500文字の心臓

トップ > 特別企画 > イラスト超短篇 >宮田真司賞


短さは蝶だ。短さは未来だ。

 人の唄う歌についてよく考えます。歌にはメロディ=音楽と、歌詞=詩があります。では私に感動を与える源はそのメロディなのか、それとも詠われる詩にあるのか。
 その歌の歌詞を読めばその意味内容に感銘を受けますが、歌を聞いた時と同じ種類の感動は受けません。その曲を聴けばその表したい感情が感じ取れますが、やはり歌を聞いた時の感動とは別のものです。では実際問題歌を聴いた時に私の情動を揺さぶる“もの”は一体なんなのだろうと。言葉ではなくメロディでもないのなら、何が感動を与えるのだろうと。
 言葉は知性の領域にあり、ロゴス的(論理的)なものでしょう。メロディは身体的なリズムであり、パトス的(感情的)なものでしょう。歌の持つ情動喚起性は、もしかしたらロゴスとパトスの融合にあるのかもしれないと、冬の空を見上げて考えます。言葉を読む時に、私たちは記号の表現を解読し意味内容に翻訳しなければいけないでしょう。その翻訳を惑わし、受け止める人を揺さぶり、不可解さの中にパトスを生起させるのが詩文ならば、歌に詠われる詩は身体的なリズムに則り、パトスの方角から直接にロゴスを情動の中心に投げ掛ける呪術的なものなのでしょう。例えば読経の木魚のように、葬送に鳴る鐘の音のように。
 歌とは、身体的な妙なる調べに身をゆだねながら、その渦の中で記号を呼びかける装置です。それは詩文ではなく、メロディでもなく、その総体として分離不能な表現形式なのではないでしょうか。そこでは情動と論理が複雑に絡み合い、新たな情動を聞く人に喚起させます。知に働けば理が勝る、情に棹させば流される。とかくに人の知性とは難しいものなのでしょう。

 ところで、絵というものは文学ではありません。文学が言葉という記号でなにごとかを伝えるものだと考えるならば、絵で描かれるものは記号となってはいけないものなのでしょう。Illustrationという言葉はIllustrateという動詞の名詞形ですが、Illustrateには図示する、例示するなどの意味があります。私はこういった意味で、自分がイラストを描いているとは思っておりません。それは単に絵、あるいは画像、ただPictureであると考えます。
 Pictureに描かれるものは、ただ色彩です。自然界にある“もの”から質量を剥ぎ取り、その光反射率のみを捨象し平面に定着させるものが絵なのでしょう。それは自然界の“もの”の似姿です。それは人の意識を通過して変容します。それは定着の際、手という道具によって制約され変形します。それは作家の思考により配置されます。それは楽しかったり悲しかったりします。それは食べられません。それは空気より重く人間より軽いです。
 ここにおいて絵、Pictureとは、メロディと同じようにパトス的なものなのではないかと思います。例えば自然界の風の音に音階を感じること、骨の軋む音に死を想うこと。その音にメロディを作りリズムに則り刻んでいくことは、視覚として自然界の色彩を取り出して提示し、なにがしかの感情を与えうる、Pictureと同じ階梯にあるでしょう。

 前置きが長くなりましたが、この度“イラスト超短編”のお題として私の絵を使っていただけるとのこと。これは正に歌のようなものです。パトスとしてのPictureにロゴスとしてのStoryをつけること、それはメロディに詩文を詠い分離不能な総合芸術としての歌を作り上げることと同じでしょう。パトスの領域にあるPictureは、ロゴスの領域にある物語に侵食されることにより、“図示させられる”ことになります。Pictureがその絵によってではなく、付与された言葉によって“Illustratedされる”。それがイラスト超短編です。そしてそのロゴスとパトスは複雑に絡み合い、総体としての“なにか”を構成しなければいけません。そうでなければただの絵(Picture)と超短編であり、イラスト超短編ではないからです。
 ただでさえ超短編は物語と詩の間を揺らぎます。情に棹さすか、知に働くか、ロゴスを構築するかパトスに流されるか、揺らぎながら逍遥とする文芸形式です。はてさて、そこにパトス装置としての絵を投げ込めばどのような芸術形式が出来上がるか――――お手並み拝見といったところです。



神話の系譜

 絵に創造と終焉の神話を視た幻視者たちがいました。地平まで茫漠と広がる海原に、原初の海の潮騒を聞いたのでしょうか。
 絵を描くということは一つの宇宙を作ることに似ています。そこでは、偽りの地平に擬似的な遠近法を確立し、一幅の視覚的世界を作りあげます。このとき、カンバスの四角い平面は、ビッグバンを見つめる角張った一つの覗き窓です。わたしたちの宇宙では、ビッグバンの後10-44秒後に重力が、10-38秒後に素粒子間に働く強い力が、10-11秒後に電磁力と弱い力が分かたれ、重力、電磁力、素粒子間の強い力、弱い力という宇宙を統べる4つの力が誕生しました。これら4つの力を統合させるのがいわゆる大統一理論です。
 ここに取り出したのは、イラスト超短編という極微宇宙に溢れるロゴスとパトス、言葉と色彩、それら力の大統一理論を完成させた作品たちです。

【イラスト14】 創世
 予言の通りに厚い雲が空を覆った。この日のために造られた三脚の飛行椅子に魔力が注入され、王、王妃、そして予言者によって選ばれた少女が腰掛ける。「雲の上に出れば安全な筈です」「御無事を御祈りして居ります」「新しい世界を陛下の御力で」家臣たちが別れを告げる。
 飛行椅子は、不和理、浮き上がると一気に上昇する。雲の中は嵐だった。王は風に吹き飛ばされて墜落し、王妃は雷に打たれ燃え尽きる。少女だけが青空に抱かれた。
 眩しくて目を瞑る。地上で何が起きているのか。予言の中身を少女は知らされていない。王の家臣たちの顔を思い浮かべる。王と王妃の死も運命だったのか。彼らは未来を曲げようとしたのかもしれない。心情を耳にしたい。状況を目にしたい。だが再びあの雲の中へ入る勇気はない。親しい人々を想い、涙が零れる。何故わたしだけが。
 やがて魔力の果てる頃、雲が切れる。飛行椅子は滑らかに降下し、着地する。
 信じたくなかった。しかしその場所がいつも遠くから眺めていた宮殿であると僅かに残った柱が語る。それでも根強く生き延びたごく原始的な植物生物が少女を慰める。
 光の子を身籠っていることに、少女は未だ気づかない。

 創世という題と最終行の付き具合(またはそれまでとの付かず具合)に高い文学的意識を感じます。厚い雲を潜り抜けることで光の子を身篭るということ。通過儀礼、試しを経ることによって新たな世界を得るということは、多分に神話的です。光と人という異種婚によって成された子は、言葉と絵という異種婚により生成された小宇宙のアナロジーでもあるでしょうか。
 惜しむらくは、多少絵のディティールに対して説明的であると感じられる部分が、特に後半に見られること。飛行椅子、朽ちた柱、原始的な植物など、常ならば物語的ディティールの付与と見ることもできますが、ことこの度のイラスト超短編では絵に併せたという印象になってしまったようです。

【イラスト45】 創世
「また、おなじことが起きた」
 男は少女とともに、焦土と立ち上る煙とを見つめた。
「彼の気まぐれだ」
 少女は白皙の顔で頷く。
「娘よ。最初の一人になってはくれまいか」
 男の横顔を、少女は寂しそうに見つめる。男の目からは大粒の涙が零れた。
 涙は焼けた大地を潤し、花を咲かせた。タッカ・シャントリエリの花だった。

 奇しくも【イラスト14】と同じく創世という題を与えられた作品です。こちらは一切のディティールを殺ぎ落とし、ただ雰囲気のみを汲み取ったところが対照的です。“彼”が大文字のHe、GODであるならば、原始の混沌に立つ男と少女はいかなる存在であるのか。ビッグバンとビッグクランチの狭間に存在する宇宙意思たちの関係は、ラブクラフトの宇宙神話にも似て魅力的です。
 涙から咲いた花はブラック・キャットの異名を持つタッカ・シャントリエリ。これ以上なく決まっています。創造と終焉の境界に咲くブラック・キャットは、チェシャ猫の笑みだけを世界に朧ろに投げ掛けて消え行くのでしょう。

【イラスト47】
 絡繰仕掛けの渡り鳥が告げる。世界の終末を。それを聞いた少女は、この世の果てで目を瞑る。凍てついた海の上の、既に失われた神殿から雲が立ちのぼる。風が太古からの記憶を、何処かへと運び去ってゆく。献上された化石が乾いた音を立てる。ここは何て静かで時の流れが緩やかなんだろうか、少女は思う。きっと次の世界もあたたかくてしあわせなものに違いないでしょう。
 夜が明け、少女はいなくなった。空の玉座から渡り鳥が飛び立つ、次の世界でも目指すのだろうか。一陣の風が吹き、押された化石が氷海の波間に沈んでいく。やがて朽ちた柱も玉座も沈み、停止した波は徐々に飛沫をあげていった。そしてそこは海になった。変哲もない、大海原が持つ光景のひとつになった。
 また途方もない時間が過ぎ、少女は帰ってきた。世界を動かしている古時計はすっかり止まり、海底から浮かんできた玉座に少女は腰を下ろす。この世が滅びるたびに繰り返されてきた儀式、やがて渡り鳥が飛来し、少女は目を瞑る。夢を見る。次の世界の夢を見る。

 こちらは全くの正攻法で世界の終焉と再生を描きました。描かれた海原の押しては返す波のように、百億の昼と千億の夜を繰り返し繰り返し、生まれ、死んでいく世界の構造を描ききっています。その何の衒いも見せず紡がれる文章は簡潔にして充分で、とても好感の持てる作品です。
 鳥に対する意味付けが秀逸です。渡り鳥はその姿によって季節を告げるもの、鶏はその声によって時を告げるもの。その鳥を終末を告げる使者としました。思えば絡操仕掛けのこの鳥のフォルムは、御使いの持つ喇叭にも見えてきます。



物語のきざし

 絵に物語を感じた語り部たちがいました。ロゴスの比重を大きく取り、物語の筋立てに情動を突き刺す必殺の針を仕掛けた作品群です。
 物語とは何かと考えたときに、“AはBした”という構造の中で、AがBをしたというその行為自体に文学的面白さがあるものであると考えます。これは言語の構造、文脈に重きをおく文芸形式なので、多分にロゴス的でしょう。反面、“AはBした”という構造の文の中で、Aに代入した言葉、Bに代入した言葉の指示内容や意味内容に多層の意味をもたせたり、到底そこに代入しえないような不可思議な言葉を当てはめ、それを持って“AはBした”という構造から解き放たれるもの。それが詩でありパトス的な言葉であるのだと、私は考えます。例えば「メロスは激怒した」といわれる時、そこで大事なのはメロスが激怒したということです。ところが「ヤカンはトンテンした」といわれる時、見るべきなのはヤカンがトンテンしたことではなく、それがヤカンであり、トンテンしたといわれていることそのものです。
 ここに収められたものたちは、“AはBした”と語りながらも、そのまなざしは言語化不能の視覚表現、絵を向いています。パトス装置である絵という翼を獲得し、“AはBした”という構造を持ちながらも、“ただAはBした”という文脈からの脱構築に成功しました。これらは最も“超短編的”な作品群であるといえるでしょう。

【イラスト2】 昔語り
「昔、ここは豊かな国だったの。この椅子はね、玉座なのよ」
少女はそう言ってかすかに笑ってから、話を始めた。長い長い話だった。彼女は今はないこの国の最後の王様なのだ。この国の全てを知っていてもおかしくはない。
 僕はメモをとりながら彼女の話を聞いていた。亡国の玉座に座り続ける少女の話なんて、旅行記の中の一話にうってつけだろう。
「他に君の国についてのおもしろい話ってないかな?」
 僕がそう聞くと、彼女は少し考えるようにしてから、首を振った。
「私、あなたに何をお話したか忘れちゃったわ」
「ええとね……」
 僕は少女に助け舟を出そうと、メモを読み上げた。
「昔、ここは豊かな国だったんだ。その椅子は玉座だよ」
「ええ、それから?」
 僕は軽くうなずいてから、話を始めた。長い長い話だった。僕は今はないこの国の最後の王様なのだ。この国の全てを知っていて当然だ。
メモをとりながら僕の話を聞いていた少女は、僕に質問をする。
「他にあなたの国についておもしろい話ってないかしら?」
 僕は玉座に寄りかかり、首をひねる。少女に何を話したのか、さっぱり覚えていなかった。

 自らの尻尾を食むウロボロスのような円環構造を持つ物語です。童話的造形を持つ少女の話し言葉は、その脱現実性によって語り手と聞き手の自然な転換に一役買っています。少女はウロボロスの環の中にいるようで、しかしその状況を支配する、したたかな女王であるかのようにも読めます。であるならば、この閉じられた円環世界は彼女の最後の王国でもあるのでしょうか。ルイス・キャロルによって描かれていながらも、その実その成長の不可逆性においてキャロル=チャールズ・ドジスンを支配していたアリス=アリス・リデルの寓話すら思い出します。
 ところで、私はこの物語を読んで別の円環を見出すことができるただ一人の人間かもしれません。これは変人扱い、というよりは“ぶっている”と思われるのが厭で話したことはないのですが、長いこと一枚の絵に集中してむかっていると、いつのまにか絵の構成要素と対話している自分に気付きます。たとえばまだ描かれていない空いたスペースに描こうと思っている物体が主張し始めたりします。たとえば描きこんだ面のそのテクスチャとマッスが、他の面に対して何事かを語っている声を聞きます。それはキャラクター化しているわけでも、言語化された声を持っているわけでもないのですが、なにがしかの“コミュニケーションとしか呼べないような物”を発していると感じるのです。それはスピリチュアルな意味でなく、ただの認識作用のごまかしだとは思いますが。
 そのような状態の時、果たして私は絵を自らから生み出して描いているのか、どこかに存在する絵に描かされているのか、逍遥し惑うことになります。そこではこの物語に見られるように、描かれる者と描く者との間でウロボロス的な円環が成立しているのでしょう。私の絵に描かれた少女が首を傾げながら「他にこの絵に描くおもしろいことはないかしら?」と問い掛けてくるようです。

【イラスト18】
 永遠不滅の名を騙って都が爛熟する。一層ずつ異なる色の漆喰を塗り込めた塔が広場を取り囲んで見下ろし、隙間から射す光が瑠璃色モザイクの舗道に乱反射する。重戦車を薮と桂冠で飾り立てた山車が、深い轍を刻みつけて街路を練り歩く。昼花火の爆音。紙テープとフライヤとパン屑が舞い、鳩と鴉が入り乱れて渦をなす。虹色の倍音をもつラッパが、ひしめき合う順番待ちの群衆を撹乱しては嬌声を上げている。午後三時。商工と為政の重みに軋んでこの地面が傾きつつあることに気づく者はない。ただ打ち水の余剰と取り損ねた蹴鞠がその向きに流れるので、辛うじてそうと知れるばかりだ。何百年の歳月をかけて、都は緩慢な死を生きてきた。そして帰るべき海の潮位にはじめて出会うその瞬間に立ち会おうとする者は既になく、水位を測る生贄が街はずれで一人、誰にも忘れ去られたまま静かにその時を待っている。彼女の足が水に浸されると、からくり仕掛けの風向計が狂ったように回転し唸りを上げるはずだが、絶え間ない市の喧噪を越えて人々の耳にそれが届くことはない。

 この作品を読んで、突然マイケル・ムアコック『グローリアーナ』(創元文庫)の書き出しの一文が思い浮かびました。その一文とは、
 宮殿の規模といえばかなり大きな街に匹敵するほどで、幾世紀もの歳月を閲するうちに、付属建築物、公舎、来客用の別館、貴顕や女官の居宅が、遮蔽した通路で結ばれ、そうした通路に屋根が儲けられたことにより、そこかしこでは隧道のなかの暗渠のように、回廊のなかに回廊が、部屋のなかに住居が見出せる一方、かかる部屋は城のなかにあり、かかる城は人工の洞窟のなかにあって、全体にいまひとたび、黄金と白銀と銀の瓦、そして大理石と真珠母でもって屋根が葺かれていれば、宮殿は陽光を受けては千々の色をきらめかして燦然と輝き、月光を浴びては不断に微光を放ちつづけ、その外壁が波打って、屋根が魅力つきせぬ潮の干満のように上下し、塔や光塔が沈みゆく船の帆柱や船体さながらにそびえたっているかに見えるほどである。(訳/大瀧啓祐)

というものです。ムアコックといえば神話的一大叙事詩『エルリック・サーガ』の作者として有名ですが、反面『この人を見よ』などのスペキュレイティブなSFなども著した博覧強記の才人です。『グローリアーナ』はその書き出しの恐るべき力技を見てもわかるとおり、その博覧強記をもってありうべきもう一つの大英帝国を幻視した奇書です。
 なぜこの作品に『グローリアーナ』を思い出したかといえば、退嬰と爛熟を博覧強記に裏打ちされた筆力で描ききる、その力技ぶりに相通じるものがあったからでしょう。頽廃の重みに軋み、傾きゆく都市のその没落が物理的な意味での傾き、やがて海へと還る沈没であることが文芸的重みでしょうか。その傾斜を打ち水の余剰と蹴鞠に託したところが筆力を感じさせます。絵に都市は描かれていませんが、やがて都市の還るべき潮騒の呼び声が聞こえます。

【イラスト21】 生贄
 少女はまだ骨になれないでいる。

 生け贄、あるいは贖罪のイメージは、実は私が絵を描いていて抱いていたイメージに似ています。その意味でこの題と作品は私がイメージしていながら言語化できていなかった領域に端的に切り込んだ佳品です。背景にある描かれない物語の存在を、枯れた風景の中ただ生身で座っている少女のやがて取るべき姿、取るべきであるが取っていない姿に託して感じさせます。超短編でなければ取りえない、正に超短編的な絵と言葉の切断面でしょう。

【イラスト26】 ワタシカナシイ
 大切な鳥が逃げてしまった。でも背中の紐を引っぱってもらわないと、泣こうにも泣けない。クマのぬいぐるみに紐を引っぱるようにたのむと「結婚してくれ」とむちゃな注文。適当にごまかして紐を引かせた。
「ワタシカナシイ」
 たちまち涙があふれ出て、周囲は一面の海となった。ガタガタ震えるクマを蹴飛ばすと、腹の中身をこぼしながら水中に転落。なにかの種が詰まっていたのね。見上げれば上空に鳥が旋回している。やっぱり見つけてくれたんだ! 世界はぜんぶ水に沈んで、もうここしか降りる場所はないんだもの。鳥はわたしの紐を引っぱる。
「ワタシウレシイ」
 鳥はわたしを運ぼうとする。でもクマのぬいぐるみからにょきにょきとヘンテコな草が伸びてきて、わたしにからみついた。草は背中の紐を引っぱる。
「ワタシカナシイ」
 泣くとますます水位は上がる。鳥はわたしと世界を持ち上げて、空に浮かぶのがせいいっぱい。

 描かれた少女を人形とみなした作品がいくつかありました。硬質な地平に佇む青褪めた少女に無機的な印象があったのでしょうか。作者としては特に何事かを意味させようとして描いたものではないのですが、受け取り手がどういう印象を受けるのかを知ることは、とても愉しいものがあります。
 その中でもこの作品は繰り返す片仮名のリフレインと心内風景の繰り返しで読ませるものに仕上がっています。行為する主体としての自我と、思索する主体としての自我の乖離は、古くからロボットテーマのSFや哲学などで描かれてきました。
 全然関係ないのですが、今突然戸川純の『踊れない』を思い出しました。「ああいつもおんなじ動きで ハイハイ 喋れることはこれだけ」と詠う歌詞を書いたのは泉水敏郎ですが、正に上野耕路や細野晴臣に弄られ、大衆に“不思議ちゃん”として消費された戸川純の歌であったように思います。思ってみれば初期の戸川純の楽曲には『バーバラ・セクサロイド』や『ロリータ108号』、『レーダー・マン』など行為される女性性としての自我の発露を詠ったものが多かったではないでしょうか。全く関係ありませんでした。
 最終行がやはり決まっています。大きな転換というものではないのですが、最後にえいやと世界を持ち上げたことによって、ある意味投げっぱなしともいえるサゲを上手く収めることができています。ただ惜しむらくはその題です。これでは作品本文と付き過ぎでしょう。



詩想のたわむれ

 絵に多層に揺らぐ詩情を感じた詩人たちがいました。ここに収めたものは、文脈から逸脱した言葉そのものの煌きを散りばめた作品たちです。
 絵とは元来パトス的なものですが、絵を使いロゴスを語るものとしてイラストや漫画があります。イラストは前述の通りなにがしかを図示する道具としての絵ですが、漫画というものはこれを更におしすすめ、絵を時系列に並べることにより物語を付与させたものでしょう。これは、言葉を道具として使い、その文脈によって物語を綴る小説と照応する階梯にあるでしょう。
 小説に照応するものが漫画であるならば、絵に照応するものは正しくパトス的なる詩であると思います。ここに取り合げた作品たちは、それがゆえに、絵に付与させる言葉として最も親和性の高いものです。それがゆえに、超短編としての成立を自ら拒もうとするものたちです。予めその胎に抱えて産まれてきた矛盾を、これら作品たちはどう克服していったのでしょうか。

【イラスト1】 記憶
 ぶーん、ぶーん…
 細くながく、のびていく。
 あれは太陽が生まれる前の音。
 くちかけた瞳に映るのは、弱々しく鳴いている鳥。
 辺りには、さらさらと光るものが降りそそぎ、たわみ、からまり、途切れまた、流れていく。
 時折、うがったような黒い点がうかび、周囲にひろがった光るものを食い荒らす。
 ちりぢりになった光は干からび固まって、沈んでいった。

 私の身体、
 私達の身体。
 奪いあい、膨れていく身体は、干からびた光をふみしだきながら揺れる。

 ぶーん、ぶーん…

 あれはなんの音だったか。
 私達の背中で新たな眼球がひらき、あたりをぐるりと見回した。
 やがて私にも、開いたばかりの瞳から、光を見い出すことがあるだろう。

 すぐそばで、水の生まれる音がする。

 この作品は全くもって純然たる詩でしょう。絵に付けられる言葉として最も素直に納得できるものですが、やはり超短編であるかと問われると、違うのではないかといわざるをえません。文脈の離れ具合とそこで詠われる感傷は、物語としての成立を峻拒しています。
 しかしとても良くできた詩です。改行と一行空きを駆使し、文と文の断絶を明確にするその手法。虚空から響くオノマトペのリフレイン。完成された詩と絵の親和性の高さを見事に示しました。この作品は、その完成度によって“イラスト超短編”である意義、絵に詩ではなく超短編をつけることが本当に芸術的価値をもちえるのかという根本的な問いを私たちに投げ掛けます。全作品中一つの極左であり、極北であるでしょう。

【イラスト28】 降臨
 からっ風だけが通う雲上の学校。
 ここは寒い。というより、ほとんど温度らしい温度がない。
 張り詰めた頭皮の校庭に今は、髪の毛も血の気も失せてしまって、世界はもう存続することに関心がない様子だ。
 巫女は以前見かけたときのまま、倦み鳥の玉座に座って待っている。足音は聞こえているだろうに、落っことした眼球を眺めているようなからっぽの視線を、こちらに向けようともしない。
「神さまはどちら?」そう尋ねると、右腕だけが吊られたようにゆるりと持ち上がり、答えもせずに鼻をほじりはじめた。
 異教徒とみて侮っているのか。思わずむかっとする。彼女の鼻の穴から、つーっと神さまが垂れてくるまでの、みじかいあいだだったが。

 この作品には困惑しました。使われる言葉は詩を指向しているように思います。文脈は途切れ途切れになり、物語として機能しているようには感じ取れません。「ここは寒い。というより、ほとんど温度らしい温度がない」と綴った文章のあとに、「張り詰めた頭皮の校庭に今は、髪の毛も血の気も失せてしまって」ときては、もはや文脈としての意味を成していないでしょう。しかしこの作品のなんと“超短編的”であることか。こんなにも断絶した文脈になんと物語が潜んでいることか。困惑した原因はその物語の拠って立つところがわからなかったからです。一体どこから物語がやってきているのだろうかと。
 私は絵の持つ機能というものを解っていなかったのかもしれません。もっといえば絵と言葉のパトスとしての違いについて。言葉というものはどうしても順列的に“読む”以外ない情報伝達装置です。そこではどうしても受け取り手の側に時系列が存在し、自ずと以前読んだ言葉から次の言葉へと、時系列にそって認識していきます。そしてそこにこそ文脈というものが立ち現れ、だからこそ文脈の断絶も存在します。「張り詰めた頭皮の校庭に今は、髪の毛も血の気も失せてしまって」という言葉は、「ここは寒い。というより、ほとんど温度らしい温度がない」という言葉の後にくることにより、前文を参照し、そこに文脈の断絶を読み取り、詩情を醸造することになります。言葉による詩は、常に前文に立ち返り、その意味を再解釈していくという受け取り方になるのでしょう。ここにおいて一つの言葉は他の言葉により、受け取り手の内部で変形しつづけていくことになるのです。
 ここに絵との違いがあります。絵は常にそこにあり、変容することがありません。言葉、文章が他の文章により次次と再解釈されていくのに対し、絵は再解釈されることがなく、総体としてア・プリオリに提示されているものです。その絵の持つ非変容性が、次次と意味内容が変容していくア・ポステリオリな詩の、その断絶された文脈を埋めているのではないでしょうか。文章と文章は断絶していながら、横に絵があることにより常に“この絵からはみ出すことはない”ことを約束しています。どれだけ変容しようと、どれだけ絵と離れた言葉であろうと、それはこの絵につけられたものなのだ、と強引に繋ぎとめているのでしょう。それは一つの文から次の文へと飛び出すときに、どう変容するか解らない詩を、絵という鋳型に封じ込めることです。そして、であるからこそこの作品は纏まった統一性を感じさせ、物語のきざしを持つことになったのではないでしょうか。

【イラスト48】 凍った夏
 湧きあがる雲。しんと静まりかえって、人の気配もなんにもない青。夏の空は恐ろしい。工事現場の人も言っていた。事故が起こるのはこんな時だって。
 あたしは息をきらして、ようやく長い坂を登りつめた。
 頂上だ。見晴らしがいい。
 とても、いい景色だ。
 あたしはここまでやって来た。

 ギシギシいうのはあたしの心臓なのか?

 崖の上は海のようにうねり、眼下に広がっているはずの町並みを屈折率の高い靄が覆い隠してしまう。和紙の皺のせんさいな凸面鏡。

 千鳥よ。
 そんなにバタバタと羽音を立てるのじゃない。

 クガルマキチドリのかついできた麦藁の束をほぐして、あたしは大きな麦藁帽子を編みはじめる。あたしの両手はかじかんだように紫色で、指先は小刻みに震えている。

 千鳥よ。千鳥よ。
 重い鎖を断ち切って、あたしといっしょに飛んでゆこうよ。

 雲と雲のあいだの架け橋に止まって鳥が啼く。

 工事現場が崩壊する。

 ちょっと待っていて。
 1時間あれば麦藁帽子が編みあがる。

 見事という他ありません。物語的文脈を残しながら、主人格の心内風景として素晴らしい詩的世界を構築させました。その融合の仕方は些かの齟齬もなく、有機的に絡み合っています。何度も読み返したくなる作品です。あえてケチをつけるとしたら、その題でしょうか。この作品につける題としては完璧ではあるのですが、一行目の文章に対する説明のようにも見えてしまい、多少の「ああ、そういうことなのね」感が芽生えてしまいます。題と書き出しが近すぎました。



記述という奇術

 修辞の中にイリュージョンを仕掛けた奇術師たちがいました。奇術とは畢竟“不可能に見えることを行う”ことでしょう。その礎となるのは、現実の物理法則です。反面文章ではいくらでも違う現実を描けてしまう以上、比喩的な意味で、まず不可能である事象を提示することが難しくなります。そして不可能性の克服なくしては華麗なるイリュージョンが成り立ちません。奇術に見えるものを書くことはたやすいですが、そこにイリュージョンを仕掛けるには、容易ならぬ文章力、構成力が必要になるでしょう。
 ところで、絵というものは総じて詐術的であると思います。なんとなれば現実には境界線も水平線も消失点も実は存在していないからです。この度の絵はペン画を下敷きにして色をつけたものですが、現実の空に黒い線はひかれていません。少女と海を分かつ境界線もありません。にも関わらずそこに黒い線のひかれた面が空であると認識できるなら、それはどこかで詐術に幻惑されているに他ならないでしょう。私がペン画を好きな理由は正にそこにあります。紙の上に筆圧により線幅が広がる金属ペンで、軽く入り、強く抜いて線を描くと、段段太くなっていく一本の線がひけます。絵描きは掌を広げ、甲を返し、そこに何も仕掛けがないことを示します。紙を持ち上げ表と裏を見せて、それがただの平面であることを確認します。そしておもむろに同じような線を初めの線の横に次次と引いていくと、驚くべきことに、そこに光から闇へとのグラデーションを持った立体的な面が見えてくるのです。なんという不可能ごと! 2次元の紙に線でもって3次元の写像を写すとは。黒という色のみを用いて光を描きだすとは。この、真っ白い平面に次次と不可解な立体物が立ち現れていく過程の、驚くべきトロンプ・ルイエを鑑賞できることは、ただその絵を描いている絵描きのみの一つの大きな特権なのです。
 ここに取り上げた作品は、詐術としての絵の上に奇術としての言葉を構築したものたちです。現実に立脚する不可能性ではなく、予め不可能性を詐称した絵の上に奇術をしかけた、不可能性の合わせ鏡です。その奇術/詐術は見るものを、読むものを幻惑し、そこに偉大なるイリュージョンを発生させることでしょう。

【イラスト7】 〈襞のある鬼海 Ver0.7.0〉取扱説明書
 このソフトウェアは尾が二股に分かれた蛇上で動き、張り裂けた砂漠に過去を懐かしむ機能を提供します。古いバージョンの蛇では、椰子の根元に有限個の梵鐘が紛れ込むことがありますが、動作に支障はありません。
 実行ファイルは風解の呪詛で塗り固められているため、敗報撤回を行ったのち、触れてください。なお、このソフトでは羊歯植物覚醒機能は使っていませんので、少女が銃撃されることはありません。
 また、機能によっては天蓋夢に魘される必要がありますので、あらかじめDES-INF/bin/にnyarlathotep.libをコピーしておいてください。
 サンプルKongTong.hyは雲を累減モードで使用する例となっています。まずはこのサンプルを瀰漫させて操作に慣れてみてください。

 カット・アップを使用した作品は幾つか見られましたが、中でもこれはその見本のような作品だと思いました。ウィリアム・バロウズが『ソフト・マシーン』に取り入れ反響を呼んだこの手法は、新聞や雑誌から適当に言葉を切り抜き、糊で貼りなおすことにより言葉の意味性から解き放たれようとする手法です。カット・アップの面白さは、現代にこそもっと広まってもいいのではないかと思います。なんとなればハサミと糊が必要であった時代に比べ、私たちの目の前には正に巨大な“ハード・マシーン”であるカットアップ装置、パソコンがあるからです。コピー&ペーストはPCの基本動作といっても他ならず、日日膨大にネット上を飛び交う断片的な言葉たちは、それ自体カット・アップを孕んでいるといってもいいでしょう。
 この作品がソフトウェアの説明書の体をなしているのも、おそらく偶然ではありません。説明書というものがそもそも意味の取り辛い専門用語で溢れているものです。さらにデジタルのソフトウェアというものは、外部からデータを入力し、出力し、計算し、通信するもの。この外部から仕組みがみえない、隠匿されたブラックボックスの中で動くプログラムは確かにカット・アップ的です。そういったソフトウェアの説明書というものは全くもってカット・アップとの親和性の高いものであるように思います。この作品は、この題材で描こうとした時点で、既に半ば成功を約束されていたのではないかと思います。取られた言葉の選択も無意味すぎず、有意味すぎず、鋭い言語感覚が伺えます。
 ところで、面白いことにバロウズにカット・アップの手法を示唆したのは、ブライオン・ガイシンという画家だったそうです。彼は美術、絵画の世界において無意味性、無意識性による表現が進んでいることに対し、「文学は絵画より少なくとも50年は遅れている」とバロウズにいってのけたとのこと。たしかにデカルコマニーやフロッタージュ、ひいては水彩の水に滲むことまで、絵画の世界では偶然性や無目的性に頼る手法がよくあります。これは造形や絵画などが手でそのものを作り上げるという身体的な芸術、つまりはパトス的なものであり、文学が頭でものを作り上げる思弁的な芸術、つまりはロゴス的なものであったことから、当然かもしれません。であるならばこの作品は、ロゴス=文字、パトス=絵というその関連性によって、イラスト超短編につけるものとして大変にふさわしいものであったのでしょう。

【イラスト11】 遍在
 彼女は繰り返し、繰り返しながらその繰り返す速度を速くしてゆく。彼女は座り、彼女は立ち上がり、而して彼女は座りながらに立ち上がっている。彼女は浮かび、彼女は沈み、而して彼女は浮かびながらに沈んでいる。彼女は濡れ、彼女は乾き、而して彼女は濡れながらに乾いている。彼女は止り、彼女は動き、而して彼女は止りながらに動いている。彼女は見上げ、彼女は見下ろし、而して彼女は見上げながらに見下ろしている。彼女は聞き、彼女は聾し、而して彼女は聞きながらに聾している。彼女は目醒め、彼女は眠り、而して彼女は目醒めながらに眠っている。
 彼女は緑の黒髪を自らの首に巻き付け、彼女は絞め、彼女は緩め、而して首を絞めながらに緩め、彼女は生き、息を引き取り、而して生きながら息を引き取り、彼女は産み、彼女は生まれ、而して産みながら生まれ、産声を上げ、言切れ、産声を上げながら言切れ、老い、若返り、老いながら若返り、消え、現れ、消えながら現れ、沈黙し、歌い、而して沈黙しながら彼女は歌う。

 偏在と聞いて思い浮かぶのは、筒井康隆の同名の短編です。あれはコペンハーゲン解釈とそれに付随した量子論、あるいは認識的独我論などを下敷きにした作品だったでしょうか。しかし絵の作者たる私は、これらの用語を使わなくともこの作品を解釈することができます(それが例え作者の意図とどれだけ離れていたとしても)。
 これは、絵に未だかかれざる絵を描写した作品です。まだ絵としてこの世に産まれていなかった彼女は、私の頭の中、あるいはそのテクストの源泉たる集合的な無意識の領域で、産み、生まれ、而して産みながら生まれ、何度生成と消滅を繰り返したことでしょうか。そこでは彼女は未だ描かれないがゆえにありとあらゆる形態を取り、行動を成し、思索することができました。こうして絵に描かれてしまった以上、その偏在性は失われ、彼女は一つの結果として顕在してしまいました。そう思って眺めみれば、伏目に俯いた彼女に、倦み疲れ生まれ疲れた諦観すら感じられます。しかしこの作品によって、定着してしまった彼女は再び可能性の空に偏在することになりました。これはその言葉によって“実際の”時系列をすら遡らせることに成功した稀有な例です。そこで彼女は描き、描かれず、描きながら描かれ、而して描かれながら未だ描かれず、歌っています。

【イラスト44】 娘たち
 5年前、女の子を産んだ。
 4年と11ヵ月前、女の子を捨てた。
 8日前、急に思い出して、私は女の子を探しに出かけたけれど、見つからない。
 探し疲れて椅子に座って休んでいたときだった。
「あら、こんなところにいたのね、私のかわいい女の子」
 5年前に産んだ女の子がやってきて、私にそう話しかけた。
「さぁ、いっしょに帰りましょう」
 4年と11ヵ月前に捨てた女の子が私の手をひいた。
 私は、8日前から探していた女の子に微笑み返し、4人で手をつないで帰ることにした。
 子守唄を歌いながら。

 これはなんとも可愛らしいイリュージョン。正に言葉の奇術そのものでしょう。指示語の指示内容を混乱させることにより、一瞬にして一人の娘が三世代の娘になり、私すらも娘として飲み込んで、延延と巡る娘たちの円環を出現させました。抜群の奇術の腕の冴え。その隅隅まで気を配った豪腕ぶりには空恐ろしさすら感じます。題も付き過ぎず、しかも端的に内容を表しています。サゲも決まっています。しかし惜しむらくは、いくらなんでも余りにも絵と関係がなさすぎること。その完璧な自立ぶりには拍手すら贈りたいほどです。



額縁の境界

 あえて絵の外側を描写したラディカリストたちがいました。絵の内部を描写するのではなく、絵を絵そのものとして額縁の中に置いた作品たちです。
 こういったメタ的な視点に立つ作品が幾つかあるだろうとは思っていましたが、これらの作品は不思議とみな完成度が高く、愉しく思いました。絵の内部に入り込んで綴られた作品が根本的には絵なしでも成立しうるのに比べ、この種類の作品は絵がなければ成り立ちません。その意味ではイラスト超短編でしか書けない作品であるでしょう。

【イラスト12】 永遠抽出法
 太陽が射手座、月が牡羊座にあるとき、哲学の卵「墓」の中で、女王と王は結婚する。
 塩の司祭を仲介として、硫黄《男》と水銀《女》は哲学的に結婚し、両性具有神となる。火(atanor)を絶やしてはならない。獅子座で太陽と月が一方向にあるときに大作業を続行する。
 結びついた王と女王は卵の中で腐敗し黒い「鴉」になる。加熱し続けると「鴉」は虹色の「孔雀」の羽を広げる。さらに熱すると「白鳥」になり、最後に硫黄と水銀は再結合して赤い「不死鳥」が生まれる。
 哲学の卵を竈から下ろす。割った中に入っているのは万物の始原にして終焉の物質アゾトである。これを発酵させて「賢者の石」とする。
 『かくて汝は全世界の栄光を己がものとして、闇はすべて汝より離れ去らん。私は全てと一を崇め称えたい。空が開いてくれるよう。大量の水が私に向かって開いてくれるよう。私は全てと一を崇め称えよう。』
 トキの頭を持ったトート神、エノク=マーキュリー=イドリス、ヘルメス・トリスメギストスがこの科学を教えた。(アサレ御田下、書き写す。)

 この作を解釈する鍵はやはり、賢者の石であり、ヘルメス・トリスメギストスでしょう。これは端的にいってグノーシス主義の文献であり、錬金術の秘法を記した『ヘルメス文書』の写本という体をなしている作品だと思われます。ヘルメス・トリスメギストスはエジプトにおけるグノーシス主義の伝説的な人物で、トート神、ヘルメス神と同一視され、三重に偉大なるヘルメスと呼ばれました。グノーシス主義は、ヘレニズム文化の時代、混沌とした東西文化混合の流れの中形成された、一種の宇宙的汎神論です。
 さて、その解釈の仕方は無数にあります。ヘルメス文書のポイマンドレースではこう語られます。まず光があり、これは理性(ヌース)である。ヌースは女性原理(プーレー)により言葉(ロゴス)を産み、闇を産む。闇はやがて自然(フュシス)を産むが、それはプーレーが男性原理たるロゴスを受けて産みだしたものであると。なんとなく解釈ができそうです。これは言葉=ロゴス=超短編の成立しゆく過程を、プーレー=女性原理=絵と絡めて語った作品なのでしょうか。
 また、女性原理水銀と男性原理硫黄との交合により生み出された賢者の石は、第一質量であり、両性具有神(ヘルマプロディートス)であるヘルメス・メルクリウスです。その両性具有神こそ絵の少女であると表しているのでしょうか。あるいは来るべき水瓶座の時代を海原にみたのでしょうか。
 神秘主義思想なので当たり前といったらそうなのですが、あらゆる勝手な解釈ができそうです。しかしそのどれを取っても超短編としては弱い。なぜならこれは錬金術やグノーシスの本で語られている文章そのままだからです。
 この作品は実は正に文章を写本の一部、絵をその挿絵として提示しているのだと読みました(例え作者の考えと違ったとしても)。絵を小説に対する挿絵として使ったのではなく、絵を“本にある挿絵そのもの”に見立てて本文を書いた作品なのではないでしょうか。であるならばこれは全く特異な観点の作品だと考えざるをえません。なんとなればこれは物語と絵ではなく、“ただ本の見開き1ページを描写したもの”であるからです。そしてそこでは絵の少女は両性具有であり水銀であり、ヘルメス・メルクリウスでもあり、海原は水瓶座の時代を表してい、言葉と理性の混合を描いてもいるのでしょう。これは非常に意欲的であり、ラディカルな試みです(例え作者の考えと違ったとしても)。
 それは面白いのですがやはり冷静に考えてみると、超短編でもないし詩でもないですし、小説でもない気がしまして、なんというか、その、やっぱりそのまんまじゃ駄目でしょう。

【イラスト34】 慈青
 従姉妹の雨兎がこの絵に入ったのは、私が大学を出た春であったから、八年以上も前になる。当時、近所だった叔父の家は、その前年の火災で倒壊して、やっと本館が人の暮らせるようになった時分であった。火事は、まだ詩も絵も解らぬ年頃であった叔父の末娘――雨兎の只一人の妹――の命を奪い、雨兎は、恐らくはそれを儚み、己が身をこの静かな平面に塗り込めたのだ。
 屋根裏で行われたそれは、神秘を思わせながら、どこか可笑し味を含む光景であった。雨兎は自らの肉体を少しずつカンバスナイフで削り取り、最初の作者が完成としたその画面に、右腕でもって塗りつけていった。
「ソラになるの」と、手を動かしながら雨兎は言った。画面の、険悪な曇天だった空には、ほのかな青さが発露していた。その時の雨兎の眼差しを忘れない。心の澱を溜めたメノウの瞳でありながら、総体からは、全く赦すような、なにか優しい感じが立ち上っていた。
「最後、塗って」
 口が消える前に雨兎が頼みおいた右腕を塗ってやると、それで雨兎は全て空の青になって塗られて仕舞った。
 当時の雨兎よりはるかに長じた今でも、日々の生計に疲れると、私はこの青を見に叔父の家にやって来る。


 絵を正にカンバスに描かれた絵そのものとしてとらえました。絵に額縁を付与させた作品としては最もストレートな扱いかたですが、そのゆえにとても完成度の高いものに仕上がっています。また、“絵の作者”とそれに並ぶ階梯にいる雨兎という存在を描写したことにより、唯一作品の中に私(宮田真司のことです)を登場させた作品でもあります。そういった意味で、とても愉しく読みました。完成された文体で書かれる作品世界は濃密に打ち沈んでいて、私がいうのもなんですが絵の雰囲気と合っているように思います。絵の内部と一切結びつかない全く独自な物語でもって、ここまで絵の空気感に合わせられるということに高い筆力を感じました。

【イラスト40】 新宿西口ロッテリア四時四十分
 あたし、ほんとうは、王女なんだ。
 こんなとこで、座ってるんじゃ、ないんだ。
 あいつこないし。
 あの子とも、携帯つながんないし。
 アトピー出ちゃって今日顔変だから、ちょうどいいかもっていえばそうなんだけど。
 だけど違うんだ。
 あたし、あたし、ほんとはもっときれいな顔で、きれいなとこに、座ってるんだ。
 ――都会の鴉が窓際をかすめて飛ぶ。誰かのバッグの中から着信メロディが流れる。ぐしゃぐしゃに折ったストローの下で氷が崩れる。
 だけど、ほんとはなんにもないんだ。
 ……誰もいないところに行きたい。あいつも電子音も湿疹も、なんにもないところ。
 そこに座って、あたし、すまして、自分の靴のさき見ているの……

 一読驚倒しました。こんなアプローチがあるのかと。『慈青』があくまで絵の雰囲気に合わせたのと全く対照的に、額縁を付与しておきながらも正反対のものを描写し、しかも額縁の存在すらも強く押し出さずに、なおかつ絵との強い親和性が感じられます。題の距離感も抜群です。
 ただ全く持って惜しいと思うのは「――都会の鴉が…」以下の地の文です。これは作者の方も迷ったのではないかと思いますが、やはり浮いてしまっているように感じ取れます。特に勿体無いと思うのは、その地の文に作者の主観的な感情が見え隠れしてしまっているところでしょう。「都会の鴉」や「着信メロディが流れる」など、鑑賞の方向性を地の文で誘導しようという意図が感じ取れてしまいました。また、「電子音」という言葉。これは恐らく作中で描写されているような人物なら、電子音を電子音と認識して呼称することはないのではないかと思います。総じて、失礼かもしれませんが真っ当な大人が若い女の子を描こうとしている姿を感じてしまい、そこにつまずきを受けてしまいました。しかしこれは素晴らしい発想力です。このアプローチだけでも賞賛に値する作品でしょう。

【イラスト54】 鏡あるいは鏡
 おはなしなんか尽きてしまったので鏡の前にいる。この鏡は世界に残ってる最後のおはなし。ほとんどあり得ない。鏡のむこうの誰かが「ある」と信じているおかげで、ここにあるらしい。信じているひとごくろうさまです。
 ここに映っているのは私なんだ。でもこれ以外に鏡はないから、このひとは唯一の、見慣れないひと。
「世界はおぼろになってしまったから、鏡は誰かの心のなかのおぼろな心象につながるのである」最後から二番目の父の言うとおりなら私は誰かの見ている私を見ていることになる。でもずいぶんくっきりと見えるさ。いろいろ見分けられるんだけど、おぼろなものがくっきりと見えたら、それはおぼろよりもおぼろということだ。鏡のむこうでは、おなじということとちがうということさえくっきりちがうらしいけれども、「どれくらいおなじ?」と「どれくらいちがう?」はおなじだから、おなじとちがうはおなじだと思う。
 眼を閉じれば鏡の向こうを漂っているおはなしが読める。ずいぶんとはっきりしていて細部がよくわかるけどそれは細部に限度があるからだし、私の考えもはっきりとしか見えなくて、まるでおなじとちがうがちがうことみたいですから吐きそうで。

 これは、ずるいです。この並び順に峯岸氏の意図が働いているのか、それとも単に届いた順に番号を振っているのかは存じませんが、最後の最後、沢山の話を読んだ後に「おはなしなんか尽きてしまったので」「この鏡は世界に残ってる最後のおはなし」といわれてしまったら、引き込まれずにいられないでしょう。
 作者は、描かれた画像を鏡と見なしました。確かに絵を描くということは鏡を覗くということに似ているのかもしれません。しかしその画像は反射して歪められているのでしょう。丁度この作品の言葉がぐねぐねと捻れていくように。正直この作品を掴みかねている部分があります。この一文ごとに語尾がばらばらになっていく文、物語的に語っているのか詩のようにイメージを重ねているのかすら不明なこの文の意図がどこにあるのか。この悪くいえばとっちらかった文が意図的に書かれているのか、そうなってしまっているのか。けれどそのぐねぐねと歪んだ鏡の醸し出す酩酊感、幻惑感は最後の「吐きそうで」に有機的に結びつき、不思議と曰くいい難い完成度を持っています。
 ところで、『鏡あるいは鏡』という題から連想したのは、ミヒャエル・エンデの『鏡のなかの鏡――迷宮――』(岩波書店文庫同時代ライブラリー)です。これは、童話作家とみなされているミヒャエル・エンデが神話やメルヘンというモチーフからの脱却をはかり、その幻想性を追求し、現代を盛り込みつつ想像力の限りをつくし書いたものです。その結果非常にシュールレアリスティックな作品となり、そしてこれは多分に超短編的です。『鏡のなかの鏡』は30の非常に短い短編(超短編!)で構成されている長編です。一つの超短編は合わせ鏡となり、次の超短編へとモチーフやイメージなどを引き継ぎます。けれどその鏡は歪んでい、映された物語は変容されおよそ前の話とは似ても似つかない話となっていきます。個人的にはこの関連性がもう少し強ければ面白かったと思うのですが、それはともかく中の一編を引用してみます(連作による長編と判断していますので、一部の引用です)。
 灰色にひろがる空の平面上をスケーターが、頭を下にし、ウールのセーターをなびかせて、滑っていく。そんなことができるのも、空が凍っているからだ。
 ポタポタ鼻をたらし、ポカンと口をあけて、群集が地上からながめている。空のスケーターを指さし、ときおり、特別にむずかしい(もちろん逆さまの)ジャンプが成功するたびに、拍手をおくっている。
 スケーターは大きな弧や輪をえがく。そのシュプールが空に刻みつけられるまで、何度も同じ図形を繰りかえしている。いまや、それが文字であることは明らかだ。もしかすると緊急のメッセージなのかもしれない。それから彼は滑り去り、地平線のかなたに姿を消した。
 群集はじっと空を見あげていたが、だれひとりとしてアルファベットを知る者はいない。だれひとりとして文字を解読できる者はいない。ゆっくりとシュプールは消えてゆき、空ははふたたび、灰色にひろがる平面にすぎなくなった。
 人びとは家に帰り、まもなくこの出来事をすっかり忘れてしまった。結局、誰にだって自分なりの心配があるのだし、そのうえ、あのメッセージがほんとうにきわめて重要なものだったのかどうか、わからないのだから。(訳/丘沢静也)

 これは中でも最も短い一遍です。非常に超短編的、それも500文字の心臓で行われている“超短編”にとても近いと感じます。『鏡のなかの鏡』はこのサイズの超短編ばかりがあるのではなく、平均的には2、3ページの作品が多いでしょうか。けれど面白いことに、短くなればなるほどこの作品のように“超短編的”になっていくようです。そして面白いことに、この『鏡のなかの鏡』は、シュールレアリストの画家である父エドガー・エンデとミヒャエル・エンデのコラボレーションなのです。そう、実にこれもイラスト超短編。
 洋の東西を隔て、二人の書き手が絵という合わせ鏡の中に超短編をみました。そう思ってみてみると、作中の「最後から二番目の父」がエドガー・エンデを示しているようにも見え、不思議な奥行きが感じられます。



総評

 まず非常に長大な選となってしまったことをお詫び申し上げます。他にも沢山コメントをつけたい良作がありましたが、あまりに長すぎてしまうため、直前で諦めたものも多多あります(妙な一人語りを削ればいいのにという指摘の声が聞こえます)。概観してみるに、ヴァラエティに富んだ良作、絵との距離を色色なところに取った様様な佳作が見受けられ、イラスト超短編という競作は成功したと思います。投稿してくださった全ての皆さんに拍手を。そして開催していただいた四人の選者たちに感謝を贈りたいと思います。

 さて、この中から「宮田真司賞」を選出しなければいけないとのこと。正直非常に難しいです。余りにも多くの立ち位置があり、一番の良作として何かを抜き出すことは他の立ち位置を否定することにもなりかねません。そこで全く単純に絵を描いた人として、絵を上手く使ったなと思った作品に進呈しようと思います。
 そういうわけで宮田真司賞は、絵をそのまま額縁にあてはめ、その外に諦観と赦し、逸脱者への慈しみを描き出した【イラスト34】 慈青に贈りたいと思います。作者の方の元へは、そのうち峯岸氏からペン画の原画と彩色済みのプリントアウトが送られることでしょう。屋根裏部屋にでも放り込んで下さい。そのうち従姉妹の雨兎がどこかでその絵を見たときに、作品は完結し、円輪が閉じられます。
 それでは、ありがとうございました。