠い田舎で過ごした。ひどく子どもが少ない土地で遊び相手はきぃちゃんだけ。蛙をとったり花輪を編んだり。でも大抵はお揃いの麦藁帽で、ただひたすら走り回った。きぃちゃんが溝を飛びこえれば私もこえた。小麦の穂に似た強い日差しの中、ずっと背中を追いかけた。帽子の黒りぼんがゆれる。「ふたりそっくり、影分身」おばさんが笑っていった。
 こんな追憶にひたりながら一日中寝込んでいた。胸の上で手を組み「きぃちゃん化けて出ろ」と念じたが、気配もない。やはり葬式へ行けばよかったか。夜遅く母から電話があった。「お顔がね、あんまりお前にそっくりで」ああ、すごくうれしい。影分身の術、再びだね。でもさ、きぃちゃんは、影だけ置いて、どんな遠くへ行っちゃうの。



スクウィイー 作者:たなかなつみ

 かれの名前はスクウィイーで、ぼくには名前がなかった。かれの体は平らで薄く、どんなに狭いところでも平気で入っていけたが、ぼくの体は丸くてでこぼこしていて、スクウィイーのようには動けなかった。けれども、スクウィイーにはぼくがいなくてはならなかったので。ぼくはそれを知っていたし、かれもそれを知っていたので。だからぼくはスクウィイーがどんなにきらきらとして得意げでも、薄笑いを浮かべてそれを見ていることができた。結局のところスクウィイーを消すことなど簡単なのだし、ぼくはいつでもそれを選ぶことができるのだ。
 スクウィイー。ぼくの声が高く反響してスクウィイーに届く。呼ぶのはいつもぼくだ。探すのもぼくだ。壁から足下から空から、それは形をなす。ぺらんぺらんの柔らかくて厚みのないそれ。ぼくに笑いかけてくれるそれ。スクウィイーはぼくの体にまとわりついて、そして囁きかける。スクウィイー。けれどもそれはきみの名前だ。わかっている。それでもぼくは薄笑いを浮かべて、それに答える。そうやってぼくたちはお互いを映し合う。
 そしてぼくには名前がない。いつまでも。