500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第54回:そこだけがちがう


短さは蝶だ。短さは未来だ。

例えばリビングの天井の上、例えばアスファルトの上、例えば数学教師の禿頭の上、例えば宙に浮かぶ月面の上…それはどこにでもついてきて、でもどんなものとも違う何か。小さくざらざらとした銀河のように渦巻く青灰色の澱み。
中を覗くと底の知れない不気味な光を放つそれは、手を伸ばせば届きそうな位置にあったりもすれば、絶対に届くはずのない場所にあったりもするのだが、いつも同じ大きさで、いつも同じ形をしている。
どこにあっても私の目を引くそれを、しかし他の人は気にもかけない。もし私がその中に手を突っ込んだら、突っ込んだ手は周りの人にどう見えるのだろうか。考えてはみるものの、いつも恐怖に好奇心を抑えられてしまう。
ある時、ふと弾みで同級生が掃除用具箱にあるその澱みの上に手を置いた。その同級生の手は、やがて澱みと同じような青灰色へと変色し、肌が旱魃した地面のように荒れ果て、しだいにそれが手から腕へ、腕から肩へと侵蝕していく………というようなこともなく、そのまま中に沈んだ腕をこともなげに引き抜き、何事もなかったように用具を取り出す。
そんな青灰色の澱みは今、私の肩の上にある。



「ジンジャーブレッド」

あたしの愛したジンジャーブレッド
思い出の中にしかなかったものが

目の前にある

けれど
それは外見が同じだけだった
人の形をしているだけ

何度も
何度も同じ外見を見つけるけれど
本物には会えない
もう何が本物なのかさえも忘れかけた頃に
出会った

あたしの愛したジンジャーブレッド
思い出の中にしかなかったものが

目の前にある
昔のままの味で



「これがうちの新商品の試作品なんです」
 目の前に出されたのはバケツ。
 ブリキのバケツ。
 ただのバケツ。
 どう見てもバケツ。
「ええと・・・・・・私にはただのバケツにしか見えないんですけど」
 私は言った。
 相手はにこやかに解説を始める。
「これはここが新しいんですよ」
 バケツをひっくり返す。
「ここをこう、ポンと叩くとですね」
 あっ、底が抜けた!
「こんな風に穴が開くんです」
 あっけにとられる私。
「プッチンプリンからヒントを得ましてね、これでバケツサイズのプリンが出来るというわけです」
 売れますか?それ。



細かいこと気にすんなよ



 男は猫柄のティーカップに顔を近づけ、「えぇ香りや」と満足そうに女を見た。朱に揺らぐアップルティーの甘さが煙る。猫好きにとって至福のひととき。
 ここは女の部屋。猫柄のテーブルクロスに、猫のスプーン、猫の置物。壁には猫のカレンダー。猫猫猫猫。猫こそいないが猫だらけで、猫嫌いが見たら全身の毛を逆立てて毛嫌いし、猫好きが見たら猫かわいがりしたくなるような部屋。女は猫柄の皿に盛ったケーキを置きながら「あぁ、えかったわぁ。気に入ってもろて」とひげを立てるような笑み。猫好き犬嫌いの彼にめろめろにほれた犬好き女の苦労がにじむ。
 続けて、「ちょい待ってな」。猫柄のエプロンを外してから席につこうと、後ろ手で蝶々結びをほどきながら背を向けるが、天にも昇る気分が災いしてか足を絡めて猫クッションにすってん。男にカワイイトコロを見せようと気張ったミニスカートが派手にめくれる。
 男は一転、蒼白。
「ちゃう。今の猫や」
 女はスカートを押さえ真っ赤になってごまかす。



 疲れた足音とともに帰宅した夫の肩上には死神が憑いていた。「あっ」と思わず声をあげた私に怪訝そうな目を向ける夫。「なんだ」「いえ…すぐご飯になさいます?」「もう食べてきたよ」。死神から無理やり目をそらす目元には皴が何本刻まれていることだろう。「最近胃の調子がおかしいんだ」とつぶやく夫の眉間に走る皴とどちらが多いだろう。
 横で眠る夫の寝息を聞きながら、天井あたりに浮く死神を見上げていた。鎌を持ったまま動かない。ようこそ?こんばんは?さまざまな言葉が頭を流れるが、どれひとつとして適当でないように思えた。触れてはいけない無表情とは、死神?夫?私?
 朝が来て、隣には夫が昨日と同じ姿勢でいた。思わず夫の身体を揺さぶる。「あなた?あなた?」「…ああ、もう朝か」。それは落胆だろうか。相変わらず死神はそこにいた。光の加減で笑っているようにも見えた。



「ヘビはネコだ。縦長の瞳に鋭い牙。ヘビってやつはほとんどネコといっても過言ではないね。ただしヘビはおれたちと違って獲物を丸飲みにするんだがね」
 それならぼくを丸飲みにしたきみはネコなのかヘビなのか。そう思いながらネズミは胃の中で溶けていく。
「もちろんネズミだってヘビさ。毛のないしっぽをにょろにょろさせて穴の中を走るだろう。ネズミってやつはほとんどヘビといっても過言ではないね。ただしネズミはヘビと違って怖いときにはチューチュー鳴くのさ」
 それなら一言も鳴かなかったぼくはネズミなのかヘビなのか……。そう思いながらネズミは腸の中をにょろりにょろりとうねり進む。



 たとえば、海庭二万哩。



 「では、二人ずつのペアを作ってください」
 世界地図を眺めるのが好き。脚色された世界は、カラフルだけれどありふれている。冗談みたいにわかりやすい。青い国はない、海に溶けてしまうから。
 あぶれるのはいつもの事。仲良し達のワイワイが収まるまで、ぼーっとしている。ふぞろいに区切られた世界は、均等よりも心地好い。少なくとも合点がいく。こんなものかと思う。南極に行きたいな。寒いんだろうな。オーロラを見てみたい。
 あぶれ者がもう一人、こっちを見ている。
 「先生、相手がいません」

  ※    ※    ※

 「では、二人ずつのペアを作ってください」
 世界地図を眺めるのが好き。脚色された世界は、カラフルだけれどありふれている。冗談みたいにわかりやすい。青い国はない、海に溶けてしまうから。
 あぶれるのはいつもの事。仲良し達のワイワイが収まるまで、ぼーっとしている。ふぞろいに区切られた世界は、均等よりも心地好い。少なくとも合点がいく。そんなものだと思う。南極に行きたいな。寒いんだろうな。オーロラを見てみたい。
 あぶれ者がもう一人、こっちを見ている。
 「先生、相手がいません」



 蔵に入ると たくさんの瓶が斜めに傾けられて ずらりと並んでいました
 青いガラス瓶 緑のガラス瓶 黒いガラス瓶
 天井に裸電球ひとつ
 薄い色の瓶の口近くには 薄い光の線があって 持ち上げると 線が傾きます 瓶と同じ色の液体が瓶の中で揺れます
 どの瓶にも何かが入っているようです
 朝までに見つけなさい そう優しくあの人は云って 蔵の戸に外から鍵を下ろしました
 わたしはためらいながら 瓶をひとつずつ開けていきます 水でした 日本酒でした どれも透明な液体
 人魚の涙はしょっぱいはず どの液体もなめると甘いからちがう
 いつのまにか酔っていて わたしはなぜ自分が人魚の涙を探しているか忘れていることに気づき 蔵には窓がなくて朝まであとどれだけかわからず 本当にあの人が戻ってきてくれるのかもわからず 不安になって蔵の真中へ行ってぐるりを見渡すと 天井の電球の真下からわたしの影が八方に分かれて それらが瓶を割ろうとするから わたしは泣きました
 頬を流れた涙を空き瓶に詰めて栓をしました
 並べたとたんに ほかの瓶とまぎれます
 明日 今夜のわたしがまた来て これを見つけるでしょう でもわたしは人魚ではない



 転寝から覚めて我に返ると、電車のドアが閉まった。しまった。降り損ねた。照れ隠しに足を組み直して辺りを窺うと、何か違う。
 塾帰りの小学生や、おしゃべりに興じる高校生達、仕事帰りのOLなど、密集とまではいかないが人は多い。何も違わない車内の風景。
 でもやはり、どこかおかしい。この感じ、どこかで体験したことがある。つらつらと体験録をめくっていて思い出した。女子高に入学した当初の感じとそっくりなのだ。女だけの光景に面食らっていたのが懐かしい。そういえば、女性専用車両なんてのもあったなぁ。あれも初めて乗った時は異様な感じがした。でも両方ともすぐに違和感は消えた。男性不在が日常に埋没して、意識に上ることもなかった。
 でもすぐ慣れるくせに、ふとした瞬間、違和感が湧きあがる。男と女はワンセット、って人間の底の底にインプットされている証拠だ。
 今の違和感もそんな遺伝子の底からの抗議だったのだろう。でもまたすぐに、違和感は消えてしまうはずだ。そういえば男性が絶滅したのって、もう何年前のことだったっけ?



 南天、柿の葉、桜の葉。銀杏の並木を通りぬける夕陽のオレンジ。
 去年も一昨年も歩いた道だけれど、今年は僕の隣に木を見上げる人がいる。
 一緒に見る人がいるとやっぱりいいな。毎年ここを散歩しよう。

 南天、柿の葉、桜の葉。銀杏の並木を通りぬける夕陽のオレンジ。
 去年も一昨年も歩いた道だけれど、今年は私の隣の男が違う。
 レベル落ちたのがやっぱり不満。来年はもうちょっといい男と歩こう。

 南天、柿の葉、桜の葉。銀杏の並木を通りぬける夕陽のオレンジ。
 落葉を踏む足音が二人ぶん。



 一九九九年七月。人類は滅亡した。
 七十五億の地縛霊が地球に取り憑いて、以前のままの生活を送っている。さすがに最近は言い知れぬ不安にさいなまれるのか、生きていることを証明しようと、お互いに殺し合いをはじめた。
 ためしに自分の胸にナイフを突き立ててみればいい。痛くはないはずだ。肉は裂け、血はながれ、君は倒れるだろう。しかしかつて人類が存在していた頃の、生命が失われる痛みはない。



「壊れちゃったの」
 私は持っていた鍋の蓋の取っ手をちょっとだけ持ち上げてみせる。ウワワワンという派手な音を立てて蓋は取っ手から離れて鍋に着地した。
「明日トビタ屋に行く用があるから、買ってきてあげるよ」
「あら、いいわよ」
「いや、僕が丈夫で安いやつを見つけてくるよ。それ、何センチ?」
「二十センチくらいかしら。だいたい同じくらいだったらいいわよ」
「そんな訳にもいかないだろう」
 夫は物差しを持ってきて鍋の直径だけでなく、色々な部分を測ってはメモしている。まったく。夫は昔っからこういう人なのだ。几帳面で物を大切にしてやさしくて……。

 翌日、夫が帰ってきた。鍋の蓋だけを持って。
「蓋なの?」
「蓋が壊れたんだろう?」
 私は鍋にぴったり嵌まった新しい蓋を退かし、底にある小さな穴を見せた。
「よく蓋だけ売ってもらえたわね」
「どうやったら蓋の取っ手と鍋の底だけを壊すことができるんだ」
「すごく熱心に鍋を見ていて穴に気付かない人もいるわ」
「……ああ。とにかく、買ってくるよ」
 夫はまた出かけていった。昔っから夫は几帳面で物を大切にしてやさしくて……ちょっと抜けている。穴の開いた鍋を覗き、私はぷっと吹き出した。



 目覚めたときにはすでに世界は変わっていた。一見すると昨日までと全く同じ風景、同じ人々、なのにどこかがズレてしまっているという違和感が拭えなくて、僕は変化した世界に溶け込むことができない。
 何が違ってしまったのか僕にはわからない。なんとかしてそれを知ろうとするのだけれど、いくら世界を眺めても答えがでることはない。視界の角にいたはずの羽虫が視線を向けた時には消えている、そんな気持ち悪さ。
 きっと違いはただ一点なのだと思う。前の世界と変わってしまった一点、それさえわかればこの違和感もきれいになくなって、新しい世界を受け入れることができるかもしれない。
 でも見つけることはできない。たった一つの変化を探し出せない僕は、新しい世界の中で一人ふわふわと漂い続ける。

 ある日、不意に僕は気づく。気づいてしまって絶望する。
 ああ、これではもう、どうしようもない。
 僕だ。
 僕なのだ。



 ここにいるこの私など、あの頃の私は想像すらしなかった。
 金魚鉢の底から世界を見ているように、いつも私の世界は歪だった。真っ青な空を鰯の大群が泳いでいったこともあった。あるいはそれは象の大群だったかもしれない。それとも北の約束の地に渡る蝶たちの群れだったか。いずれにしても、そのものの影が流れている間にほんの少しだけ泣いた。でもそれはあまりにもわずかな時間で、おおむね私の時は止まったままだ。
 誰よりもなつかしいひとも、たくさんの思いを抱えて、どこかで今、しあわせに生きていることだろう。
 そして世界はいまやただの空洞に過ぎない。空も海も大地もいつの間にか消えた。宇宙すらその意味をなくした。
 時は止まったままのはずなのに、私だけが枯れて消えゆこうとしている。
 その醜悪さに喜びさえ感じながら。



 抜き放たれる刃、それはこの上なく物体、それが迸る場所は同じ程度に空間である。にもかかわらず、みる我々はその刀閃、物体でもなく空間でもない異界を認める。
 動作を終えて静止した刃、そこには異なるところの澱めいたものが付着している。
 熱くもなく、匂いもない、粘り気すらないが、こびりついている。



 私が2杯の緑茶を盆に載せてアトリエの扉を開けると、赤とんぼも一緒に迷い入ってきた。秋を予感させるそれを見た彼女は
「長袖でも変じゃない季節だ」
となんとも嬉しそうに感想を述べる。変な感想だとは思うが、そんな風に思う理由は知っている。今の世界と彼女の存在の有無だけが違う世界を考えたくないので出来るのなら触れたくない話だが。当の彼女はというと部屋の真ん中にある完成間近の絵を立て掛けたイーゼルの前に立っていた。そして
「見て」
とその絵を指差す。詳しく示した先は、まだ私が塗ってないはずの場所。「はず」の。
 思わず勝手に色を塗られたことと、もう一つのことに私は声をあげた。
 血だ。
「ここだけ周りより早く変色しちゃうけど、それはそれで乙じゃない?」
ニヤリとしながら彼女は言う。今はむき出しになっている彼女の腕のカッターによる無数の傷跡。そこに今し方出来たであろう鮮やかな赤い線が新たに一つ加わっている。私がうめき声をあげると
「私が体張ったんだからいいじゃない」
と来た。あぁ、言いたいのはそういうことじゃない…。


    *   *   *


 こんな風に今はいない彼女の思い出を反芻していると、すっかり変色して赤茶色になったそこを塗り潰せなくなってしまう。



 きみはいま月をみている。雲のない星のふゆぞらに、今日はとてもまるくあかるく光っている。月のまわりはぼんやりとしろく空のいろをかえていて、なんとなく、はくぎんというのはこういういろかもしれないと思っている。きれいな月。しろいいきをはきながらなぜかきみはひとりで夜道にたたずんで、ぼくのことを思い出している。
 ぼくときみはおなじ年、おなじ町でうまれた。ちいさいときから仲がよかった。ふたりで近所のおばさんにしかられた。きみんちのおばちゃんが作ってくれたごはん、なんていうのかいまでもわからないけどおいしかった。そうやっておなじものをならんで食べたりした。そのうち、べつべつの道をすすんで、いっしょにいることもすくなくなってぼくは、町をでた。たまにふたりで会ったけど、さいきんはずいぶんみていない気がする。
 ぼくはいま月をみている。雲のない星ぞらに、ちょうど、とてもまるくあかるく光っている。そうだね、はくぎんというのはこういういろかもしれない。きみはあしたも月をみるだろうか。こんなにきれいな月をおなじ町でふたりでみられたらよかったけれど。ぼくもひとりだ。こっちもさむいよ。だだっぴろい宇宙にほうりだされて。



 ふわふわと長い髪の毛はアキレス腱の際立った痩せた踝まであって、ミコとヒコは柔らかいその先っちょをひとつにまとめて赤いリボンで結んでいる。
 マロニエの下でミコとヒコは仕立屋の双子と四人でデートをする。二人が髪を束ねている赤いリボンは、仕立屋の双子が二人のために真心込めて拵えたものだった。
 「ねえ、私のこと好き」とミコが訊けば仕立屋の兄はうなずき、「ねえ、私のこと好き」とヒコが訊けば仕立屋の弟もまたうなずく。肩胛骨の下まである栗毛がうなずくたびにさらさら揺れる。仕立屋の双子はいつか自分たちも赤いリボンの輪に加わるため、長いこと髪を伸ばし続けていた。
 四人でリボンを結んだらもうどんなときもほどかないで、仕立屋を切り盛りしながら愉しく仲好く暮らすのが四人共通の夢だった。
 夢の実現までもうあといくらもないとミコと仕立屋の兄は心躍らせ、実現までまだだいぶあるとヒコと仕立屋の弟はほんのちょっぴりやきもきしている。



 ソコダケというのは壺やなんかの底のような暗くて深まったところで育てるキノコで、うちで栽培している。命名したのは妻で、よく食べたりもする。
 ぼくの妻は炊事洗濯なんでもござれ、働き者のいい妻になると思っていたら、どうも様子がおかしい。何のことはない、腕はいいけどモノグサだった。
 ぼくは会社で働いている。社員への待遇も良く、やり甲斐もある仕事、社会にも貢献していると見えたのだけど最後のだけは勘違い、たくさんの人達を日々泣かせております。
 大体においてぼくは、ひとつ想像と違うのだ。
 ある日、ぼくが家に帰るなり、散らかった部屋で妻が背中を掻いてと言う。
「あー。そこそこそこ、中から掻いて」
 シャツをめくって背中を見たら、キノコが生えていた。言えなかったけど。
 で、試行錯誤、壺の底で栽培に成功。秘密で育てていたら妻は目敏く見つけて食べてしまった。美味しかったらしい。不思議と背中の痒みもなくなったそうで。
 そのまま食べさせたら背中の痕も消えて完治するだろうと思っていたら、痕がなくなったは良かったが、あくる日妻が全身ソコダケになっていた。壺に入れてなかったのですっかり枯れて、まあ。
 人生なかなか思い通りにいきません。



 あたしの完敗だった。三つ上の従兄弟は、この勝負ならいまの俺に敵はいないと豪語した、実際その通りだった。四隅はおろか四辺を見事に押さえられ、たった一ヵ所カラスの忘れ物みたいな黒い斑点を残し、盤上はすべて白く塗りつぶされた。あたしは賭けに負けてしまった。従兄弟は得意げな顔で冷たいミルクをたっぷりと盤に注ぎ、たちまち盤からあふれ出し、床にひろがり、壁もカーテンもどんどん白く変わっていく。
 そのうちあたしの服にもしみて、安っぽいスカートは純白のドレスになっていく。気恥ずかしさでうろたえながら、盤上の黒一点をあわてて握りしめた。もうすぐ全部、従兄弟が待ち望んだ世界になってしまう。いつの間にか天井の高い聖堂のまん中で、天窓から白い光が降り注ぎ、あたしはおしろいで顔を固めた友人たちから白ばらのブーケを手渡され、白馬のひく馬車が玄関まで迎えに来ている。
 白いタキシードに着替えた従兄弟は息を整え、微笑み、あたしの手から最後の一枚を取り上げる。プラチナのリング台をくっつけて、再びあたしの手に戻す。
「さあ、きみの手で裏返して」
 世界にたった一枚残された黒い色。裏返すその指の震えがいつまでも止まらなかった。



 かきくけそ
 さしすせこ



 めめめめめめめめめめ
 めめめめめめめめめめ
 めめぬめめめめめめめ
 めめめめめめめめめめ
 めめめめめめめめめめ
 めめめめめめめめめめ
 めめめめめめめめめめ
 めめめめめめめめめめ
 めめめめめめめめめめ



以下同文。



※この作品が正選王、もしくは逆選王に選ばれた場合は、ひとつ上の作品の本文を掲載し、以下の但し書きを末尾に附加してください。○○と××には該当する名前を補ってください。
(注:○○さんは今回の正選王(逆選王)受賞者ですが、この作品の作者ではありません。この作品の作者は××さんです)



↑最初の一行だけでなく、括弧の部分までが作品です。未完成ですが、受賞をもって完成します。
何卒、掲載順一番にはしないでくださるようお願いいたします。



 会わなくなってたかだか一年だ、彼女がまったく変わっていなくても不思議はなかった。ちょっと手櫛を入れただけの短い髪に、スモックじみて見えるだぶだぶの男物のシャツ、細身の綿パンから覗いた足首は、踝が大きく浮き出している。いまだに、食費を削って美術書を買うような生活を続けているのだろうか。
「よぉ鈴木!鈴木るい!」
 いぶかしげに振り向いた顔がすっと和らいで、人懐っこい笑みを浮かべた。
「おひさ!」
 挨拶代わりにいきなり骨ばった左手を差し出して、握手を求める妙な癖も以前のままだ。『左手でするのは別れの握手だぞ』何度教えても、利き手を出すのを止めなかったっけ。回りの人目を気にする僕が可笑しいのか、わざと大げさに握った手を上下させて、
「けっこうちゃんと、大人をやってるんだ。あの君がねぇ」
 空いた右手で、背広の胸を突いてくる。
「お前は、呆れるくらい変わらないな」
 僕の言葉に、青白い頬へほんのり血の気が差した。
「そんなことないって」
 自分の不用意な言葉に、臍を噛んでも後の祭りだった。
「斉藤るいって名前になったんだよ、この間」
 思わず握り締めた指先に、冷たいリングが触れた。ちょうど薬指の辺りだった。



 雨の日であった。マンションの7階であるというのに、ベランダにスズメバチが迷い込んできた。妻が物干し竿で突いてみた。弱っていた。スズメバチはよろよろと這うばかりで、狂暴さも俊敏さも持ち合わせていなかった。物干し竿の先によじのぼってきたところで、妻は竿先を外に出してたたき落とした。
 また雨の日であった。枯草色のバッタがベランダに迷い込んできた。そういえばもう秋なんだなと思った。弱ってはいなかった。妻が指先で突くと飛び上がって外へ跳ねた。地上までの20メートルをバッタがその後どう過ごしたかは知らない。
 心はどしゃ降りの雨であった。ベランダに浮気相手を裸のまま追い出した。妻が一日早く帰国した。部屋にはまだ胡散臭い熱気が立ちこめていた。ゴミ箱のコンドームは隠しきれていなかった。ベランダからくしゃみが聞こえた。妻は笑いながらベランダへ歩み寄った。「また虫ね」と笑いながら歩み寄った。



 この星への移住が済んで、もう三十年が経とうとしていた。ここでの生活は地球とほとんど変わらない。日の光が差し、風も吹けば鳥もさえずる。川も緑も時にきらめき、人々はしがらみとも愛情ともいえるものと共に暮らしている。
 変わったのは夜空だけだ。星々が輝くが、ひとつとして子どものころ覚えた星座は見つけられない。
 縁側で空を眺めていると、孫がやってきた。
「おじいちゃん、お月さまどこ」
「千秋、お月さまなんてどこで聞いたんだい」
「かぐや姫」
「ああ、おばあちゃんか。うん、お月さまは見えないくらい遠くに行っちゃったからなぁ」
 孫はつまらなそうな顔をする。
「そうだねえ、月は夜のお日さまなんだよ」
「お日さま?」
「そうだ。だけど、お日さまよりもずっと優しくてね。満ちたり欠けたり。そうそう、月にはうさぎがいるんだよ」
「うさぎ?」
 孫は明るい声を出し、顔をほころばせた。かぐや姫がいてうさぎがいる、月もにぎやかになったもんだ。「ほうらっ」と、抱き上げてやる。月は見えないが、もう少し近くで空が見えるように。けれど、孫は空ではなく庭に目をこらしている。うさぎを探しているのかもしれない。
「お星さま、きれいだねえ」
 私は独り言をいって、月のない空を見上げる。



 凡そ我々の知覚ほど不確かなものは無い訳で、見たり触れたりする事の出来る場合でさえそうなのだから、感情や記憶の如き抽象に至っては尚の事である。時間も勿論その例に漏れず、全て私の頭の中で創ったものに過ぎないのかも知れない、等と屡々思う。つい最近もそんな曖昧を痛感する出来事があった。
 先日、仲の良かった級友約十人と、実に四十年振りに同窓会もどきの会合を持った。皆思った以上に変っておらず、暫し女学校時代に戻った思いで時を過す。何で制服姿じゃ無いの私達、と云う冗談も聞かれたほどだ。これが男性であれば頭髪の変化や髭の有無それに背広等の出立ちから随分事情は変ってくるのかも知れない。また、美や自意識の持ち様、遺伝子的性差もあろう。そんな中、奥隅の席の京香だけは何か違う印象がして、少し気に懸かった。もしや彼女は既に亡くなっていて……なる想像も頭を過ったが、往きの電車で読んだ心霊小説の所為と自身を説得し、何とか打消した。
 何やかやで集いも盛上り、疲労感と伴に終電で帰宅する。夫は既に寝ており、一気に喧騒から静寂へ。堪らず、私はテレビに解決を求めた。通販番組が韓流特集で写真集やら眼鏡やら鬘を売っていた。



 つん つん つん
「あは〜ん」

 つん つん つん
「いひ〜ん」

 つん つん つん
「どこさわってんのよ!」

 つん つん つん
「うふ〜ん」

 つん つん つん
「えへ〜ん」

 つん つん つん



「そんなつもりはなかったんだよぉ!」
 片割れを失った間違い探しの絵の中で、友を殺した男が一人、空に向かって力の限り叫ぶ。



 僕等は煙に巻かれた。
 部屋は跡形もなかった。
 ある日の僕等を襲った災いだった。
 なくなってしまった。
 或いは冷蔵庫内の缶ビール、或いはテーブル上の灰皿やペン立て、食べかけのチップス、輪ゴム、仕掛時計、カーテンや壁紙の柄、ウォールポケットに忘れられた半券、鏡台、リップ、乳液、毛布、傷はなく帯もないCD、のっぽとでぶのサボテン。つきあい始めの頃の新鮮な想愛から、折々に刻まれた種々の喜怒哀楽、そろそろ結論を出さなければという近頃の感傷までが、挙げればキリのない程の様々に化けて、狭々しく密に、けれども穏やかに呼吸する、二人で過ごしてきた部屋だった。僕等の。
 なくなってしまった。
 僕等は互いの顔を見、その色のなさを相察し、茫然と佇む。
 ひっそりと髪も揺れない。
 僕等が、互いに薄々悟りつつある頃だった。
 そうして僕等は答えを失う。
 そうして僕等は言葉を失う。
 そうして僕等は声を失う。
 そうして僕等は自然と手を繋いだ。
 僕等にはもう何もない、僕等を表す何もかもは失われた。ただ温もりだけがその手に残った。その感触だけがしっかりと確かめられた。
 やりなおそう。僕はなお強く掴んだ。



 キスはソース味。



 つい飲み過ぎた。しかも猫相手に。当の猫は首下のクロスを揺らして、牛乳を飲んでいる。
 クロスを見ていたら、ゴスペル教室の石頭講師を思い出した。口癖、ゴスペルは人を救うための歌。
 私は説教を聞きに行ってるんじゃない。
 焼酎のトマトジュース割を啜るように飲み干してから、愚痴をぶつける。
「太陽もにんにくも克服したのに」
 無視。
「人のために歌えないやつに、ゴスペルを歌う権利はないってどういうこと?」
 毛繕い。
 馬耳東風、猫に愚痴、吸血鬼に説教。バカバカしくなって、私はラジカセのスイッチを入れた。
 流れる曲はゴスペル。曲は私の心を掬って、洗ってくれる。私は自分のために、こんな歌を歌いたい。
「にゃあぁぁーんにゃあああーん」
 唐突にラジカセに合わせて、猫が歌い始めた。猫が自分のために声を張り上げることなんか、ないはず。
 何で、猫の癖に? 私にも他者のために歌ってみせろっての?
「アァメージィィーングレーィス」
 私は自分が吸血鬼であることを忘れて、他者のために歌った。今まで歌ってきた中で、一番の出来だった。他者のために歌っても、自分を洗える事を初めて知った。 
 日の出を背にした猫が不覚にも、マリア様に見えた。



 果てしなく薄雪の色のひろがる花畑のまんなかに、ひとつだけしたたるように真っ赤な花が咲いたものだから、雪乃ちゃんと私のあいだでは「そこに死体がうわっている」という了承になった。夜更けに、ふたりで、掘りにゆく。祭具によく似たかたちのスコップをかわりばんこにふりまわしながら、明けの明星が小鳥の胸へかえる時刻までせっせとがんばってみたが、けっきょくなにもみつからない。なんだか無性に癪にさわったので、代わりに雪乃ちゃんを置いてゆくことにした。雪乃ちゃんは貝殻のようにあわい肌色の持ち主だったけど、額を半分にして噴きこぼれる血潮は、他の人とおなじ毒林檎の真紅だったから、私はとても満足した。赤い花には赤い死体が、やっぱり一番。
 ところが雪乃ちゃんを埋めて数日後に、赤かった花がまわりとおなじように白くなっているのを見つけてしまう。光彩の反射はなにかとそっくりだ、と、かんがえて納得した。雪乃ちゃんの裂けた脳天、石鹸のコマーシャルめいた白、あけてはいけないパンドラバックス・頭蓋骨。私は世界中の死体の行く先を理解すると同時に、自分のおろかさで最後の赤い花を失った事実を、真新しい夜が来るまで後悔しつづけた。



 え? あたしはつぶあんのほうが好きだけど?



 もし弟に翼がなければ自分たちでもどちらがどちらかわからなくなるかもしれない。同じなのは容姿だけでなく、学力、運動能力、思考パターン、そして好きになった女もだった。
 彼女の眉間にしわが寄る。「あなたたちのことは好き。だけど何もかもそっくりなんだもの、片方を選ぶなんて無理」
「ちょっと待てよ」俺は言う。「こいつの背中を見ろよ。これって結構な違いだと思うよ」
 どうやら彼女は切りすぎた前髪を気にしているようだ。「そんなのは些細なこと。だって、黙ってればわからないじゃない」
「それはそうだけど」それはそうなのだ。これは漫画ではないのだ。彼女の前髪が短すぎることも弟に翼があることも、言わなければ誰にもわからない。それどころか、まだひとことも発していない弟が実在するという保証すらない。ならば本当は最初から弟など存在しなかったことにしてしまえば良い。
 俺には瓜ふたつの弟はいないのでどちらがどちらかわからなくなる心配はない。「俺と付き合えよ」
 彼女は頬を赤らめ頷く。残念ながら俺は彼女に触れることができない。しかしその点を除けば触れられる女と何も違わない。彼女は間違いなくそこにいて、俺だけを見つめている。



なにも変わらない。
いつもと同じ朝。
いつもと同じバス。
いつもと同じように門をくぐり。
いつもと同じように教室へ入る。

ボクの存在を無視し続けるクラスメートも、見て見ぬフリをする教師も、たいくつな授業も。
なにもすることのない放課後も、誰も出迎えることのない家も、帰宅してもボクにはまるで関心のない親も。

あの屋上でボクはいったいなにを期待したんだろう。
思わず笑ってしまいそうなほど何も変わらなかった。
夜の闇を映す窓ガラスに、もうボクの姿が映っていないことを除けば。



ああ騙された、騙されましたよ。あの老舗の菓子屋の売り出しだからって、喜び勇んで行ったこちらも浅ましいかもしれないが、いくらなんでもあこぎじゃないかえ。お買い得の大箱抱えて、ホクホク顔で帰って来てのはいいわいな。味も上々、はりこんだ煎茶もとろりと口に甘い。さて次を、と手を伸ばしたもう終わり。ごらんな、ひどいもんだろ。ほんに忌々しい上げ底だよ!



 いい? 私には双子の姉がいるの。あなたが付き合っていたのは姉のほう。私は妹で、あなたとは初対面。私たちは一卵性で顔がそっくりだから、人からよく聞かれるわ。二人の違いは何ですか、って。でもね、違いなんてないの。少なくとも外見上はまったく同じよ。だからそんな時はにっこり笑って、「かわいい方が姉ですよ」なんて適当に答えるの。これもう百回くらいは言った台詞かしら。ホント、うんざりする話よね。
 でも今日はクリスマス・イブだし、あなたには特別に教えてあげる。姉と違って私はね、とってもとっても嫉妬深いの。姉に与えられて私に与えられないものがあるなんて、そんなのぜったい許せない。だってそうでしょう? 同じ顔で生まれてきて、どうしてそんな不公平が許されるっていうのよ。どうして姉ばかりいつも幸せなのよ。どうして私じゃなくて姉なのよ。どうして……あら、ごめんなさい。あなたも困っちゃうわよね。殺された後にこんなこと言われても。