ぶーん、ぶーん…
細くながく、のびていく。
あれは太陽が生まれる前の音。
くちかけた瞳に映るのは、弱々しく鳴いている鳥。
辺りには、さらさらと光るものが降りそそぎ、たわみ、からまり、途切れまた、流れてい
く。
時折、うがったような黒い点がうかび、周囲にひろがった光るものを食い荒らす。
ちりぢりになった光は干からび固まって、沈んでいった。
私の身体、
私達の身体。
奪いあい、膨れていく身体は、干からびた光をふみしだきながら揺れる。
ぶーん、ぶーん…
あれはなんの音だったか。
私達の背中で新たな眼球がひらき、あたりをぐるりと見回した。
やがて私にも、開いたばかりの瞳から、光を見い出すことがあるだろう。
すぐそばで、水の生まれる音がする。
「昔、ここは豊かな国だったの。この椅子はね、玉座なのよ」
少女はそう言ってかすかに笑ってから、話を始めた。長い長い話だった。彼女は今はないこの国の最後の王様なのだ。この国の全てを知っていてもおかしくはない。
僕はメモをとりながら彼女の話を聞いていた。亡国の玉座に座り続ける少女の話なんて、旅行記の中の一話にうってつけだろう。
「他に君の国についてのおもしろい話ってないかな?」
僕がそう聞くと、彼女は少し考えるようにしてから、首を振った。
「私、あなたに何をお話したか忘れちゃったわ」
「ええとね……」
僕は少女に助け舟を出そうと、メモを読み上げた。
「昔、ここは豊かな国だったんだ。その椅子は玉座だよ」
「ええ、それから?」
僕は軽くうなずいてから、話を始めた。長い長い話だった。僕は今はないこの国の最後の王様なのだ。この国の全てを知っていて当然だ。
メモをとりながら僕の話を聞いていた少女は、僕に質問をする。
「他にあなたの国についておもしろい話ってないかしら?」
僕は玉座に寄りかかり、首をひねる。少女に何を話したのか、さっぱり覚えていなかった。
誰も知らない。どこにも繋がらない。そこはとても静かな場所だった。見渡す限りに広がる乾いた荒野。遠く地平の彼方には、煙のような雲が悠然と立ち込めている。少女は”創造の椅子”に腰掛けると、周りの静寂に意識を集中させた。・・風を集めているのだ。
どれくらいの時が経っただろう。不意に「ヒュウ」と音がしたかと思うと、まるで何かを告げるように、少女の足元で砂埃が小さく舞った。そして少女は、ゆっくりと瞳を閉じた。少しずつ、少しずつ、瞼の裏にドロリとした闇が滲んでいく。
闇の中で、少女は鳥になった。鋼色の無機質な翼を二、三度確かめるようにして震わせた後、一気に天へと舞い上がる。それは一瞬のごとくスピードで、鋭利に尖ったクチバシは縦横無尽に闇を切り裂き、時間を創り、空間を創った。螺旋を描いて降下すると、翼の隙間から幾つもの光の雫がこぼれ落ち、雫は星となり、月となり、太陽となった。
こうしてセカイは構築され、鳥はその役目を終えた。だが闇から消えようとした、その時だった。鳥はふと何か思い付いたように、最後に卵を一つ生んだ。それは、蒼い卵だった。鳥はその蒼い卵にそっと息を吹きかけ、生命を与えた。
( after the dark )
俺は知っている
そんな事はとうにわかっている
俺は
俺は
いつだって気が付いているんだ
だから もうそんな悲しい顔をしないでくれ
「花を咲かせることしかできないの」
少女は言った。
レコードのクラックルノイズのような音が、鳴る。鳴り続ける。
波も。雲も。椅子も。アンモナイトも。
観察の限り、この星はそのようにできている。
僕と降りたった少女は、鳴り続ける髪を恐れ、立ち上がることもできず、鳴り人形と化した。
機械鳥は瞬きに合わせて鳴る。憐れむように少女の側で鳴る。
陽は傾き、鳴る音は増すばかり。騒がしい時はそれでも鳴り止もうとしない。
ただ、豊かにエーテルは鳴る。星の航行で裂けゆく度、鳴る。
少しずつ弱く鳴っていくのは・・・嗚呼、僕の音か。
このソフトウェアは尾が二股に分かれた蛇上で動き、張り裂けた砂漠に過去を懐かしむ機能を提供します。古いバージョンの蛇では、椰子の根元に有限個の梵鐘が紛れ込むことがありますが、動作に支障はありません。
実行ファイルは風解の呪詛で塗り固められているため、敗報撤回を行ったのち、触れてください。なお、このソフトでは羊歯植物覚醒機能は使っていませんので、少女が銃撃されることはありません。
また、機能によっては天蓋夢に魘される必要がありますので、あらかじめDES-INF/bin/にnyarlathotep.libをコピーしておいてください。
サンプルKongTong.hyは雲を累減モードで使用する例となっています。まずはこのサンプルを瀰漫させて操作に慣れてみてください。
置き捨てられたまま。
錆色の荒野、鉄色の空。色あせた帽子のつば先、ほころび始めたスカートの裾。風が吹くたび思い出す主の言葉。
「ここで太陽を待っていておくれ」と主は言った。
それはまだ帽子もスカートも真新しかった頃のこと。主は私の髪をなで、ほほに唇を落とし、「太陽が現れるまで、待てるかい?」と私に聞いた。私はうなずいて答えた。「あの風見鶏がくるくる回るほど強い風が吹いたら、きっと太陽が現れるから。それまで待っていておくれね」
主は私に背を向けて歩き出した。
一度だけ振り返って、「ごめん」とつぶやいた。何に対しての謝罪なのか、結局私にはわからない。
風見鶏を見上げれば、彼はこう鳴く。「俺は風の吹くまま回るだけ。あんたの待ち人がやってくる方向を指してるわけじゃないんだぜ?」
主が去ってから、一体何度彼は風に吹かれて回ったのか。彼が回るたびに私は周囲を見渡して、風景は何も変わらないことを知る。見渡す限りの錆色の荒野、鉄色の空。
「待っていておくれね」と主は言った。私は「待っている」とうなずいた。
彼女は置き捨てられたまま。風見鶏が回る。
目が覚めた。箱が開いた。息を吸った。息じゃなかった。むせた。咳き込んだ。今だった。息ではなくて、今だった。息を吸って、今を吐いた。過去が残った。未来には届かない。踊りはもう踊れない。過去が躍らせてくれない。箱が閉じた。眠気が襲った。いすに座って、目を閉じた。
箱庭だった。それは夢ではなくて、世界だった。過去が積み重なった。それで、必死に、今を作った。そういう、夢を見た。夢ではなくて、世界だった。無限に近い過去が堆積し、今を作ろうとした。ガチ。これはぜんまいの回る音。ガチ。これは詰まれた過去が崩れる音だ。ガチ。これは、これはカウントダウン。1からゼロへのカウントダウン。
目が覚めた。箱が開いた。息を吸った。それは今だった。今を吸って、過去を吐いた。そして踊った。今を踊った。今においていかれないように、必死にステップを踏んだ。次にまた眠気が訪れるまで、幸せそうな無表情で踊った。
ほうら、君、あれをご覧よ。
果ての見えない湖の、
波間にぴいんと張られた糸の、上にかかるあの椅子だよ。
あの少女が気になるかい。
なあに、君、只の贄だよ。
慌てる事は無い、昔語りからはじめようか。
昔々の、そのまた昔。
この湖の竜神は、
娘を非道い目に遭わされて、
それが大層かなしくて、
人の娘を請うたのさ。
それから——
……ああ、椅子が波間に沈んでゆくね。
さっきの風はひどかったから。
慌てる事など無いんだよ、君。
あれは只の贄、只の形代。
魂など無い、ただの人形。
請われ請われて差し出すうちに——
この村には娘なんて一人もいなくなったのさ。
それからずっと、竜神の贄は人形さ。
娘絶やした人間と、娘亡くした竜神と
どちらも愚かさ、どっちもね。
暗い湖の底で、人形達が嘲笑っているよ——。
彼女は繰り返し、繰り返しながらその繰り返す速度を速くしてゆく。彼女は座り、彼女は立ち上がり、而して彼女は座りながらに立ち上がっている。彼女は浮かび、彼女は沈み、而して彼女は浮かびながらに沈んでいる。彼女は濡れ、彼女は乾き、而して彼女は濡れながらに乾いている。彼女は止り、彼女は動き、而して彼女は止りながらに動いている。彼女は見上げ、彼女は見下ろし、而して彼女は見上げながらに見下ろしている。彼女は聞き、彼女は聾し、而して彼女は聞きながらに聾している。彼女は目醒め、彼女は眠り、而して彼女は目醒めながらに眠っている。
彼女は緑の黒髪を自らの首に巻き付け、彼女は絞め、彼女は緩め、而して首を絞めながらに緩め、彼女は生き、息を引き取り、而して生きながら息を引き取り、彼女は産み、彼女は生まれ、而して産みながら生まれ、産声を上げ、言切れ、産声を上げながら言切れ、老い、若返り、老いながら若返り、消え、現れ、消えながら現れ、沈黙し、歌い、而して沈黙しながら彼女は歌う。
太陽が射手座、月が牡羊座にあるとき、哲学の卵「墓」の中で、女王と王は結婚する。
塩の司祭を仲介として、硫黄《男》と水銀《女》は哲学的に結婚し、両性具有神となる。火(atanor)を絶やしてはならない。獅子座で太陽と月が一方向にあるときに大作業を続行する。
結びついた王と女王は卵の中で腐敗し黒い「鴉」になる。加熱し続けると「鴉」は虹色の「孔雀」の羽を広げる。さらに熱すると「白鳥」になり、最後に硫黄と水銀は再結合して赤い「不死鳥」が生まれる。
哲学の卵を竈から下ろす。割った中に入っているのは万物の始原にして終焉の物質アゾトである。これを発酵させて「賢者の石」とする。
『かくて汝は全世界の栄光を己がものとして、闇はすべて汝より離れ去らん。私は全てと一を崇め称えたい。空が開いてくれるよう。大量の水が私に向かって開いてくれるよう。私は全てと一を崇め称えよう。』
トキの頭を持ったトート神、エノク=マーキュリー=イドリス、ヘルメス・トリスメギストスがこの科学を教えた。(アサレ御田下、書き写す。)
空と海の狭間で夜の姫君が微笑みました。
空からこぼれた声を聞いたからです。
海から浮かぶ言葉を聴いたからです。
空のお星は言いました。
海のヒトデはなんて暗くて陰気で嫌なやつなんだろう。
海のヒトデは言いました。
空のお星はなんて派手で傲慢で嫌なやつなんだろう。
夜の姫君は笑みを浮かべ、ぱちんっと指を鳴らしました。
するとお星は海へ、ヒトデは空に吸い込まれました。
それ以来、「帰してほしい」と空からはヒトデの涙が降ってくるし、お星の涙で海の水は塩辛いのです。
予言の通りに厚い雲が空を覆った。この日のために造られた三脚の飛行椅子に魔力が注入され、王、王妃、そして予言者によって選ばれた少女が腰掛ける。
「雲の上に出れば安全な筈です」「御無事を御祈りして居ります」「新しい世界を陛下の御力で」家臣たちが別れを告げる。
飛行椅子は、不和理、浮き上がると一気に上昇する。雲の中は嵐だった。王は風に吹き飛ばされて墜落し、王妃は雷に打たれ燃え尽きる。少女だけが青空に抱かれた。
眩しくて目を瞑る。地上で何が起きているのか。予言の中身を少女は知らされていない。王の家臣たちの顔を思い浮かべる。王と王妃の死も運命だったのか。彼らは未来を曲げようとしたのかもしれない。心情を耳にしたい。状況を目にしたい。だが再びあの雲の中へ入る勇気はない。親しい人々を想い、涙が零れる。何故わたしだけが。
やがて魔力の果てる頃、雲が切れる。飛行椅子は滑らかに降下し、着地する。
信じたくなかった。しかしその場所がいつも遠くから眺めていた宮殿であると僅かに残った柱が語る。それでも根強く生き延びたごく原始的な植物生物が少女を慰める。
光の子を身籠っていることに、少女は未だ気づかない。
人形の微睡み、繰り返す波、波の音
——いつか
静なる空に、湧きおこる雲の影、太古の記憶は、泡沫に宿る、翼は指し示す、何時か、その行く先を
——いつか、鐘の音が響くだろう
耳を澄まし、捉えよ、満ち渡る鐘の音に、微かな風、風はなでる、その髪を、触れる、そっと、まぶたに、
少女の目覚め
闇。世界。少女。虚構。死。痛。睡眠。邪。狂気。黒。傷。虚。血。冷。悪。崩壊。魔。暗。無。時。海。空。波。雲。青。心。音。振動。熱。瞳。螺旋。夢。声。再生。銀。天使。鼓動。想。浮遊。地。涙。真実。明。鳥。無限。白。命。創造。幻。光。唄。飛翔。
森に愛された少女を海へと連れ出したときから、何かが変わってしまったのだ。大樹の洞で眠る少女は何も身に付けずに裸で。ドレスを着せてあげよう。髪を梳かしてあげよう。帽子をかぶせてあげよう。椅子に座らせてあげよう。だから私と一緒に来るのだと、返事ひとつしない少女の手を半ば無理矢理に引いた。賛同はしない、けれど抵抗もしない。ただ寒いとだけ言うので、上着とマフラーも与えてやったのだが、それでも寒いとしか言わなかった。
少女は緑色の瞳をしていたのだが、海の上では閉じられたままだった。森に愛されることは、海には受け容れられないことだから、緑色の証拠を海に見せるわけにはいかない。
それでもやがて海は異物に気付いてしまう。瞳を閉じていても少女の近くには自然と緑が集まってくるので。
静かな戦いが始まる。海は少女を取り込もうとする。けれど少女は沈まない。もっと強い力で少女を取り込もうとする。けれど少女は沈まない。幾度となく繰り返される戦いに、少女以外のすべてが海の中になってしまうが、戦いは終わらない。
永遠不滅の名を騙って都が爛熟する。一層ずつ異なる色の漆喰を塗り込めた塔が広場を取り囲んで見下ろし、隙間から射す光が瑠璃色モザイクの舗道に乱反射する。重戦車を薮と桂冠で飾り立てた山車が、深い轍を刻みつけて街路を練り歩く。昼花火の爆音。紙テープとフライヤとパン屑が舞い、鳩と鴉が入り乱れて渦をなす。虹色の倍音をもつラッパが、ひしめき合う順番待ちの群衆を撹乱しては嬌声を上げている。午後三時。商工と為政の重みに軋んでこの地面が傾きつつあることに気づく者はない。ただ打ち水の余剰と取り損ねた蹴鞠がその向きに流れるので、辛うじてそうと知れるばかりだ。何百年の歳月をかけて、都は緩慢な死を生きてきた。そして帰るべき海の潮位にはじめて出会うその瞬間に立ち会おうとする者は既になく、水位を測る生贄が街はずれで一人、誰にも忘れ去られたまま静かにその時を待っている。彼女の足が水に浸されると、からくり仕掛けの風向計が狂ったように回転し唸りを上げるはずだが、絶え間ない市の喧噪を越えて人々の耳にそれが届くことはない。
世界の果てには何があるか知っているかい。
——果てなんてないのよ。大地は球体だって習わなかったかしら。
きみは言うかもしれない。だがそれは世界ではなく地球の話だ。
一見、ぼくらのアイデンティティは記憶の積み重ねで成り立っていて、記憶力が人格に等しい錯覚を抱きがちだ。
しかし、実際のところは忘却による補正・調整のほうこそが、ある人物の人となりを構成する最大の決定要因なのだ。
もしもぼくらに「忘れる」という素晴らしい能力が与えられていなかったら。恥を、後悔を、悲しみを記憶から追いやることができなかったとしたら……。
少女は大人になる時、人形を捨てた。
烏は器械の鳥を、かなわぬ恋と捨てた。
孫たちは動かない時計を形見にし、使える椅子は忘れた。
化石のプレゼントだって、捨てたご機嫌とりの餌だった。
ささくれ立った思いも、見上げた夏の空も、みんなみんな捨てた無くした失った。
世界の果ては、そんな忘れられたモノたちの集う場所。
漂流した想いと記憶の行き着く墓場。
——ところで、ぼくはここで何をしていたんだっけ。
遠い北の海の底で、左巻きの渦は生まれた。凍てついた波間を転がって、王女の足元に打ち上げられた。
……あなたが好きです……
繰り返す波と風の音。小さな呟きは王女の耳に入らない。
……あなたが好きです……
玉座で王女は待っている。ただひたすらに待っている。王子の訪れを待っている。
やがてそんな己を傀儡のように感じてゆく。海風の中で、細い指先は冷たく強張る。顔は青白い仮面になって世界に相対している。
ああ、アンモナイトのささやきは王女の耳に入らない。孤独に絶望した王女は自らの命を絶とうとする。しかし既に王女の生命は、頭上いちめんに沸き上がる雲の峰に絡め取られていたのだった。
このひややかな世界で、脈動するものは雲ばかり……湧き上がり、動いてゆくものは、雲ばかり。
少女はまだ骨になれないでいる。
おばあちゃんはお気に入りの大きな椅子に座っていろいろなお話をしてくれた。おばあちゃんのお話はおとぎ話みたいで大好きだったのだけど、おばあちゃんは知らないうちに難しい病気になっていて、ある日父さんと母さんに病院に連れてかれてしまった。
少し疲れてるみたいでおばあちゃんはよく眠ったけど会いに行くといつもと同じに優しくて病院のベッドでぼくにお話を聞かせてくれた。それはおばあちゃんがしたおかしな冒険の話で、お話の中のおばあちゃんはまだ小さな女の子で、お気に入りの不思議な椅子に乗って退屈な町から見える海へ飛び出して途中で出会った口うるさい機械の鳥と一緒に海のあちこちを旅した。
「あんまりおかしな話ばかりしていないで下さい」
話の途中で母さんがやってくると、おばあちゃんは「そうね」と寂しそうに笑ってそれきり続きをしてくれなかった。
おばあちゃんはもう治らないと父さんと母さんが話しているのを聞いた次の日、お気に入りの椅子と一緒におばあちゃんは消えた。
今頃は海の上を大きな椅子でぷかぷか漂いながら、疲れて眠ってしまっているんだろう。
誰もぼくの話を聞いてくれないけど、おばあちゃん、いつかぼくが見つけにいくよ。
くるっくー、くるっくー、午後一時をお知らせします。
起きろ、おい起きろって。
だめだ、ネジでも切れちまったみたいに動きやしねえ。
おい寝るなって、話し相手がいなくなって寂しいじゃねえか。
しかしなんだろうね、ここは。
海の上みたいだけど、ずっと向こうの方まで凍った波が続いてやがる。
やっぱりあれか、あのドカンってやつかな。
あれっから急に、こんな景色だ。
俺をつくったてやつらが時間をどうにかするって機械を爆発させやがったっけがまあでっかいのなんのって目の前が真っ白になったね。
けったいなものを壊しちまったもんで、目が覚めるとどこだかわからないし海は凍るし、どうにも古めかしい柱やらが崩れて立ってたり、そこいらにアンモナイトの化石みたいなのが見えるし、いっしょにつくられた女児型ロボットの他に誰もいやしねえ。
そいつも、もうダメみたいだし。
くるっくー、くるっくー、午後二時をお知らせします。
起きろ、おい起きろってよ。
あなたおかしな鳴き方をするのねとか言ってみやがれ。
お、きろ、おい、おき、ろ、て。
あ、ダメだ。
どうも、そろそろ俺もネジが切れるみたいだね。
ネジが切れるよ。
まいったね、こりゃ。
砂浜に小さな白いされこうべが打ち上げられていた。両の手にはさんで目の高さに持ち上げてみる。されこうべの二つの虚空から潮の匂いがして僕は中を覗いてみた。そこには暗い海が広がっていた。ズズ...ズズ...と波が寄せていた。どこかで聞いたその音になおも顔を近づける。ふわとぬるい感触が唇に触れた。虚空が、光を取り戻す。褪せたフィルムの逆回転。世界がみるみる色づいて深く遠くさざめく。されこうべもまたゆるゆると肉色に色づいて温かみを取り戻していく。耳が、鼻が、唇が現れて、やがて青白いまぶたがゆっくりと開かれた。青くたゆたう眼差しがズズ...ズズ...と僕を飲み込んでいく。気がつくと僕は手足を丸めて静かな波に揺られていた。遠くからの子守唄が聴こえる。ここは暗くて温かい。
いらっしゃいませ。人形をお求めですね。何でもそろっておりますよ。このビスクドールなんか美しいでしょう。髪は本物の金髪です。アンティークをお求めですか?え?はぁ。世界でたった一つの美しい人形をお求めになる。・・・すみませんが私には荷が重いですね。倉庫にある全ての人形を取り出してもお客様のお眼鏡には叶わない気がします。え?ああ、情報。ならばそのような人形をおいている所を知らないか、と。そうですね・・・。店は知りませんが、こんな話を聞いたことがあります。船にのって海に出て、これと感じた雲のほうへひたすら船を進めるとそこで漆黒の翼の鳥に出会えることがあるそうです。その鳥はことのほか人形を好む鳥で、海で死体を見つけてはその体から最も美しいところを取り出して、それらをみんな組み合わせて一体の人形を作っているそうです。ええ、この世のものとは思えない美しさだとか。ははぁん。お客様、行ってみようかという気になったでしょう。こんなお話した者が言うのもなんですが、お止めになった方がよろしいと思いますよ。え?何故かって?そりゃあお客様。お客様の黒い瞳。私が今まで見たこともないくらい良い瞳をしているからですよ。
大切な鳥が逃げてしまった。でも背中の紐を引っぱってもらわないと、泣こうにも泣けない。クマのぬいぐるみに紐を引っぱるようにたのむと「結婚してくれ」とむちゃな注文。適当にごまかして紐を引かせた。
「ワタシカナシイ」
たちまち涙があふれ出て、周囲は一面の海となった。ガタガタ震えるクマを蹴飛ばすと、腹の中身をこぼしながら水中に転落。なにかの種が詰まっていたのね。見上げれば上空に鳥が旋回している。やっぱり見つけてくれたんだ! 世界はぜんぶ水に沈んで、もうここしか降りる場所はないんだもの。鳥はわたしの紐を引っぱる。
「ワタシウレシイ」
鳥はわたしを運ぼうとする。でもクマのぬいぐるみからにょきにょきとヘンテコな草が伸びてきて、わたしにからみついた。草は背中の紐を引っぱる。
「ワタシカナシイ」
泣くとますます水位は上がる。鳥はわたしと世界を持ち上げて、空に浮かぶのがせいいっぱい。
いろいろ作ってみたんだけどなんだか気にくわなくてぐちゃぐちゃにしたら灰色っぽくなっちゃった。
散らかったから水で流しちゃおう。
ざあっとね。
どうしようかな、このまま壊しちゃおうかな。
全部死んでしまったし。
いや、あれあれ、あんなところに一人だけ人間の女の子が残ってるぞ。
失敗失敗。
ぼくがこんなにしたってことまだ知らないのかな。
眠ってらあ。
このままじゃあ落ちちゃうけど、どうしたもんか。
しかしまあ気持ち良さそうに寝てるね。
なんていうか、可愛いや。
もっとちゃんとしたところに置いてあげようかな。
ちょいちょいっと椅子を作ってちょこん、てなね。
ちょこん、て。
可愛いな。
寒くないかな、服でも着せてあげようかな。
帽子もつけてあげよう。
すうすう眠ってるね。
でも、こんなの作ったっけなあ。
起きたらこんなんじゃ寂しいかな。
しかたがないからまた作り直してみようか。
まず、君が悲しくないように空の色をあかるく塗りつぶそう。
えいえいえい。
ともだちも作ったよ。
きみ、鳥くん、この子を守ってあげてね。
さて、次は何をやっつけよう。
君はどんな世界がお好みだい。
からっ風だけが通う雲上の学校。
ここは寒い。というより、ほとんど温度らしい温度がない。
張り詰めた頭皮の校庭に今は、髪の毛も血の気も失せてしまって、世界はもう存続することに関心がない様子だ。
巫女は以前見かけたときのまま、倦み鳥の玉座に座って待っている。足音は聞こえているだろうに、落っことした眼球を眺めているようなからっぽの視線を、こちらに向けようともしない。
「神さまはどちら?」そう尋ねると、右腕だけが吊られたようにゆるりと持ち上がり、答えもせずに鼻をほじりはじめた。
異教徒とみて侮っているのか。思わずむかっとする。彼女の鼻の穴から、つーっと神さまが垂れてくるまでの、みじかいあいだだったが。
何もない部屋で、誰かが迎えに来てくれるまで静かに夢を見ていた。
とても、退屈で。
夢の中は全部が灰色がかっていてなんだかでたらめ、私は広い海でたったひとりだった。
ひとりぼっちは夢の外でも同じ。
そばにいる奇妙な鳥が笑う。
何がおかしいんだろう。
私は大きな椅子に座って、広い海でたったひとりだった。
つまらない。
そうだ、目をつむって、夢を見よう。
だって、ここはとても退屈で。
夢の中で見る夢の中で見る夢の中で見る夢。
そうやって私は夢を見続ける。
誰かが私を迎えに来てくれるまで。
夢の中は全部が灰色がかっていてなんだかでたらめ、私は広い海でたったひとりだった。
ひとりぼっちは夢の外でも同じ。
そばにいる奇妙な鳥が笑う。
何がおかしいんだろう。
——わたしは、
わたしが王だった遠い未来のことを思い出している。
闇を愛する青年を私は愛する。
真っ暗闇な部屋の中、おかしな格好をした椅子に座って、彼は静かに目を瞑っている。
何してるの?
見てるんだ。
何を?
世界を。
暗闇はこの世の住人じゃない。暗闇には暗闇の世界が存在する。
ある夜、ふと目が覚めると、彼が横に立っている。そこにあるのはただの闇だ。でも彼はそこにいる。私にはそれがわかる。
僕は消滅するんじゃない。拡散するんだ。
一瞬、彼の姿がぼやりと浮かぶ。思わず伸ばした手が空を切る。彼はそこにいて、でももうここにはいない。
僕はもう行く。君も一緒に行こう。この世界は騒々しすぎる。ふたりで静かに暮らしていこう。
私だってそうしたい。いつまでもふたり、穏やかに静寂の中で暮らせるなんて、どんなにすばらしいことだろう。だけど。
後に残されたのは闇。彼が愛し、私がついに愛せなかった闇。
時々、私は闇に包まれた彼の部屋で、おかしな格好をした椅子に座る。そして静かに目を瞑って、彼の愛した世界を垣間見る。
怒り狂う獅子の夢の中を、走り抜ける豹の夢の中を、飛び渡る燕の夢の中を、叫び荒れる烏の夢の中を、振り切れる蝉の夢の中を、閉じ篭る土龍の夢の中を、咲き乱れる桜の夢の中を、揺れ落ちる椿の夢を、枯れ果てる井戸の夢の中を、跳ね回る雨蛙の夢の中を、流れ泳ぐ鮎の夢の中を、吹きすさぶ風の夢の中を、覆い隠す夜の夢の中を、死に絶える人の夢の中を、
一人の少女がすべてを覗く。少女だけが夢を見ない。
太陽を背にすると深い影ができる。波の切れる間を狙って影をたらせばそれは水に溶けて広い海に乗り出す。深海の奥の貝殻を拾い集めて息をかければそれは途端に首をもたげクルルと鳴き声を上げ高く飛び立つ。私はそれらが世界を一巡りして還ってくるのを待つ。影が雲に昇り地に落ちて、動物の体内を巡り川を通り海を経て帰ってくるのを。貝が空を飛び街に降り、寝床に帰る子供達を樹上から眺めてまた海へ飛び立つのを、ただただ待ち続ける。彼らが私の知らない世界のことを教えてくれるのを唯一の楽しみに、私はこうして生きているのだ。
従姉妹の雨兎がこの絵に入ったのは、私が大学を出た春であったから、八年以上も前になる。当時、近所だった叔父の家は、その前年の火災で倒壊して、やっと本館が人の暮らせるようになった時分であった。
火事は、まだ詩も絵も解らぬ年頃であった叔父の末娘——雨兎の只一人の妹——の命を奪い、雨兎は、恐らくはそれを儚み、己が身をこの静かな平面に塗り込めたのだ。
屋根裏で行われたそれは、神秘を思わせながら、どこか可笑し味を含む光景であった。雨兎は自らの肉体を少しずつカンバスナイフで削り取り、最初の作者が完成としたその画面に、右腕でもって塗りつけていった。
「ソラになるの」と、手を動かしながら雨兎は言った。画面の、険悪な曇天だった空には、ほのかな青さが発露していた。その時の雨兎の眼差しを忘れない。心の澱を溜めたメノウの瞳でありながら、総体からは、全く赦すような、なにか優しい感じが立ち上っていた。
「最後、塗って」
口が消える前に雨兎が頼みおいた右腕を塗ってやると、それで雨兎は全て空の青になって塗られて仕舞った。
当時の雨兎よりはるかに長じた今でも、日々の生計に疲れると、私はこの青を見に叔父の家にやって来る。
苦労して鋼鉄の扉を開けると、強く冷たい風に身体を押し戻された。扉の向こうには無彩色の世界が広がっている。俺は足元の感触を確かめながら踏み出した。
もはや当初の目的が何であったか、忘れてしまった。しかし、この場所に立った今、俺は確かに満足している。ゆっくりとあたりを見回しながら深く息を吸い込み、途端に嘔吐した。風は冷たいのに、吸い込んだ空気は熱く生臭い蒸気のようだ。嘔吐は長い間止まらず、緑色の粘液が灰色の大地にボダボダと落ちる。
どうにか吐き気が治まると臭気を吸い込み過ぎないよう慎重に呼吸しながら歩き始めた。彼方に一羽の鳥が延々と旋回をしている。それを目指してひたすらに歩いた。いくら歩いても景色は変わらないが、少しづつ大きくなる鳥の姿で前進を確認する。鳥の足元には人がいるに違いない。そう確信すると胸が激しく高鳴なり声が漏れる。「母さま…!」その言葉を口にした自分自身に何より驚きながら、俺は堪らず駆け出した。
時計はいつも逆回りに進んでいる。
光の差さない方向へ、光の差さない方向へと歩いていくうちに、とても遠くまで来てしまったらしい。ぼくは波打ち際でペットボトルの水を最後のしずくまで口に含む。
遠くで海鴉の声。ぼくはリュックをおろし、気持ちだけズボンを膝まで上げる。そして波頭に足を埋める。ざざんざざんと海の音がからだにしみゆく。肩がつかるぐらいまでは簡単に。そこから先、海はなかなか深くならない。
時計が逆回りに進んでいる。
白い波の向こう、ぼんやりと、少女の姿が浮かんで見える。ぼくがあの街に残してきた少女の幻影。街が朽ちたというニュースは、ぼくが街を出てからすぐに広まった。
帰ってくるまで、待っているから。そう言って目を閉じた彼女の姿そのままに。
うん。ぼくだよ。帰ってきたよ。目を開けて、ぼくを受け入れてよ。
ざざん。大きな波が立つ。彼女の幻影が波のなかに没する。それを最後まで見届けたぼくは、息を吐ききって、海中へと沈みゆく。
藁の少女がミジミジと己の肉を軋ませながら歩いている。砂漠にも海にも似た広大な世界の中をジワリジワリと歩いていく。どれ程の長旅だったのだろうか、藁の少女の体は殆ど乾燥しきり、伸び切った髪が地面に擦れている。けれど彼女の表情に疲労は見られない。まだ休む訳にはいかないのだ。
藁の少女は置き去りにされた時間を求めている。そこに何が待っているのかという事も知っている。だから彼女はひと雫の涙を裡に秘め、今にも干からびそうな肉体に鞭を打つ。
どれ位歩いただろうか、眼前に一つのビジョンが開ける。朽ちた柱、罅の入った椅子、凝縮した時間を食むアンモナイト、そして飛び立たんとする骨鶏。
藁の少女はアンモナイトを凝らす様に見る。これが置き去りにされた時間だと思ったのだろう。化石の中でアンモナイトはピチャピチャと音を立てながら時間を食む。
と刹那、骨鶏は世界が眩むばかりの奇声を上げるとアンモナイトに向かって急降下し、嘴で石を割る。忽ち亀裂が亀裂を生み、弾ける様に光が飛ぶ。ただ白い世界のみに包まれる藁の少女。今彼女は置き去りにされた時間の中にいる。ひと雫の涙を流し、漸く彼女の長旅が終焉を迎える。
深く、深く沈んでいく。
流れ、流される。何百年、何千年。
果てしなく続く暗黒の世界。
そのまま静かに漂うがよい。
いつか私に会えるであろう。
朽骨を風が食む。かつての世界は、創造主の飾り椅子の陰に生まれた少年の嘶きによって粉々に割れ、幾億という巻貝の胎に散らばった。そして今、この失われた莫大な質量を新たな女どもの水が埋めていく。蕩々と砲煙を上げ、少年に寵愛されることを哀願し。だが、女どもよ、まだ早い——水の精霊にそそのかされたか。
蒼穹を統べた足高蟹の宮殿は見るも無惨に崩壊し、去来の叡智が凝結された一基の飾り椅子だけが遺った。懐かしき創造主の匂い。われらが父よ。
私はその椅子に少年の体を安置し、瓦礫の柱に女どもを防ぐ呪詛を刻んだ。だが、まだ足りない。少年に女の衣装を纏わせねばならぬ。己が尾羽を殺ぎ落とし、少年の生白い頭皮に縫い付ける。鮮血に唾液を落として練り合わす。裾長の服もつばの広い帽子もあらん限りの羽、皮、筋を紡いで編み上げ、少年を鳥の匂いの中に隠した。
朽骨を風が食む。——私は持てるすべてを使い果たした。眼球も鼻もなく骨の記憶に頼り椅子に昇ると、眼窩から最後の爛肉の一滴が零れ、少年の唇に仕上げの紅を差した。目は開かれる。
「御苦労だった。我が玉座の護り神となるがよい」
私は主に己が影を託し、この場所に呪詛を叫び続ける。
あたし、ほんとうは、王女なんだ。
こんなとこで、座ってるんじゃ、ないんだ。
あいつこないし。
あの子とも、携帯つながんないし。
アトピー出ちゃって今日顔変だから、ちょうどいいかもっていえばそうなんだけど。
だけど違うんだ。
あたし、あたし、ほんとはもっときれいな顔で、きれいなとこに、座ってるんだ。
——都会の鴉が窓際をかすめて飛ぶ。誰かのバッグの中から着信メロディが流れる。ぐしゃぐしゃに折ったストローの下で氷が崩れる。
だけど、ほんとはなんにもないんだ。
……誰もいないところに行きたい。あいつも電子音も湿疹も、なんにもないところ。
そこに座って、あたし、すまして、自分の靴のさき見ているの……
悲しみは風に消えてしまうと聞いていたけれど、あれは嘘で、ほんとうは街のどこかで別の悲しみと絡みあって大きな塊をつくる。塊は影によって回収され、ある日、罪状と共に少女の元へ届けられる。
少女は悲しみの塊を背負って、自らの身体ごと流刑になる。この窶れた街から、彼女は誰にも見送られずに旅立たなくてはならない。遠く遠く、大いなる罪であるはずの都市よりもさらに遠く、やがて地図からも逸脱するほど遠いところへ。
街や文化や争いや言葉、あらゆるものを越えて少女は歩む。長い長い旅の果て、どの少女もかならず古ぼけた一脚の帝座を見つける。
悲しみの塊を投げだして、帝座に頽れたその瞬間。
まがいものだったはずの少女の罪が、ほんとうに確定してしまう。
明瞭な輪郭を持った罪とともに、少女は永遠になる。
そのころ、窶れた街のどこかでは新たな悲しみが小さな塊を作りはじめている。
あなたは大きく息を吐く。
あなたによってカードの山は、三度シャッフルされている。あなたが海と少女のカードを引くため、既にシャッフルされている。
舶来物のカードをあなたの曾祖母が手にして以来、あなたの曾祖母は、あなたの祖母は、あなたの母は、あなた同様カードをシャッフルした。
そして今、あなたは息を吸う。
爪の先にまで意識をやり、あなたはゆっくり、一番上のカードに触れる。
カードの鼓動を感じ、あなたは一瞬怯む。一枚を決心するまでは何度シャッフルしても良い。それがあなたたちのルールだから、あなたは怯む。
今の今まで吸っていた息を吐き、あなたは深く深く目を瞑る。
譲り受けたあの日、母が死んだあの夏の日に一目惚れした、海と少女のカード。
目を開くのと、人差し指がカードを手繰るのは同時。
穏やかな波音と潮の匂いが、あなたに打ち寄せる。
熱に弱い少女は太陽に殺される。幸運にも産まれてからずっと明星は続いているけど、そろそろ空が明けてきそうだ。
硬くなれ、弱い風で震える皮膚よ。頭蓋の穴から見えている水の群れ、その名は砂利。少女はそこに艶やかな髪を垂らし振動させる。そして水面に浮かんでは沈む羽虫一匹を吊り上げる。パシャッと音がして、泥が飛び散る。
腰骨に羽虫を乗せる。虫は触手を腿に絡みつけて、体内に侵入する。抗体、リンパ液、血小板、胃酸、白血球を混ぜたて団子状にしたものを虫は食べ、背中の羽を大きくしていく。
細切れにされた筋肉サイコロの一から六へと吹き込む風向き。その風に乗れるように骨を折る。カルシウムもリンも鉄もオェッと吐き出せ。
波音が聞こえる。泡立つ砂利。足指から沈む。指のステップで砕ける海岸線が少女を飲み込んでいく。太陽が昇る前に降りよう。そのリズムですべてを削れる。炭素の搦め手が手拍子で変わる音だ。音が止む。眠いから。
再び目覚める頃には大人になっている。大人になることは大きくなること。この世界で一番美しいものになって。光を増幅させて。冷たく燃える体になって。太陽を殺す輝きで。
5年前、女の子を産んだ。
4年と11ヵ月前、女の子を捨てた。
8日前、急に思い出して、私は女の子を探しに出かけたけれど、見つからない。
探し疲れて椅子に座って休んでいたときだった。
「あら、こんなところにいたのね、私のかわいい女の子」
5年前に産んだ女の子がやってきて、私にそう話しかけた。
「さぁ、いっしょに帰りましょう」
4年と11ヵ月前に捨てた女の子が私の手をひいた。
私は、8日前から探していた女の子に微笑み返し、4人で手をつないで帰ることにした。
子守唄を歌いながら。
「また、おなじことが起きた」
男は少女とともに、焦土と立ち上る煙とを見つめた。
「彼の気まぐれだ」
少女は白皙の顔で頷く。
「娘よ。最初の一人になってはくれまいか」
男の横顔を、少女は寂しそうに見つめる。男の目からは大粒の涙が零れた。涙は焼けた大地を潤し、花を咲かせた。タッカ・シャントリエリの花だった。
ばしゃっ。
だ〜め。
絶対に見せてあげない。
もちろん、私の位置からはよく見えるわ。
でもだめ。秘密。
ばしゃ、ばしゃ、……ばしゃっ。
あっ、フェイント!
今度はこっちの端を後ろにずらして、と。
ずりずりずり(ギリギリギリ)。
ちゃぷん、ちゃぷん。
ふふん。
白いドールは絶対、放さないわよ。
気紛れな椅子が飛んで行かないように、しっかり世界ねじの柱に縛っているんですからね。
ばしゃばしゃ。
ああっ、また。しつっこいわねぇ。
ずりずりずり……(ギリギリギリ……)。
絡繰仕掛けの渡り鳥が告げる。世界の終末を。それを聞いた少女は、この世の果てで目を瞑る。凍てついた海の上の、既に失われた神殿から雲が立ちのぼる。風が太古からの記憶を、何処かへと運び去ってゆく。献上された化石が乾いた音を立てる。ここは何て静かで時の流れが緩やかなんだろうか、少女は思う。きっと次の世界もあたたかくてしあわせなものに違いないでしょう。
夜が明け、少女はいなくなった。空の玉座から渡り鳥が飛び立つ、次の世界でも目指すのだろうか。一陣の風が吹き、押された化石が氷海の波間に沈んでいく。やがて朽ちた柱も玉座も沈み、停止した波は徐々に飛沫をあげていった。そしてそこは海になった。変哲もない、大海原が持つ光景のひとつになった。
また途方もない時間が過ぎ、少女は帰ってきた。世界を動かしている古時計はすっかり止まり、海底から浮かんできた玉座に少女は腰を下ろす。この世が滅びるたびに繰り返されてきた儀式、やがて渡り鳥が飛来し、少女は目を瞑る。夢を見る。次の世界の夢を見る。
湧きあがる雲。しんと静まりかえって、人の気配もなんにもない青。夏の空は恐ろしい。工事現場の人も言っていた。事故が起こるのはこんな時だって。
あたしは息をきらして、ようやく長い坂を登りつめた。
頂上だ。見晴らしがいい。
とても、いい景色だ。
あたしはここまでやって来た。
ギシギシいうのはあたしの心臓なのか?
崖の上は海のようにうねり、眼下に広がっているはずの町並みを屈折率の高い靄が覆い隠してしまう。和紙の皺のせんさいな凸面鏡。
千鳥よ。
そんなにバタバタと羽音を立てるのじゃない。
クガルマキチドリのかついできた麦藁の束をほぐして、あたしは大きな麦藁帽子を編みはじめる。あたしの両手はかじかんだように紫色で、指先は小刻みに震えている。
千鳥よ。千鳥よ。
重い鎖を断ち切って、あたしといっしょに飛んでゆこうよ。
雲と雲のあいだの架け橋に止まって鳥が啼く。
工事現場が崩壊する。
ちょっと待っていて。
1時間あれば麦藁帽子が編みあがる。
もう許したらいい。
意識に絡みつく過去の断片を 意味もなく拾い集めるのは
やめにしたらいい。
湧き起こる疑念も 時を支配する不安も
何ら君の味方にはなり得ない。
呪縛は 解き放つためにあるのだ。
心の底流を這う 忘れかけていた地脈に手を伸ばせば
きっとわかるはずだ。
頭上高く吹く風が指し示すのは
いつも決して 破滅の叙事詩ではない。
だから
君は 君のことを
もう許したらいい。
快楽に身を委ねた昼下り、周りを覆うものといえば海のようであって、逆さになった子宮の体温が動くが、ドロドロとこの周りを蠢く欄干は、機械鳥の1509年における活躍を思わす。どろりとのたくった、海砂利水魚の、夜もすがら。ふるびし石柱を覆いし千年の髭海豹露草は、逆さになって体にひっこくり、割礼式の夜を思わす。北半球に現存する、水母虫の幼虫は、ドナテロ・フルートのように競い合うらしい。春の或る日に人体発火。野原はまだまだ鯵の羽、粘々べたつき、じきにごっくん。しかれども、しかれども、なぜお嬢様そんな目で私を見るのです、左は目玉西は花模様で、笑うのははりの骸、椅子の上。
ブロンズ、ゴールド、トパーズ、アンバー。
星雲、彗星、星団、流星。
暗くて冷たい金と銀が陸と空の際で近づいて、天体が硬質の都市に己の姿を映しながら少しずつ動いていく、その静かな舞踏の中で建物のあちこちの端がほのかに輝き、ふとした拍子にちかりと光の反射を空に投げ上げるように、君はふとした拍子にちかりと笑い返してくれた。
アイアン、ターコイズ、ラピスラズリ、サファイア。
パンジー、ライラック、ラベンダー、セージ。
もし硬くて柔らかい青と紫が交じり合って、ひたすらに溶け合うとしたら、その過程はきっとひどくゆっくりで、夜をかけて一片の雲が空の端から端へ新月を追い詰めていくよりももっとずっとゆっくりで、夜どおし吹いた風がようやく止んで暁の暗さがほのじろく変わっていくのを待つ眠れない明け方の時の歩みのようにゆっくりだと思う、そんなにも長い間、僕は君を想っている。
旅先の港町で、ホテルの小さなテーブルに向かって、僕はこうしてまた君に出せない手紙を書いた。夜通し僕は君を想う。この明け方に君を想う。
世界は灰色だった。
なぜって、少女はまだ眠っていたから。
誰もいない寂しい海の上でひとりきり少女が目を覚ますと水色の空に白い雲青い海、次々と色づく世界で少女を乗せた椅子は動きだし海を渡り、今はまだ知らない少年や少女たちと出会うのだ。
灰色のいびつな鳥はもういない。
こどもたちは走り回り大きな声で楽しそうに笑う。
だって世界はたくさんの色で満ちているのだもの。
遥かな国に出かけた娘
時間の鳥に導かれ
辿り着いたる未来の船は
過去に針路を放り投げ
そしてついぞ戻らない
おはなしなんか尽きてしまったので鏡の前にいる。この鏡は世界に残ってる最後のおはなし。ほとんどあり得ない。鏡のむこうの誰かが「ある」と信じているおかげで、ここにあるらしい。信じているひとごくろうさまです。
ここに映っているのは私なんだ。でもこれ以外に鏡はないから、このひとは唯一の、見慣れないひと。
「世界はおぼろになってしまったから、鏡は誰かの心のなかのおぼろな心象につながるのである」最後から二番目の父の言うとおりなら私は誰かの見ている私を見ていることになる。でもずいぶんくっきりと見えるさ。いろいろ見分けられるんだけど、おぼろなものがくっきりと見えたら、それはおぼろよりもおぼろということだ。鏡のむこうでは、おなじということとちがうということさえくっきりちがうらしいけれども、「どれくらいおなじ?」と「どれくらいちがう?」はおなじだから、おなじとちがうはおなじだと思う。
眼を閉じれば鏡の向こうを漂っているおはなしが読める。ずいぶんとはっきりしていて細部がよくわかるけどそれは細部に限度があるからだし、私の考えもはっきりとしか見えなくて、まるでおなじとちがうがちがうことみたいですから吐きそうで。