500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第68回:何の音だ


短さは蝶だ。短さは未来だ。

———何か、聞こえる・・・・・・

不意に眠りを妨げられて、私は暗闇の中で目を開けた。
辺りは真っ暗。ただほのかに温かく・・・・そして、少し湿った何かに包まれている。
最後に光を浴びたのは、いつだったろう?長い長い眠りの間に、光なんて忘れてしまったようだ。
この外がどんなところだったのか。
光を浴びたら、ここと同じように温かいのか。何もかも・・・・外のことは忘れてしまった。

「・・・・誰・・・・?」

恐る恐る声を出してみる。
さっきからずっと耳に響いてくる音は、何も答えない。ただ、響くだけ。
導くように・・・・・・響いているだけ。
少し震えながら、私はその音の聞こえるほうへ歩き出した。
初めはゆっくり、それからだんだん速く・・・・・・・

胸が高鳴っているのが分かる。
さっきまでの震えと、違う意味で身体が震えている。
どんどん周りが温かくなって、少し暑い位だ。
眠りの中で力を蓄えた私は、纏わりつく暗闇を難なく振り払って進める。

そして、ついに。
私は、震える足で外の世界へと踏み出した。


小さな命の種を呼び起こす———————それは、春の呼び声。



 鯨飲で知られる劉伶、字は伯倫は、酔えぬのか鬱々としていた。
「伯倫。何を憂う?」山濤が劉伶の愁色を察して問うた。
「山兄。『人である可し』と鳴るのはなぜであろう」
「それではわからぬ、わかるよう話せ」
 劉伶曰く、酒友に禍が続いており、原因を探ずるに近来購入した古瑟に思い至るも下手に扱うと更に大きな禍を受くかと悩んでいるという。どうやらその瑟が「人である可し」と鳴るのだそうだ。
 人の良い山濤はわざわざ出向いて件の瑟を観るなり「これは祟だ」と断じた。「裏に『犬将軍蔵』とある。故意かは知らぬが大の字に点があるのだ。これでは瑟の故主である大将軍は持ち主に祟ろう。『人である可し』とのお怒り尤もである。あまりにも無礼故、更正の後、篤くお祀りせねばなるまい」
「せねば?」と瑟の持ち主が青ざめて問うた。
「一族滅ぶな」
「して、お祀りすべき大将軍とはどなたでございましょう。古くは韓信、衛青、何進、新しきは戮殺されし曹爽……。まさか、曹爽様の祟り?」
「音で知れ。曹の音には非ず」
「なれば?」
「人である可し。その音の意を熟慮すれば、自ずからわかるであろう」
 主は卒然として瑟が発する音の重意を悟った。祀るべきは何進と。



気が付くとかれはコンビニのビニール袋を左手に提げブラブラさせながら都電の線路が真ん中を走る一人もいない通りを歩いていた。それまでずっと見てきた夢から目を覚まし、同じ夜にまた違った誰かの夢に入り込んだような不思議な気分だった。点々と揺れている灯りに飾られた空間を前面にして夜風が肌に当たるのをかれは感じた。ひどく寒い。この前の夢から覚めさせたのもこの寒さのお蔭かもしれない。雨水でぬるんでいる道をキャンパススニーカーで蹴り微かな飛沫をとばし湿気の匂いと石を叩く様な不快な音が耳に付いた。街路の側に並べて植えた並木の枝がいつの間にか切られてひどく小さく見えた。かれはビニール袋に入った魚肉ソーセージとピルクルのことを考えた。

どうしてここにいて、何をしているのだろうか。風がかれの乾いた目に入り瞼を少し瞑ると視界が霞んできてしまい古びた傷だらけのモノクロ映画を観ているような気分になった。右手を鼻の前に伸ばすと生魚かその内臓みたいな匂いがした。ビニール袋を右手に移り左手を嗅いでみると似たような匂いだった。匂いは繁華街の裏路地で二万円で売られている娼婦の性器のように奇妙に濡れていて乾いていた。風が強く生ぬるくなるのを感じ雨がまた降り出すのを感じた。それまで静まり返っていた町で雨が細かくアスファルトに打ち付ける音が太鼓を叩く音のように聞こえた。モノクロ映画に音が足された。



 暗く湿る鍾乳洞を奥へと進む我々の前に、突然回転扉が現れた。手をかけるとくるりと中に。天井が低い。明かりを巡らせすぐに理解した。どうやらひっくり返った百貨店らしかった。我々のすぐ上にある天井の床には逆さまに什器がずらりと奥まで並ぶ。ショーケースの天板ガラスに乱れる宝飾品がライトの光に美しく反応する。什器に引っ掛かり垂れ下がる衣類、かろうじてコードでぶら下がるレジスターが闇の中無気味に照らされる。足元は危なくも断崖絶壁。吹き抜けのホールが下の3階まである。床の天井は落ちたものでごみ捨て場さながら。なぜ、と私と探偵が顔を見合わせ赤くなったところで、階下の闇から音が。
「∩∀∩∀∀∀∀……」
 低くこもる無気味な響き。我々はロープで用心深く1階から3階天井部分まで下りた。すると、多数のマネキンが天井のボードを突き破り犬神家の一族状態。声の主は人間で、やはり犬神家状態。着衣から我々が追っていた容疑者だと分かる。助けようとして、ぐばん。探偵も天井を踏み抜き身動きが取れない状態に。恋していた私は涙をこらえてほほ笑みさよならを言った後ロープを登る。レジスターのように首を吊るのだ。探偵は私を止められない。



カタカタカタカタ、カチッ
カタカタ、

「……?」

カタカタ、カチッ
カタカタカタ……

ぽたり



 お問い合わせありがとうございます。カスタマーセンターの小泉と申します。

 ご購入いただきました製品からノイズが聞こえるとのことですが、説明書にございますとおり、これは異常ではございません。

 ヘッドフォンHo−ichi1904モデルは、琵琶ミュージシャン・Ho−ichi氏が愛用しているものと同型のものでございます。
 こちらの製品の特徴といたしまして、ライブの臨場感がご自宅でも得られる、ということがございます。近くにいる霊からの声援がヘッドフォンを通して聞こえる、という仕組みでございます。

 とはいえ、怨霊のような害のある霊はそうはおりませんので、憑かれたり呪い殺されたりすることはほとんどございません。ご安心ください。
 どうしてもお気になられるようでしたら、ご自宅のお祓い等のご紹介もいたします。

 今後とも当社製品をご愛顧いただけますようお願い申し上げます。


  (株)音響機器kwaidan



何の音だ? 車の音ですよ。会社に行くんです。
 何の音だ? タイムカードです。これから仕事ですよ。
 何の音だ? 朝礼で課長に怒鳴られました。月末なのに営業実績が予算の半分もいってないんです。
 何の音だ? お昼ですよ。かけそばすすってます。
 何の音だ? お客様に届けるはずの不良交換用の商品を落としてしまいました。
 何の音だ? 終業のベルです。でも帰られません。今日も実績ゼロだし、大きなクレームもつくってしまいました。課長にこれからたっぷりしぼられます。
 何の音だ? うねるような山道を登っています。カーブでタイヤがないてるんです。
 何の音だ? 幾重にも覆いかぶさる枝葉の中を泳ぐように進んでいます。
 何の音だ? やっと足がかかりました。一番頑丈そうな太い枝も手の届く所にあります。 
 何の音だ? ロープを枝にくくりつけています。これだけ頑丈な枝なら折れたりすることはないでしょう。
 何の音だ? 苦しむのは数秒です。今までありがとうございました。さようなら。 
 
 事はあっけなく終わった。これで変な声に悩まされずにすむだろう。俺はまた枝葉の海を泳ぐように戻り、そして車に乗り込み、うねるような山道を下りはじめた。

 何の音だ? ハンドル操作を誤まりました。カーブを曲がりきれずにそのまま谷底へ。   



 志の果てに剣折れ、彼は終に斃れる。
 瞳は霞む蒼穹を映す。血煙の野卑な臭いも、兵の濁った絶叫も、彼にはもう届かない。

 ただ、ひどく懐かしい音が聞こえた。

 守るためだと、救うためだと信じ、置き去りにしたもの。
 本当に大切だからこそ、己から切り離したもの。

 心は擦り切れ、その意味すら忘却してしまった。
 しかしそれでも覚えている音。



「何の音だ?」

 掠れた声で、そっと呟く。

『汐の音』

 彼女の穏やかな声が聞こえる。

『いつしか生まれ、やがて還る。そんな場所の音』



 彼の肉体は地に還り、彼の魂は天へと還る。
 しかしその想いは故郷の音に導かれ、やがて愛しき者の元に帰る。



キュイ〜ン、ドスドス……ブハッ、グワッグワッグワッ、ゴボッ!
彼女が奥の部屋に入ってから、しきりに聞こえる意味不明の音。
「何の音だ?」
「今、手料理作っているのよ、待っててね」
顔を見せずに返事をする彼女の語尾にはハートの文字が見えた。
「そっか、料理なんだ……」
しばらくすると、ヒュルルルルル、ババーン!という爆破音と共に、
パオォォォ……ン、ムメエェェェェェ……
獣みたいな音が響いた。
新聞を持つ手が嫌な汗をかいているのを感じる。
そして今は、アチョォォォォ!ハァァァァァァァァ!!!
という声が聞こえている。

何だか泣きたくなってきた。



 こけこっこぅ。こっこっこっこっ。
 がしゃん。ばさん。
 がちゃり。しゃーじょろじょろじょろ。しゅーごごごご。がちゃり。きゅきゅっしゃー。きゅきゅっ。
 ばむ。きゅっこん。とっとっとっとっ。きゅっ。ばむ。
 びっ。がさがさがさ。
 しゃくしゃくくっくっっくっくっ。こつん。
 がさがさばさん。
 きゅきゅっしゃー。
 かちゃかちゃ。しゃこしゃこしゃこしゃこ。しゃー。がらがらがらぺっ。
 ぱこん。じっじっじっ。ばしゃばしゃばしゃ。
 きゅきゅっ。
 がちゃり。わさわさしゅるしゅる。がちゃり。
 とんとんとん。がさかさがさ。
 がちゃん。ぎいいいっ。ばたん。
 ……。
 ……かさかさ、しゅるしゅるしゅる。ぎぎぎぎぎぎぎ。
 ずるずる。ずるずる。ずるずる。びちっ。
 どんどん。
 すいませぇん。回覧板でぇす。あれ?
 ぎいっ。すいませぇん。誰かいませ……ひっ。何これ。た、助け
 ぐしゃり。ばりごりばりごりじゅるじゅるくちゃくちゃ。ずるずるずるずる。
 ……。
 ……。
 ……。
 こつんこつんこつんこつん。
 じゃらじゃらじゃらじゃっ。かちん。じゃっ。がちゃどん。
 やべ。鍵閉め忘れた。
 じゃかちっ。じゃっ。がちゃ。ぎいいいっ。
 なにこのシミ。



ふー。ふー。ふーー、ひょろ ひょろ ひょろ ひょろ、ろ ろ、ろろ るる、るる るる、るうううううううんんん  んん   ん・ど・ど・ど・どぅば! ば! ば! ば! ば! ばぁぁっっっ! ばばっぁっっ! ががっ! が ↑ が ↓ が ↑ が ↓ がぁっ〜 ががぁぁっ〜 ざざっっっ? ざ? ざ? ざ? ざつ? つ。つん。ん。ん。ん。ん。ん。どぅぅぅん、ん、ん「ん」ん「んん」ん……………………ことり、こと。こと。ことり。こと。……ひた。ひた? うん、ひた。ひたひた、と。ひたひた、と。え? ひた。ずる。ずる? うん、ずる。ずるずる、と。ずるずる、と。え? ひた、ずる、ひた、ずる。がしっ! びく。ぶるぶるぶる。きゃー!! がたがたがた。



 白と黒との境界に、一本の弦を張る。中心の一点において交わるようにして、次は静と動との境界に弦を張る。つづけて明と暗との境界に弦を、呼と吸との境界、善と悪との、貧と富との、往と来、恋と愛、愛と情、陰と陽、躁と鬱、肯と否、火と炎、悲と哀、功と罪、罪と罰、強と弱、虚と実……延々と繰り返し、ついにはひとつの球体が境弦によって形づくられる。その球は完全でなくてもよい、むしろ歪の方がさも自然と映る。弦の一本を無作為にえらび、つよく弾いてみる。えらんだのは一本でも、交わる一点から全体に伝播し響きわたるのを聴くだろう。その和音をまずはおぼえておく。なお、調律は必要ない(境界は常にゆらいでいる)。
 今目の前にある球体を、今度は掌におさめられるまでに圧縮する。些程むずかしいことではない、つまみを絞る要領である。そうしてそれをじかに手にとり、じかに胸にあて、掌中から胸中へと送り込む。これにより球体は、代謝と共にビートとの融合を果たし、刻々と脈うちながら流転する。その弦上をすべり、また爪弾くのは今しの去来である。
 さあ奏でよ。あるいは協奏へと。至上の和音と結ぶか否かは定かでないが、何、不協もまた一興。



聞こえないの?はっと見開いた目に抑えきれずにじむ憐れみ、口元には微かな優越感。
かつての恋人と瓜二つの息子の表情に、当時感じていた違和感がよみがえる。
聞こえないの?お父さん。
そう言われれば通勤時の横断歩道、慌しいデスク、夕闇に沈む満員電車の中、たまの家族団欒の席、誰も彼もが一様に何かに耳をすましているように思える瞬間があった。彼らの瞳にはしる畏れと恍惚。この街の人間には確かに聞こえているそれ。
以来、家族から、友人から、すれ違う人々から、漏れ聞こえてくる比喩の断片を蒐集することが習い性となった。
——老婆の空咳の間にひそむ。冬の月が、凍った庭木を撫でる色に似て。鉄線の花が燃えるときの温度。夏と秋のあわいに流れる水の匂いのような。熟しきらない桃を食べた幼子の肌を思わせる——
肝心の部分を残しておぼろげに浮かぶ輪郭に手を伸ばし、思い焦がれる。聞けないとなるとなおのこと聞きたい。だが聞こえない。
夜の間に、送電線を伝ってくるのよ。それは。
妻の寝言を隣に、いつまで経っても自分だけがよそ者だ。



 ザッ、ザッ、ザッとシャベルが小気味良い音をたて、リズミカルに土を掘っていく。呼吸音は段々と激しくなっていったが、土を掘る音が止まると徐々に落ち着きを取り戻していった。
それを穴に投げ入れると、肉を打つ鈍い音と共に木の枝を折ったような音が聞こえた。肋骨でも折れたのだろう。
 雨が林の木々の葉を叩く音が大きくなっている。どうやら雨足が強くなってきたようだ。
 急いで土をかけはじめる。ドサ、ビチャッと再びリズミカルな音が始まった。「フゥー」とため息をつく音が以外に響く。
やがてシャベルを引きずるガリガリという音と、グチャ、グチャと泥道を歩く音が遠ざかって行く。
 
……遠くから耳障りな音が聞こえて来る。パトカーのサイレンみたいな音。あれは一体何の音だ?



『ジャララララララン』
 ちょうど行き詰まったとこだし、ヤな予感はしてたけど。
『問題。タン タン タ〜ラタララン タン タン タ〜ラタララン』
 ジェンカ?
『合ってるけどブー。これ坂本九唄ってるから』
 なことより、仕事中なんだから静かにして欲しいんですけど。
『では続きを。タン タン タ〜ラタララン タラララ〜ラララランランラン』
 あ〜んと・・・タン タンだから・・・レット・キス?
『ピンポーン!正解。では、またいつか』
 ここ数年、頭使ってる時なんかに突然変なジングルが流れ、謎な脳内DJが妙な調子の鼻歌でイントロドンする。アニソンからキリンの鳴き声まで、出題範囲は無駄に広範囲で、正解するまで永遠鼻歌を聞かされるのだ。拷問にもほどがある。
 今回みたいのは簡単な方で、一番ヒドかったのは『フスー ットン』だったかな?札幌市営地下鉄南北線のドアが閉まる音。なの、修学旅行で一度乗ったきりだっての!どんだけノイローゼなんだ?わたしは。って、自分事ながらよく解ったなぁ・・・
『ジャララララララン』
 連荘?もしかして今必死で思い出そうと頭使ってたとか!?モノローグだったじゃん!ズルいって!
『問題。トントントン』



時折聞こえてくるものがある。記憶の底から研ぎ出された、石のかけらのような。風の流れの向こうに、微かに揺れる何か。
知っているようで、たぶんまだ知らず、近いかと思えばそうではなく。ただ一陣のつむじ風が連れてきた、あっという間のひずんだ音。
つかまえようとすればするほど、遠ざかる逃げ水。夏の日、溶けかかるアスファルト上に揺らめく陽炎。
アハハアハハと、笑いながら去った夢の中のピエロ。
耳もとを一瞬くすぐり、すぐに消えてしまう昼下がりの蝉の声にも似た。
稲妻に先導される間の抜けた遠雷の後に、吐き捨てるように投げた別れの言葉?
いやいやそんなありていな台詞でもつぶやきでもなく。
コーヒーの湯気の向こうを走る、青い車がひきずるエンジン音か。
時折わたしを悩ませる音は、愛なく、情緒なく、醒めていて無機的で、懐かしくても涙するには至らぬ、夜明けの鳥の声を想わせ、・・・。



 雨音に混じってびたびたぼとぼとと屋根に何かが当たるような物音が聞こえてきた。二階の窓から顔を出してみると、雨蛙が屋根一面をうめる程貼り付いていた。
「お騒がせして申し訳ありません。次の演奏会場に向かうところだったのですが、雲読みが代替わりしたばかりでして、誤って薄い雲に乗ってしまいました」
 ころころとした声で一匹が、三つ指ついて挨拶をした。
「すぐに立ち去りますゆえ」
 声を揃えて歌われた「雲呼びの歌」は確かに見事だった。

 夕風を入れようと窓を開けている途中、ばしゃんがしゃんと屋根に何かが派手にぶつかったような物音が聞こえた。今度はなんだと二階に駆け上がると、風見鶏が十個ほど屋根の上に立っていた。
「申し訳無い。風見鶏決起集会に向かう途中だったのだが、風邪をひいている者がいて風乗りが途切れてしまった。失礼、すぐ去る」
 金属の喉から発せられた「風の歌」は屋根全体を共鳴させた。近所迷惑だと隣りのおばさんから怒鳴られた。

 夕立が激しく屋根を叩く中、どばーんと物凄い音がした。衝撃でコーヒーがこぼれた。
 それからずっとごろごろどろどろと太鼓のような音が屋根の上からしているのだが、見に行く勇気を持てずにいる。



 俺は知らない。妻がなぜ殺されなければならなかったのか。
 逮捕された男は裁判では一転、殺意を否認した。黙らせようとして口を塞いだところ、指を食いちぎられたので、かっとなって殴りつけたのだと。
 妻の顔は見る影もなく変形していた。顔中血だらけでだったが、噛みちぎった男の指を、妻はしっかり呑み込んでいた。犯人が逮捕されたのはその指紋のおかげだった。
 俺が家に帰った時聞いた雨だれのような断続音は、テーブルの上に仰向けになった遺体から流れた血が床に滴る音だった。妻の血はまだ温かかった。
 その音が耳について離れない。
 俺は傍聴席で耳を澄ませた。聞こえる。
 俺の心臓が脈打つ音だ。裁判官も、傍聴席の記者も、弁護士も、やつも、まだ生きている。妻は死んでもういない。
 五年後、俺は出所した男の後を追った。暗がりで拳銃を突きつけ、
「お久しぶり」
 俺はやつの顔をつかみ、口に指を突っ込んで、言った。
「さあ、食いちぎれよ」
 その時のやつの顔ったら。
「だいじょうぶ。消化する前に、殺してやるさ」
 殺人罪で逮捕された俺は被告人席で、また耳を澄ませた。
 俺の心臓が脈打つ音。弁護士の、検察の、その他大勢の。だがやつのは聞こえない。
 俺は殺意を認めた。



 スクリーンには、萎れていく妻に悪戦苦闘する薄幸そうな男の姿が、映し出されていた。この映画は、ゴムで出来たインスタントワイフが普及した近未来の世界が舞台なのだそうだ。内容は初めての妻に浮かれていた主人公が、ちょっとした衝撃ですぐに穴が空いてしまう妻に憂悶するコメディものである。
 暗い館内で漏れる笑いが下卑たものに思えてくる。この映画のどこが面白いのか、俺には皆目理解できない。下らない。行動の一つ一つが俺の感情を逆撫でる材料となっている。
 シュコオオオォオオオオオ
 何かが漏れる音がする。何の音だ。気にはなるが、映画が腹立たしくてそれどころじゃない。何故こんな場所に足を運んだのか。今朝、妻と喧嘩した。妻は俺をインスタントの癖にと野次った。俺はついかっとなり、妻をナイフでメッタ刺しにしたのだった。その際の揉み合いの時からこの音が聞こえていた気がする。まあ、深く考える必要はないだろう。つまらない映画もほとほと見飽きた。睡魔に襲われ、瞼が重い。何もかもがどうでもいい事だ。俺は静かに目を閉じた。



瞳を持たぬものが沈黙(やみ)の中にうずくまっている。複雑な物想いに耽っている。思考に沈潜するときには、通奏音としてのみずからの代謝音は遠景に退いてゆき、内面は静寂に澄み渡る。
一瞬の、鋭い擦過音。
かれは知覚器官をもたげる。
もたげきらぬうちに、遅れて雷鳴が訪れる。棘だらけの痺れのように。
そして、雷鳴に先んじてかれの「鼓膜」に触れたものは、雷光の光子であったことを知らせる。



 何と読むのかは判らない英語の綴られたブリキ罐にはクッキーが這入っている。アーモンドとチョコレートと二種類の。ママは上手にごまかしているつもりみたいだけど僕はちゃんと知っていて、ときどき棚から引っ張りだしてきてこっそり食べる。見咎められないよう押入れに隠れて、ブリキ罐を立てた膝と胸のあいだに載せる。読み方の判らない英語の綴りを指の腹で撫でてみると冷たい。音が響くと見つかってしまうから口のなかで唾液と混ぜて少し湿らせてから咀嚼する。甘くておいしい。ママは洗濯物を干している。ブリキ罐からもう一枚クッキーを取りだす。
 ふいに跫音。
 部屋のなかで声が入り乱れるひとつはママのものだと判る衣擦れ何かが落下する悲鳴血腥いようなにおい違う甘い? それから。
 押入れを開けて部屋のなかの様子を窺ってみたいけど、こんなところに隠れていることが知れたらきっとママに叱られる。口のなかで唾液を含みすぎたクッキーがぐずぐずになっている。



ただひたすらに蹲って、世界が終わるのを待っていた。

土と血と汗と涙とその他色々雑多なものに塗れながら、銃弾の雨の中を走り続けることに私はもう疲れたのだ。重たそうな皮のブーツを履いた敵に見つかったが最後、ズドンと一発、確実に脳天を撃ちぬかれたとしてもかまわない。そう思えるほどに。

深く、荒く呼吸するごとに、埃が肺を塞ぎ、体内の空気が膨張していく。どくんどくんと頭の中に響く鼓動の狭間で、早く世界が終わればいいのに。それだけをただひたすらと思い続けていた。青くて大きな怪物が、全て喰らい尽くしてしまえばいいのに。

銃弾の雨は降り注ぐ。何か大きな力が、容赦なく私を穿つ。響き渡る悲鳴。そのむこうで、空が割れた。



 二人が小振りの鍋を囲んでいた時でした。最後の大根を挟んだ男の箸がぴたと止まり、その右目が微かに釣り上がりました。女はちょっと気配を探る様子をして
 暖かくなって出てきたのかしら、硼酸団子を作りますね、
 と言いました。

 音もなく雨が降り、じめじめとしたその夜のメニューはハンバーグです。付け合せの人参に向かっていた箸がふいに止まり、男は首を捻ってあらぬ方を見ました。女は一つ頷いて
 鼠捕りを置いておきましたから、じきに掛かりますよ、
 と言いました。

 夜更かしの蝉が鳴いていて、茄子カレーもサラダもあらかた食べられた頃です。くぐもった
 みゃあ。
 男は顔をしかめて溜息をつきました。女はにこりとして
 のらの子が入り込んだらしくて。明日、昼寝している時にでも捕まえますから、
 と言いました。

 十月の中頃です。もうお腹も満たされて、お茶の時間でした。ところが、何かが這うような音がします。
 男がじっと見つめた襖の向こうへ女はさっと下がると、すぐにまた出てきました。
 おい、
 立ち上がった拍子、男の椅子が後ろにばったんと倒れました。その大きな音に、女の胸に抱かれた子供がおぎゃあおぎゃあと泣き出しました。



 家の奥から問う声に、猫ですよ、と応えて窓を閉める。ガラスの向こう、人の瞳をした猫は、鈴の音を残し闇へ消えた。
 叔母と左手を一度に失って以来、寝たきりになった叔父は、このところとみに表の物音に敏感だ。請われるまま見に行く度に、僕は庭で奇妙な生き物を目にした。
 髪の生えたカエルであったり、人の乳房を持った犬であったり、それらは必ず体のどこかに人の部位を持っていて、すぐにどこかへ消えてしまう。
 あれはきっと叔母の体だ。叔母は叔父と手を繋いだまま千々に吹き飛び、かき集められた肉片は、もとの体の半分もなかった。
 不思議と気味が悪いとは感じなかったが、叔父が眠っている間は、僕は外の物音を故意に無視し、誰にもそのことを言わなかった。
 ある日、いつものように庭を見ると、ちいさな少女が立っていた。なにか用かと問う前に、ぬっと手を差し出す。手首から先は明らかに大人の男性のそれで、金属の塊が乗っていた。歪み絡んだ二つの輪は叔母と叔父の結婚指輪に相違ない。
 どこかで何かが爆ぜる音がした。叔父が焦れたように僕を呼ぶ。少女は姿を消す様子もなく俺を見上げている。
 叔母さんですよ、とでも言えばいいのか?



 さっき急いで食べた料理をよく咀嚼しなかったのが悪かったらしい。おかげで困ったことに、腹の内側に居ついた何かがノックをし始める。異物というよりも居候のようなイメージをもったままそれは、ノックを続けながら、おれの体内を移動し始める。消化器系のなかでおとなしく溶けていってくれれればいいものを。血管に移動するとか、小さすぎる。そんな微小物のくせにどんな方法でノックをしているのか。小さなノックの音は今度は背筋をはい上がっていく。まだ進むのか? ちょっと待て。そこから先は—— ノックの音はそのまま脳内へと突入した。途端、がんがん割れるような頭痛に変わる。おれはのたうちまわる。やつはおれのパニックに気づいているのかいないのか、死に値するかのノックを断続的に続ける。もうおれはふらふらだ。小康状態のあいだはただただ救いを希い、次にはノックの乱打だ。わかった、今度からはひとくちにつき百回は噛むことにする。それでいいだろ。だからそこから出ていってくれ。すると、ぴゅーとキレイな細い円弧を描いて、後頭部から血液があふれた。ああ、同じ出ていくなら排泄器官からにしてくれればいいのに。おれの人生なんてこんなもんだ。



隣の部屋で宮沢賢治とみさくらなんこつが罵り合ってるみたい。



…しかし彼らが聴くのは、可聴域外の超低周波音の上に積み重なった倍音成分のみである。つまり、彼らはその音が何であるかを捉えたと思っても、結局その音を捉えてはいない。ただ、違うものとして、たとえば胸騒ぎや吐き気、目眩、あるいは遠い日の曖昧な思い出や繰り返し訪れる悔恨、静かな情熱など、浮かび上がっては消えるそれらの押型として、それは感知される。



 浦島太郎は、つとめて気にしないようにしていた。
 文庫本ほどの大きさの小さな箱は、一昨日、彼女からプレゼントされたもので、一昼夜騒ぎ明かした竜宮城で家に帰ると申し出ると、うやうやしく手渡されたものだった。来た時と同じように、浜辺で子供たちにつつかれていたウミガメの背に乗って帰った。
 その時もらった箱の中で音がするのだ。
 乙姫は、決してこの箱を開けるなと言う。
 音は、決して気忙しく鳴っているわけではない。遠慮がちに、コ、コト。しばらく間を置いてまた、コトト、ト。一日中そんな調子である。
 最初は、あまり気にならなかった。しかし、その遠慮がちな音は未だに鳴り止む気配がない。もしかして、何か生き物が閉じ込められているのだろうか。
 動物好きの太郎としては、もしそうなら放っておけない。
 しかし、乙姫は開けてはいけないと言った。
 箱の前に正座して、箱の中央に掛けられた品の良い紐をほどくべきか否か、太郎は真剣に悩んでいる。
 コト、ト。

 何の音だ。



 もうすぐパレードがやってくる時間だ。
 古い建物のてっぺんにある時計の大きな振り子が催眠術をかけるみたいに揺れている下で、並んだ屋台の売り手が道ゆく人々を呼び込む威勢のいい声があちこちから飛び、綿菓子を持った子どもがもう片方の手にコンペイトウいっぱいの袋をぶらさげている様子は小さな頃描いた夢のよう、むこうでは通行止めされた通りをよけて色々な車が右へ左へわかれていってオモチャみたいだ。
 しかしまあ楽しみにしていてすごく愉快なはずなのにどうにも気分が乗り切れないのはどういうわけか、生きている気がしない、なんていい年した男が思春期でもあるまいし、今朝、頭をぶつけてから調子がおかしい。あのときはホント、目の前がざらざらした。
 おーい、とあっちから呑み友達が手を振るので返そうとしたら脳味噌の中の電気信号がうまく送れずへんなふうに足がねじれまたも派手にころんでガツン、ちょうど三時の鐘が鳴り響くけれどふたたび目の前がざらざらする。
 あれ、ざらざらが、しろーくなって、
「あ、こりゃあいかん。」
 のような言葉が外から聞こえた気がしたが、まっしろなんにもない部屋にピーヒョロパッパラ、ブンシャカブンシャカ。
 ピ、ポピ、パ、ぺしゃん



「何の音だ」ということは音について書かなければいけないということです。いえ、始めに結論を出すのはいけません。狭い世界でしかものを考えられない、従順な発想しかできない僕は、僕の一番嫌う、僕の平凡な所を簡単には直せないというところを自覚しています。とにかく今現在僕の部屋ではラジオが流れています。それだけです。この前までは線路沿いに住んでいたので、だから時々、僕の耳は勝手に電車のガタンゴトンという音を作り出します。けれども別に困りません。ちょっと前までいた所を思い出すだけです。ですが断じて望郷の念ではありません。僕はどちらかというと故郷に愛着を感じないタイプの人間です。新興住宅地に育ったからなのかもしれません。それにしてもDJの声って、あたかも自分が完璧であるかのようにどうしてこんなにも明るいんでしょう!しかし僕に批判する権利なんてありません。彼らは彼らの義務に忠実に従っているだけです。実に素晴らしいことです。そろそろ電車が通ります。僕はやっぱりどうにかしてそれらとうまくやっていくしかないのです。積極的な断念は負けではありません。何の音だと問われれば、僕は僕の勝ちだと答えます。



 夕焼け茜空の雑踏を歩いていると周囲の景色が加速的に色褪せ、比例して人々の動きが鈍くなる。くたびれたサラリーマンが、
「会社に戻リ……マ……」
 一切が既に灰色。人も風も雲も流れない。
 彼方の一番星が瞬くことを忘れ、コトリと地表に落ち転がってくる。僕はビー玉みたいな一番星を拾い、しげしげ眺めていた。
 そのときだ。
 ギイイイイ、とぜんまいを巻くような音がしていびつな鳥が現れた。あんな捩れた体躯でどうして飛べるのだろう。鳥は頭上をゆっくりと旋回し、ギイイイイ、ひどく耳障りな声で鳴いた。
 鳥が世界のぜんまいを一つ巻くたびに、空を埋め尽くす透明な歯車やシャフトが、ぎし、と軋む。微かに揺らぐ陰影。迫る雲や周囲の人々がぴくりと胎動を繰り返し、僕もまたそうだった。手や歯に仕込まれた精緻な仕組みがかちりと噛み合う振動。駆動するナノの歯車、機械仕掛けの思考。
 ぜんまいを目一杯巻くとねじまき鳥は去った。間もなく辺りは元通りになる。
「……せん、もう一件行ってきます!」
 心なしか何もかもが溌剌としている。

 翌朝、ニュースで金星が消失したと聞いた。ビー玉みたいな金色の一番星とテレビを交互に見比べ、慌てて空に投げ返す。



 「ふぅ」と最後の猫が唸る。痩せたキサキは目を瞑ったままだ。
 眠巫を連れ戻すのは、ある種の「ふぅ」という音なのは禁書を読んで分かった。けど、それがどんな「ふぅ」なのかは分からない。眠巫から還俗した者など皆無なんだ。
 「必ず起こしてね」。
 民籤を引き当てて眠巫になる間際、キサキは確かに僕にこう言った。ただの笛吹きにすぎない僕に。だから絶対諦めないって、その時誓ったんだ。
 現存する全ての管楽器、ありとあらゆる風、老若男女の吐息、沸く湯、えれき仕掛…僕はそうしたもの達の「ふぅ」を片っ端から採取して聞かせてきていた。そうして今しがた、“獣の出す音”についても試し尽くした。もう、なんの「ふぅ」も思い出せない。
 全て擲ってきた僕のことが、いま初めて馬鹿に思えた。誓いなど忘れてしまおうか。彼女の寝台の脇に腰掛けて息をついた。
 「起きたよ」。
 そうか、なんて残酷な理。諦めなければ叶わないなんて。だけど彼女は抱きしめてきて、「それすらも手立てだったのだから」。
 勝敗の分からぬまま、僕たちは求め合う。キサキの唇から「ふぅ」と吐息が漏れる。僕も漏れてしまう。キサキは起きている。キサキが動いている。



「ズボンどっか行った!」
 めまいがした。なるほどズボンはなかった。夜だったこと、トランクスが残っていて、それが大きめで紺地に灰色のチェックだったことが幸いした。
 俺はでかいシャツをだらっと腰に巻くのが好きで、清水が普段「スカート! 腰巻! インディアン!」とうるさいこれを貸してやるのは本当に嫌だった。
 ダイブばっかりするのがいけないのだ。背中や首への飛び降りあいっこには、俺は一度でこりた。少し後ろで、似たような奴らとはねたり、たまに声を出したり、しゃがんだり、座ったりしている方がずっといい。ずっと肺に音がたまる。
 清水にはシャツはでかすぎた。ひょろひょろのすねとすね毛とが腰巻からのぞいた。
 たん、たかたか、たかたか、たんたん。
 さっきからそのリズムで、清水は飛んだり跳ねたりつまずいたり垣根につっこんだりしている。静かな夜にそればかり響く。がさがさ。
「何聴いてんの」
「ドラム」
 それはどういうお返事? 俺は清水を捕獲して肺の後ろに耳をくっつけた。
 清水が叫んでかき消した。
「たん、たかたか、たかたか、まーま」
「ボーカルじゃん」
 たん、たかたか、たかたか、ぱーぱ。

「俺のズボン、誰がはいてんだろ」
「はいてねえよ」