500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第115回:その掌には


短さは蝶だ。短さは未来だ。

 その掌には1

 日曜日、目が覚めたがボーっと掌を上げて見ていた。左手の右中央辺りに茶色の点が薄く見えている。「なんだろう」と爪で引っ掻いてみたが取れない。「起きなさい」と母の声が聞こえた。「えいやー」と起き上がり、母がいる台所へ朝食を食べに行った。途中、なんとなく掌を見ていると、最初の茶色の点が濃くなっているように見える。その周りにも、薄く点が出てきた。確実に増えている。母に見せたが「何も見えないわよ。洗ってみれば」と言われた。手を洗ってみたが、最初の茶色の点は消えなかった。
 部屋へ戻って、机の引き出しの中をガサゴソ。あった、虫眼鏡。掌をじっと見ると、小さな集落が出来ていた。洪水にあった後みたいだ。僕は、さっき手を洗ったのを後悔した。
 それからは気になって宿題も出来ないから、僕は掌を見ていた。集落は面積を増やしながらどんどん成長し、現代のような町が出来てきた。僕は「不気味だな」と思いながらも見続けていたかったが、不覚にも眠ってしまった。「しまった」と思い掌を見ると、もう何もない、いつもの僕の掌に戻っていた。世界の終わりが気になるな。



 その掌には2

 この街の雪は夏に降る。
 僕と彼女は二人、小さな公園のベンチに座っていた。彼女にとって今はこの街に来て初めての夏だった。空から綿毛のようにふわふわと降りる粉雪を見た彼女は目を丸くし、首を二三度横に振り、やがて納得したように微笑みを見せた。
「愉快だわ。本当、愉快」
 彼女は言って、おもむろに立ち上がった。
 純白のワンピース、大きな麦わら帽子。
 彼女は僕の前でくるくると回り始めた。粉雪の舞う中、ワンピース姿で踊る彼女。そんな光景は幻想的で、端的に言って、彼女はとても可憐だった。
「お姫様、いかがでしょう」僕は冗談交じりに言う。「私と一緒にダンスでも」
 すると彼女は少し恥ずかしそうにしながら、偉ぶって胸を張った。
「うむ。近う寄れ」
 そして僕らは手に手を取る。



 その掌には3

 七月にしては涼しい夕方だったからか、机に伏して寝てしまっていた。
 目が覚めると、右手に雪が降っている。球形に切り取られた冬であるかのように雪が降るばかりである。ひんやりと冷たい球を見つめる。透明な輪郭を雪が通過していく。雪の中になにかが映っているのを見つけ、窓の結露に私は気づかない。球に映るものと目が合う。雪は音を立てずに降る。雪の降りしきる中に私が映っている。球の中の私もまた、掌に球を乗せている。
 雪の降りしきる中に立っている。空に映るものがある。



 その掌には4

 指先の丸みがジェットコースターの山頂。爪の輝きがピンクの宝石。浮いた血管が命のしっぽ。骨の尖りが白い花。指の股が従順な肉。なぞる皺が解けない難問。それから不図、私は私のことを思い出してしまった。寝室の灯りを間違ってつけてしまったみたいに。今ならまだ夢の続き見られる予感がある。
 私の鼻であなたの掌を磨く。両手と上唇と下唇が、あなたの掌を挟みこむ。感じたい。私にはあなたの顔が見えないから、あなたの掌が照れているのがよく分かる。



 その掌には5



 運命なんてありません。
 宛名も切手もありません。
 どこへも届けられません。
 けれども丸めてしまいません。

 ケサランパサラン羽を休めに降りてくるやもしれません。




 ツウカアなツガイをおもわします。

 右はあねさん、おわします。
 左はあにさん、おわします。
 互い、ぴったりあわします。
 舌をふるわし、うたいます。
 口にサオさす、ハラふくらます。
 穴ぐらの中、うるおします。




 器にうかぶお月さま。



 その掌には6

 その掌には何もないのである。あまりのことに私はかじりかけのらっきょうを思わずのみこんでしまった。にぎりしめた写真が消えたのだ。ゴリラは手をひらひらさせながら野菜カレーの素揚げされた茄子なんか口にはこぶのであった。わたしはひよこ豆のカレー、とてもおいしい。
 ゴリラは手品が上手なんである。それは前から知ってる。わたしが落ち込んでいるといつも一緒にいてくれて、手品で元気づけてくれていたのだ。だから今日も一緒にいてくれている。
 シャルトリューズは八角の香りがするとか、シェイクスピアはセリフを喋っている人物に重きがおかれているのに対しチェーホフは黙っている人物が重要なのだとかゴリラは話した。バニー・マニロウとレディオヘッドの魅力をわたしはまくしたてた。そういうたわいもないことをあえて語りあったのだった。
 帰りぎわ、がま口の小銭と格闘しているうちにゴリラが会計をすませてしまった。あらら。ごちそうさま。店を出て礼をいうとゴリラはウィンクする。そしてにぎった手をわたしの目の前にさしだす。今度は何か出てくるんかとじっとながめていたらば、ゆっくり指がひらかれてゆく。
 その掌には何もないのである。あっけにとられているとゴリラはうしろを指さす。振りかえると、お父さん。崩れ落ちそうになるわたしをゴリラが毛むくじゃらの太い腕でささえてくれる。



 その掌には7

「とつきとおか」の間、ずっと離さずにいてください。
 そう言われてから、今日で最後になる。長いこと握ったままだから、うまくひらけるか心配だ。ほぐすように力を入れて、抜いて、掌にある感触を確かめる。
 君がどんなところにいるか分からないし、どうにも僕ひとりでは辿り着けそうにないから、案内してくれる人を探すのに苦労した。
 こぶしを耳に近づけて、小さく振ると、ころんころんと鳴る。
 その人はまるで手品師のようで、言われるまま机の上に握りこぶしを作った僕に、手をかざして言ったのだ。
 このまま、「とつきとおか」の間、ずっと離さずにいてください。
 いつのまにか掌に小さく丸く冷たい感触があって、魂を宿らせるのにはそれくらいの時間かかるのです、と付け加えられた。
 明日は君に会えるだろうか。
 友人にはもう忘れろと言われるけれど、僕にとって君がいなくなったことは少し大袈裟な遠距離恋愛みたいなもので、そうもいかない。
 これが、いつか僕がちゃんと君の傍にいくときの目印になるのだろうか。
 明日になればわかることだ。
 耳元でまた、ころんと鳴らす。
 もう一度、ころんと鳴らす。



 その掌には8

 最後の朝、君は窓に息を吹きかけていた。そしてそこに、僕の苗字になっている自分の名前を指で書いていた。僕は、その背中を抱きしめたかった。でも、できなかった。だから、君のいれてくれたコーヒーをもう一杯だけ飲んだ。
 実家に荷物を送って、住所変更の手続きをしているうちに、陽が傾き始めた。二人で役所に行って籍を抜き、山頂へ向かうロープウェイに乗った。一緒になった頃はお金がなくて、式も挙げていなかったから、せめて最後くらいは、初めてのデートで行ったレストランで、お別れのパーティーをしようと決めていた。
 黄昏の山頂に着いた時、レストランはずいぶん前につぶれていて、がらんとした建物の中が自動販売機とベンチだけになっていることに驚いた。
 君の好きなジンジャエールで乾杯。
 毎日がたのしくておかしくてうれしくて、ままごと遊びのようだった君との日々。僕たちのままごと遊びが、今終わろうとしていた。
「街灯り指でたどるの、夕闇に染まるガラスに」
 あの日店内に流れていた「スカイレストラン」を君が口ずさむ。僕の掌の中には、君から返された指輪が入っている。いくら握り締めても、ひんやりと冷たいまま。
 せめて、君が歌い終わるまで。



 その掌には9

 生まれたての星が二つ、三つと瞬いている。



 その掌には10

 未来がある。
 なんてことを、柄にも無く思ってしまった。差し出した俺の小指を、有るとは無しな力で握りしめられたら。
 そりゃ、娘は大きくなって、生意気なって、嫁に出して、結婚式で女房は号泣し、俺は向こうのお父さんといい感じで呑み倒しましたよ。呑み倒しましたよさ。ホント正直な話、名字が変わったぐらいで、娘は相変わらず娘で、小生意気に磨きがかかった以外は大差が無くて、盆暮れ正月、見慣れぬ男一人加えてテーブル囲むぐらいのテンションでした。嘘偽りなく。
 それがこれだ。
 別に娘婿は悪い男じゃないし、いっそ、病弱な一人娘を甘やかしすぎた感があるから、彼に対する罪悪感すらほんのり無くはないのだけど、ソレとコレは別。わかりやすく言うなら、命ってスゲェなぁと。ヒキガエル似にも関わらず。つまり、形を持った命ってのは、それだけで、ただただスゲェわけだ。
 このちっこいのが大きくなるんだよなぁ。二十と何年で自分似の命を産めるぐらいに大きくなったもんなぁ。俺、正真正銘じーさんになっちまったなぁ。



 その掌には11

「ね、ねえ、そこの、ロボットさん……」
 ボクが振り向くと、瀕死の少女が横たわっていた。
「ダイジョウブ? キュウキュウシャ、ヨビマスカ?」
「病院は、いいの。もう私、ダメだから……」
 少女は弱々しくボクに手を差し伸べる。
「お願い、握って……」

 SZ300。それが工業用ロボットであるボクに付けられた名前。
 指の関節が逆側にも曲がるため、L側でもR側でも物を優しく握ることができる。

「ありがとう……」
 ボクがL側で少女の手を握ると、彼女は安堵の表情を見せた。
「アタタカイ」
 手に設置された温度センサーが値の上昇を感知した瞬間、少女は全身から青白い光を放つ。
「ばいばい、優しいロボットさん……」
 轟音と共に、少女の体は消滅した。

「おい、SZ300! どうしてL側で握らないんだ!?」
 今日も親方の怒鳴り声が工場に響く。
 あの日からボクは、L側で物を握ったことはない。
「ゴメンナサイ。チョウシガ、ワルクテ」
「このポンコツが。修理する金もねえし、どうすっかな……」
 親方がその場を去ると、ボクはそっとL側に指を丸める。そうすると、あの時の少女のぬくもりを感じられるような気がした。



 その掌には12

 その掌には、裏がある。裏は、広大で、見晴らしが良く、犬が吠えており、何も隠すものがない風通しの良さを持っている。そして隠されている。閉じられた化石のように、目を閉じた宝石のように、未だ地球人に発見されない宇宙人を擁する惑星のように発見者から隠されている。目的とせずたまたま見付けた者には「非発見者」のラベルが貼られ、広々とした見晴らしいの良い場所にしまい込まれる。そこでラベルは貼り替えられ、「犬の飼い主」となる。犬は歩いており、隠れようのない場所で何かを見付けて吠える。私は作り過ぎたラベルを持て余しており、男は暇を持て余している。手品をすると言って私から借りた硬貨を握り締め、消した後、出すことができなかった。犬が再びさっきよりも近くで鳴き、財布から別の百円を出すこともなく、男はそそくさと行ってしまった。私も同じ方向へ向かったが、男はもう見えなかった。



 その掌には13

「ねーちゃん、オレどうしてトカゲなの?」
 弟の唐突な質問に、私は宿題を片付ける手を止めた。
「は?」と聞き返すと、少女マンガを読んでいたはずの弟は、本を伏せて切実に訴えてくる。
「だって父ちゃんも母ちゃんも、ねーちゃんのことは名前で呼ぶだろ? なのになんでオレは“トカゲちゃん”なの? 納得いかねーよ」
「アンタ、生まれたときからそう呼ばれてたじゃない」
 なにをいまさら。
「あ、もしかして学校でからかわれたの?」
「う、うっさいな! ねーちゃんにはカンケーないだろ!?」
 図星か。我が弟ながらなんて分かりやすい。
 それにしても、ついこの前までオギャーと泣いていた弟が体裁を気にするまでに育ったなんてなぁ……。
 しみじみ、彼の成長を感じていると、階下のリビングから母親の声が響いた。
「亜沙胡ちゃーん、トカゲちゃーん! ごはんよー!!」
「「はーい」」
 ほらな? と、弟が表情で呼びかけてくる。
 だから私も、ひょい、と肩をすくめてみせた。
「そんなに気になるなら、両手を広げてググってみなさい」



 その掌には14

その掌には
ダンゴムシじっとみている子の宇宙ひとにぎり。



 その掌には15

 路地を歩いてると四つ角から突然、身長20センチ程の小人が飛び出してきた。よく見ると見覚えのある顔だ。内森道吾じゃないか・・・。コイツは俺を虐めている連中の首魁だ。何で小人に、と思ったが迷う事なく掌で摑むとムギュッと握り締めた。「おい、内森。何で小人になったか知らんけれど今までよくも俺を虐めやがって。握り殺して、ペットのニシキヘビのルナちゃんの腹に葬ってやるわ」ギリギリと内田を握り殺してゆくと内田が不適な面構えで「おい、秋岡のウンコ野郎!よく、俺の掌を見てみろ!」そう言うと内田はゆっくり掌を開き始めた。よく目を凝らして見ると何とそこには俺のカノジョの青家早苗がいた。内田は20センチ、早苗は4センチ程の小人。小人が小人を握っている。俺はやや服の着崩れた早苗に訳を尋ねようとすると早苗は徐に口を開き始めた。「秋岡くん実は実はね・・・」そう言うと3ミリ程の掌をゆっくりと開き始めた・・・。



 その掌には16

 恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量大数にいたっては、10の68乗。釈迦無二の掌は、かくも広大なり。
それに比べれば、たったの10の19乗バイトの容量で十分だ。10エクサバイト。5年以内には掌に収まるサイズになろう。
それだけのひらがな文字列を登録して公開する。著作権を主張して。この文字列のどれかを全く使わない作品なんて作る事は不可能だ。すべて掌の上。



 その掌には17

左の手を開いてちょうだい。
あなたの薬指の付け根に、*が刻まれているでしょう。そこが、あなたの家なの。そして、*の隣の太くてまっすぐな線が、わたし達が今いるU通りになるわ。
まず、家を出て、U通りを左に進んでいくの。
少し進むと、U通りがK通りと交差しているけれど、ここでは曲がっちゃだめ。横断歩道を渡ってまっすぐに進んでちょうだい。
その先では今度はT通りが交差しているわ。掌でいえば、ちょうど真ん中を通るこの線ね。今度はこの交差点を右に曲がるの。
T通りをまっすぐ進んでいくと、斜めに交差するS通りがあるから、今度は左に曲がって。後戻りするように感じるかもしれないけれど、それは最初だけ。S通りは緩やかなカーブを描いていて、決して後戻りはしないわ。
S通りは、これまでよりも長く歩くことになるわ。そして、ちょっと歩き疲れた頃に道が二股にわかれているの。ここでは右に進んでちょうだい。すぐに目的地が見えてくるわ。
掌では、分かれ道のすぐそばに♯があるのがわかるわね。
ここが、あなたが今日から通う小学校よ。
ね、掌を見れば、家と学校のつながりがいつでも見られるの。
これで、もう道に迷わないわね。



 その掌には18

 忘れられない飴玉がある。

 小学一年生の二学期の始業式だった。友達と三人で下校中に道端に落ちていた一円玉を拾った。当時、信号を渡る時に手を挙げていたくらい素直だった私たちは一円玉を交番へ届けた。
「君たち偉いね、ありがとう」
 一円玉を受け取ったお巡りさんからいくつか質問された。
「あんたたち、手を出しな」
 質問が終わると隣にいたお巡りさんの奥さんが声を掛けてきた。手を差し出すと、奥さんは私たちの掌に二個ずつ飴玉を落としていった。
「ごほうびね」
 一見怖そうに見える奥さんはにっこりほほ笑んだ。
「ありがとうございます!」
 交番を出た私たちが興奮して帰ったのは言うまでもない。一円玉が六個の飴玉に変化したのだから。なんていいおばさんなのだろう。良いことをすると自分にも良いことが起きるのだと無邪気に喜んだ。
 振り返れば一円玉を交番に届けるなど、そのまま追い返されてもおかしくない行為である。それを馬鹿にするどころか、行動を評価してもらえたというのは幸せなことであった。
 飴玉はその日のうちに食べてなくなってしまったが、飴玉という媒体を通じてもらった奥さんの優しさは今でも掌の中に残っているのである。



 その掌には19

〈ヒャッホー! どうだ!〉
スティーヴから無線が入る。

下を覗くと、トラックが非常ドアに横付けされている。
「よくやった、スティーヴ。今からそっちへ向かう。これでどうにか抜け出せそうだ」
助かった。
1階バリケードも時間の問題だった。

俺は、持てるだけの装備を詰め込んで、階段を下りる。
途中、ジェシカとマイクが合流する。
「無事か?」
「ええ、なんともないわ。・・・成功したのね?」
「ああ、ヤツならやってくれると思ってたぜ」

非常ドアを開け、俺たちはトラックへ飛び乗る。
「スティーヴがいないわ!」
「くそ! 仕方がねえ、とにかくここからズラかろぜ!」
マイクが叫ぶ。
感傷に浸ってる時間はない。

だが・・・。
「どうした? 早く出せよ!」
「故障したの?」

「そうじゃない! トラックのキーが見当たらないんだ!」
「なんだって? 足元に落ちてるんじゃねえのか? よく探せ!」
「ない!」

「見て! キーはスティーヴが持ってるわ!」
ジェシカが窓の外を指差す。
「・・・あんな所に」

スティーヴの掌には、確かにキーが握られている。
だが、その腕は引きちぎられ、群がるゾンビどもに貪り食われている。

「・・・くそ」
ゾンビどもが俺たちに気づき、群れで襲いかかってくる。



 その掌には20

 左舷デッキから島影一つない大海原に、握った拳を突き出して彼が言う。
 「ここには何が入っていると思う?」
 わたしがきょとんとしていると、彼は続ける。
 「世界」
 「またまた」
 おどけてはみたものの、そこに世界が入っていないとも断言できない。風を受けてはためく袖。その先の、程よく骨張った美しい拳を見ていると、「世界」の重みに耐えかねてこの大きな客船が左に傾いでいくような錯覚を覚える。
 「じゃあ、それを見せて」
 ようやく私は口を開く。口にしてみて思う、それはわたしの最後の望み、最大の願い。それが叶えば、わたしは、わたしたちは、決して陸地にたどり着くことのないこの世界で、漂いながら生きていける。
 彼がおもむろにその拳を開く。
 「ほら、これ」
 もちろん、見事なまでにそこには何もない。開いた掌の上の何もないもの、それが何もない海の上に、風に乗って撒き散らされて行く。
 世界は風に消えた。そこからわたしたちはもう一度世界をやり直す。これまでになかったやり方で。



 その掌には21

「ようこそ、腕ふしぎ逆十字固め探偵団へ」
 案内された応接室のソファに腰を下ろすと、私を挟んで、大男がふたり同じソファに座った。「あの……」 左右からぐいぐいと押される。
「はじめまして、わたしがアームロックチェア探偵です」 右の男が元気よく話しはじめる。「そして逆側がターンテーブル探偵!」
「どうも、事件の話はすでに聞いていますので」 左の男が腕をふると、事件ファイルが目の前にひろがった。
「そして、犯人は被害者の夫です!!」 右の男が断言した。
「あ、義兄がですか」 たしかに赤い糸を使って絞め殺されたお姉ちゃんのそばにいた義兄がいちばん怪しいけど、でも、「でも、義兄に寝室の鍵をかけることは不可能でした」
 鍵は二つ。一つは部屋の外で、もう一つはお姉ちゃんの手の甲側にのりで貼りつ「愛です!」けてあった。「愛? いえ、とにかく、鍵を壊して扉を壊して中に入ったときには、もう、接着は乾いていて、時間を考えれば、その鍵が使われたとは思えません」
「そう、実は」 左の男が続ける。「そのとき、犯人はただ内側から扉が開かないように押さえていただけなのです。こうやって」そう言って、私の頬をぐいぐい掌で押してくる。無理無理。私たちだって散々、扉を叩いたり引っ張ったりしたのだ。「あ、わたしだって、出来ますから!」



 その掌には22

はあ、初対面だとどうにも話が続きませんね。こういう時って質問を沢山して間を繋ぐのかな普通。でも、情報を根掘り葉掘り引き出そうとしてるみたいで僕はあまり好きじゃないな。
 かといって自分の事ばかり話すのも子供みたいだし……。
 ああ、ちょうどいい。僕の友達の話をしましょう。変わった奴なんですよ。龍之介っていうんですけどね、あだ名は芥川です。まあ僕しか使ってませんけど。
 それでその芥川、会う度に握手をするんです。もう会う度。僕だけではありません、目上も目下も初対面の人とだって。一日一回とは限りません。会った拍子、去り際、とにかく握手です。僕なんか一日で六回握手した事もあります。
 誰とでも握手する、綺麗な人の妻なんかでも、或いはエレベーターで乗り合わせた老人とも、少しでも縁があれば芥川の手が出ます。
誰とでも握手するその掌はどことなく不埒な物に思えました。
でもこの前見たんです。あいつ握手してすぐトイレに行ったかと思ったら石鹸で手を洗い出して。むしろ不埒であって欲しかったな、なんて思ったり思わなかったり。
まあそんな変な奴が居るんですよ。  ところでこれも何かの縁ですし握手でもしませんか? 芥川に因んで



 その掌には23

その掌には眩しい光。アイコトバと共に全身で投げつければ、どんな相手だって吹き飛ばすことができる。ふざけた仙人の生み出したものにしてはなかなかの優れもの。簡単に手に入れられるものと思っていたのに、何が足りないのか私の掌にはあの光は浮かんでは来ない。金ならいくらでもあるのに、金では手に入らないのだ。手に入らないと思えば思うほど、ほしくなるのが世の常で。とうとう手首から先ごと全部、頂いて来てしまった。滴り落ちる血など構いはしないし、あいつの強さも大したことはなかった。ああ、やはり。あの光はいくら捜しても浮かんでは来ない。私のものになってはくれないのか。私は強さを手に入れることはできないのか。



 その掌には24

 遠く地平線の先に街の灯が見える。広がる暗闇は明るければ赤茶けた大地で、深く刻まれた渓谷に居を構える老婆がいる。
 みすぼらしい老婆は、かつて瑞々しい娘だった。夢を見て、幸せを探し、伴侶を欲しがって街から旅立った。広大な世界は、けれど決して彼女に優しくはなかった。夢は儚く消え、幸せは見つからず、気付いたときには独り、白髪と皺だらけの姿になっていた。世界が優しくないのは彼女に対してに限ったことではなかったが、彼女は一度しか彼女として生きられない。いまさら戻ることもできず、ここで風に溶けよう、そう小さく決めていた。この夜、空には零れそうな光を湛えた満月があった。あまりの明るさに星たちは存在を潜めていた。
 老婆は屈んで渓流に手を浸した。乾いた土地ではたいそう頼りない水。川面には月の影が揺らいでいる。冷たい月を掬い上げ、顔を洗う。嗚咽が漏れ、老婆は顔を手で覆ったまま動かない。老婆がしばらくそのままでいると突然流れは水嵩を増し、その勢いは老婆と老婆に関する全てをきれいさっぱり洗い流してしまった。
 街で暮らす人は誰も知らないこと。今夜もまた、旅立つ娘がいる。握り締めた希望の刃に血を流しながら。



 その掌には25

 祖母の四十九日の法要が終わった直後から祖父の様子がおかしい。口を覆って独り言を呟いているのだと思っていたが、どうやら掌に語りかけているようだ。両親も姉も気づいているが何事も無かったかのように笑顔で暮らしている。大人になりきれない私だけが祖父を気にしていた。
「むかし、婆さんもやっていたろ」
 縁側にいた祖父は、擂り鉢で擂った赤いものを左手の爪に乗せながら右の掌に話しかけていた。何をやっているのか訊ねると「鳳仙花の花弁を潰したもので爪を赤く染めている」と答えた。
 祖父がまた右手を口に運ぶので、咄嗟にその手首をつかみ掌を確かめる。すると、そこにはリアルな人間の耳が墨によって描かれていた。汗で少しばかり滲んでいる。ふと、居間のペンスタンドに目を向けるといつもそこにある筆ペンが無い。祖父が持ち出したのだとわかり私は冗談まじりで続ける。
「誰の耳? 耳なし芳一の、とか言わないでよ」
 すると祖父は目を細めながら「婆さんの」と答えた。
 祖父は私に構わず耳に語りかける。
「婆さんが爪に塗るとグミの実のようだった」
「笑うと鳳仙花みたいに赤くなる」
 祖父は自分の言葉に何かを思い出した様子でククッと笑った。掌に描かれた耳もそれに伴ってピクピク動いた。耳たぶは徐々に紅く花のように染まっていく。
 確かに笑っているのだ。その耳も、また。