500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第122回:最終電車


短さは蝶だ。短さは未来だ。

 最終電車1

 あと5分で終電らしい。
 会社を出て、携帯を開いた君ははたと気付く。
 走れば間に合うだろうか?それとも諦めてタクシーか、近くのビジホか。選択肢がずらずらと頭に上る。
 しかし、そのどれもがつまらない日々の延命に繋がるのだと思うと、いずれかを選ぶ事が急に億劫になった。
 君は選択肢を選ぶことなく同じリズムで歩を進める。
 どれを選ぼうと大した違いはない。なのになぜ選ばなければならないのだろう。君はそんなことを思った。君はもう何も選びたくない、とも思った。けれど、何も選ばない方法というのが君にはなかなか思いつかない。選択肢は消しても消しても新たに生まれてくるのだった。
 しかし、君は突然に思いつき、鞄を放り出した。
 最終電車に間に合えば、飛び込んで死んでやろう。間に合わなければ、この世にとどまろう、と。
 君はひどく愉快な気分で人生を決めるレースを走り出した。
 妙に鮮明に世界が見え始めた君の耳には、遠い車輪の音が聞こえていた。



 最終電車2

 昔よりはよっぽど良いが、いつの世も理不尽だ。今の世は殺人もなければ、自殺も出来ない。病死はないと報道されているが、無いはずはない。そこまでして良い世の中を保とうとする政府が、傲慢なような気がして仕方がない。
今や百年生きても若輩者と言われる始末。

 何日か前、政府の医療機関から封書が届いた。そこには、「最終電車、予約案内」が入っていた。そういう事か。自分で死への旅立ちの日を予約するのだ。そういえばこの頃、生活に飽きがきて、精神的に不安定だ。自殺される前に、予防線を張っているのか。人間の状態は、ちくいち、医療機関に送られているからな。
 俺も500歳になる。もう少し生きて見ようかと思っていたが、そろそろ潮時かもな。それに、太陽も弱く地上は寒い。食べ物は、栄養が計算された人工の商品を食べている。そうなると、昔に食べたジャンクな物が食べたくなる。ま、手に入らないが。

 何日か経ち、メールで「今日は、ご出発の日です。下記の時間に、お待ちしております」と朝、届いた。準備を終え、夜、医療機関の地下にある駅で待っていると電車が入ってきた。ドアが開き、そこには亡くなったはずの両親が笑顔で迎えに来ていた。



 最終電車3

駅のホームにスーツケースを持ったサラリーマンが立っていた。ふいに彼は左耳を下にしてケンケンを始めた。耳に水が入った時みたいだな、と思いながら眺めていると、今度は向かいのホームで、スーツのOLが首を傾け耳を下にしてケンケンを始めた。あっけにとられて見ていると、階段からにぎやかな声がして女子高校生のグループがホームにやってきた。すると、女子高生たちもそれぞれ首を傾けてケンケンを始める。気がつくと、向かいのホームのみんながみんな、こちらのホームのみんながみんな、駅員までが耳を下にしてケンケンをしている。自分もやらずにはいられなくなって右耳を下にしてケンケンをした。そこへ、いつもの電車が到着した。その時みんなの耳からいっせいにパァッと七色の光が飛び出して電車を虹色のリボンで彩った。ホームに拍手が巻き起こった。ああ、そういえばこの電車は今日で引退だったんだ、と妙に納得した。



 最終電車4

 行ってしまった電車をぼうっと見送ったまま、私は日々生活している。私の中では、まだあの電車はどこへも辿り着いていない。



 最終電車5

 まったく覚えがない訳でもないので、驚きはそうでもない。
 恨みを買うような生き方をしてきた。
 週末の環状線は滅多やたらと混んでいて、関係のない人が汚れてしまうのではないかなどということが妙に気がかりだ。刺されどころがよかったか、唸り声も出ない。うまいことやったものだ。力が抜ける。立っていられないかもしれない。誰かに寄り掛からざるを得なくなる。どうも、汚してしまいそうだ。
 あと、やり残したことがあるから、ほんの少しそれを悔いる。
 他にどうしようもない。
 ごとん、ごとん。と心臓が速度をゆるめ、掠れる意識が、底のない虚に運ばれ遠のく、明日始まることもない、紛れもない終わりである。
 喧しいはずなのに、何も聞こえない。
 駅員にも起こしてもらえない。
 これで、おしまい。
 無事を祈る。



 最終電車6

がたごとと通り過ぎてゆく最後の電車を見送りながら、腹立ち紛れに小石を蹴飛ばした。
ごろごろとジャガイモのような小石が、転がってゆく先を目で追う。川だ。
満天の星きらめく明るい夜だが、川の水面は闇のように暗い。
白い小石は光っているかのように明るく、川に落ちる様は、まるで闇への供物かのよう。

電車とともに、友がゆく。
ひとり取り残されて、ただ見送る。
ともに乗りたかった。いや、そうではない。
ともに乗ったとて、ただ不幸を増すだけのこと。

地上の川から天上の川へ。
川は線路となり、銀河をゆく汽車で——電車で、魂は最後の旅をする。そして、「銀河ステイション」そんなところにたどり着くのだという。

御伽噺かもしれない。
それでも——。
最終電車は車庫に入り、翌朝の始発電車となる。
時も、魂もめぐるのだから。
蹴った小石が、真実、供物になるといい。
ジャガイモになり、腹が満たされますように。
明かりとなり、ゆく先が照らされますように。
次の人生ではどうかもっと幸せに。
川面を見つめながら、そんなことを願う。

どうあがいても、己もいつか、あれに乗る。
だから、今は。
日々、願いを込めて小石を蹴ろう。
最終電車が僕の目の前でとまる、その日まで。



 最終電車7

 星闇のなかを時間通りに1両編成が来る。夏期講習を終えた先輩が来る。
 小さな駅舎には僕が1人。「はしもとあきらさんですか」。疲れた顔でひとり降りてきた先輩に、ふざけて問う。
 「はしもとあきら、後れ馳せながら着任しました」
 先輩は陸軍式に横に広い敬礼をして、微笑んだ。
 合宿前まで徒歩15分。その間に先輩には話してもらおう。よしなしことやすねごとも、聞いてあげよう。流星群の出現は夜半だ。



 最終電車8

 間もなく電気の絶える地から、動かない荷を積んで、わたしは行けるところへ進む。



 最終電車9

 夜との摩擦で窓ガラスは熱を帯びる。
 白く滲んだ車内の景色が流れていく。



 最終電車10

逃げるように駆け込んだ光の中へ、このまま夜のはしっこまで運んでくれればいいんだ。



 最終電車11

 眠らない街の地下には、幾つもの駅が埋まっている。終夜運行の電車が、それを首飾りのように綴ってまわる。私が居る駅も、その珠の一つだ。
 列車の尾灯が小さく消え、巻き上げられた紙屑が落ち着くと、いつもの静寂が戻ってくる。向かいのホームに待ち厭いた顔が間遠に並ぶのも、見慣れてしまった風景だ。
「アナウンスが聞こえないねぇ」
 隣の男は、相変わらず不思議そうな口調だ。
「そうですか?」
 気のない相づちを打って、先を促す。
「そうですよ」
 水を向けられたのが嬉しいのか、声が弾んでいる。「注意していないと、乗り損ねてしまいますからね。聞き逃しちゃだめですよ」
「どの電車を……待っているんですか」
「今日最後の電車です」
 ご存じですか。最終だけは、地上の車庫に戻るんですよ。その終着駅に用があるんです。
 男の返事は、諳んじた通りだった。
「早く来るといいですね」
「いやいや、時間は正確でなくちゃ。お、また通過列車だ」
 先触れの風が体を通り過ぎる。揺れもしない髪を押さえてみる。
 轟音と共に、目映い光の中の生者が通り過ぎて行く。切れ切れに男の古めかしい背広が映ったが、廃駅に佇む亡者など珍しくもないのだろう。目をやる者はなかった。



 最終電車12

甲子園が延長12回までいって、最終電車に乗りそこなった。そんな金曜日。かなんなぁ。タクシーで帰れるような身分やない。そんなことしたら、月曜から、しばらく昼飯抜きになるがな。明日は休みやねんから、とりあえず漫画喫茶で朝を待とう。歩きながらスマホでツイッター覗いたら、乗るはずやった最終電車が脱線して死者が十六名ってタイムラインに流れとる。うわー、あのとき、鳥谷が同点タイムリー打たんかったら、ヤバかったんやぁ。クワバラ、クワバラ、桑原和男。はっ、男になってるがな、ウチ。あっ、彼氏からDMや。「浮気してへんか?」アイツ、最近、仕事が忙しいからいうて、ウチのことほったらかしやから、ちょっと脅かしといたろ。返信、返信♪「ゴメン。一人で居酒屋で飲んでたら、途中で意識がなくなって、今はカッパみたいなハゲのオッチャンの腕枕で寝てるねん。テヘペロ」おっ、即、返信来た。「なんでやねんっ」ウチも返信。「心配した?」また即返信。「無事で良かった。愛してる。」もお、ほんまに、男はアホやなぁ。



 最終電車13

 まどろみかけては泣き叫ぶ、幼い息子の汗の甘さを、日差し香る毛布で包んでやる。
 蹴飛ばされたおもちゃ箱の中、超合金ロボットがジーンガシャンと抗議する。

 眠りと死とは違うのに、息子は毎晩、傷ついた勇者の如く睡魔と戦い抜こうとする。 夢路へ羽ばたく白い翼は、お前の背には生えぬのか。 眠りの旅路を望むのは、寝る暇のない母ばかり。 子守の歌の優しさに、愚痴やら自棄やら織り交ぜて。 


 勇者よ、勇者よ。
 疾く天使に戻り給え。


 半開きの小さな口元から漏れる呼吸が次第に深まる。 ああ、咲きかけの花弁のように綻んで来る指先。 天使よ天使よ天使よ。
 ふとその指の隙間から、紺色のおもちゃが転げ出し、絨毯の上をジルジルと進んだ。

 ミニプラの電車は息子のお気に入り。 なるほど、今夜は飛べないこの子をキミが夢の国まで送り届けてくれたのか。
 お疲れ様の車庫入りだ。 おもちゃ箱からロボットが、おかえりガシャーンとお出迎え。



 最終電車14

20年前は、まだ見習い中で、日々だし巻き玉子の修行に明け暮れていましたね。
修行では玉子を使いません。フライパンにお手拭きを敷いて、それを丸めていくのです。
親方に本物の卵を使っていいと言われた時は、涙が出ましたよ。

「お前もやっと、だし巻きが一人前にできるようになったな。今日は田中さんが、お孫さんを連れて来るから、最終試験だと思って、ご馳走してやれ」と、親方が言ってくれたんです。
夕方になって、常連の田中さんがお孫さんと嬉しそうに店に来られました。
私は、緊張と興奮で、だし巻き玉子を作る手が、ガクガク震えました。

親方がだし巻き玉子の断面を確認して、静かに頷くと、「最終試験、合格だな」と言ってお孫さんに持っていきました。

そしたら、そのだし巻き玉子を見て、「おじいちゃん、これ電車みたいだ! 中央線で見たんだ。これと同じ黄色い電車だよ! 美味しい!」と言って、口いっぱいに嬉しそうに頬張って笑ったんです。
「おお、そうかそうか」と、田中さんも笑いました。
そんな幸せそうな二人の会話を私は今でも忘れませんよ。

あなたも立派になられましたね。
でも、あの時の笑顔とちっとも変わりませんよ。

さあどうぞ、だし巻きです。



 最終電車15

 どうしましょ。どうしましょ。どうしましょ!
 まるで自分が日本語不自由で残念な人みたい。事実を並べれば単純な話。自慢じゃないけど、若かりし頃ならちょいちょいあった話ですよ。わたしにだって。バブルだったし。でも、二十代のわたしじゃなくて、今、この五十代のわたしにそんなことあると思う? 普通。ワインも食事もおいしかったけど、まさかそんなオプション。十年以上ぶりだよ!?
 あの子、いくつだっけ? 新卒研修終わってすぐウチの部配属だから二十代後半とか? ヤバいでしょ。それ。両親のが近いでしょ。世代が。ジェネレーションギャップ。
 体の線とか弛んじゃったけど、マンションのローンを繰り上げ返済しきって、服も靴も我慢せず買えて、行きつけのバーには呑み友達がいて、このまま死んでもつまんない人生じゃなかったよなぁ。なんて否定系で肯定できるけど、まさかこの期に及んで車中堂々とは!
 もしかして、これがラストチャンス? けど、酔った勢いでしょ? たぶん。混んでたし。でも、視線逸らさなかったし。でも、忘れてしまえば……キスのひとつでオバサン動揺させる二十代侮れん!
 ダメだ。家着いたら呑み直そ。寝れる気しないや。



 最終電車16

 今日で最後か、と男は感慨深く思う。手には慣れ親しんだ硬い感触がある。男にとっての最終電車が発車する。
 次の駅は少し癖があるんだよな、としっかり頭の中でシミュレートする。案の定、急カーブがあった。どういう特徴があって、どんなポイントがあるのか、男は全て記憶していた。この速度で行けば、次の駅の到達時刻はどの程度になるか、すべて予測できていた。
 安定した速度で、安全に運転していく。その中で、男は最後の運転を終えた。
「これで、こいつとも最後だな」
 操作を終え、男は呟く。
 電源を切り、旧式のゲーム機と電車運転のシミュレーションゲームをダンボールに詰め込んだ。
 全て、仮想の世界だ。机の上に広げた採用通知書に目を落とした。
 ゲームでは最終電車だが、男はまだスタートラインに立ったに過ぎない。いずれ一人前になって、本物を運転してやるのだ。

 人生のレールは続いていく。



 最終電車17

「トンネル、長いですね」
 隣に座っているサラリーマンが話し掛けてきた。
「トンネル、長いですね」
 隣に座っているサラリーマンが話し掛けてきた。
「トンネル、長いですね」
 隣に座っているサラリーマンが話し掛けてきた。
「トンネル、長いですね」
 隣に座っているサラリーマンが話し掛けてきた。
「トンネル、長いですね」
 隣に座っているサラリーマンが話し掛けてきた。
「まるで合わせ鏡を抜けているようです」
 そう返してみる。終電は次だが、どうなっているのだろう。
「トンネル、長いですね」
 隣に座っているサラリーマンはやっぱり、話し掛けてくる。



 最終電車18

 流れる線路に乗っかって、電車は終点をめざす。
 ガタンゴトンとは音たてず、スススイっと進む。
 乗客は皆、顔がないか、あっても半分しか見えない。
 ツイストを踊る黒い箱。
 悪と陰から逃げてきた口。
 ブランコ乗りを降りた女。
 さくらんぼを頬張る童。
 リスっぽい猿。
 迷子になった道しるべ。
 荒城調の工場長。
 誰が為に打つ太鼓打ち。
 触れれば斬れる八分音符。
 それを啄もうと窺う手負いのハミングバード。
 夢見がちな獏。
 そして、新しい朝。
 それぞれにきっとワケがある。
 必然はなくとも理由はある。
 希望でも吉報でもない切符に依りかかっている。
 と不意に電車は動きを止め、扉がひらきアナウンスが流れる。
(外をごらんください)
 見れば星のない夜である。
 夜である。
 夜ばかりである。
 星のない夜である。
 無言だった誰もが一斉に口をひらく。
「降ります」

 再び電車は進み始める。
 車内に残るのは私ばかりで、名残をたぐり寄せていると、
(まもなく車庫に入ります)
 さっきのが終点だったらしい。
 ふと窓外を見れば、朝である。
 一切が空想じみた朝である。



 最終電車19

 もう二度と使われることのない架線やレールが磨き上げられたような光沢を放ちつづけているのは、惜別の情や復活への願いからではなく、悔恨の念や置き去られた怨みからだと考えられている。とはいえそう考えているのはその外にいる誰かである。なぜならその場所では時間が方向感を失って静止し、凍り付いており、つまりそれが"regret"ということなのだが、その中にあっては考えることや判断すること、すなわちすべての思索的行為が不可能なのだ。"regret"とはそのような形式での永遠であり、完全に終わったまま、終わってしまった時間を永遠に保存しつづける。いつ最終の便が行ってしまったのかは問題ではない。それは行ってしまい、永遠に帰らないのだ。



 最終電車20

 中央管制室。電源のレバーに手をかけたまま、迷っている。止めなければならない。できるだけ早く。ダイヤは始発から既に乱れている。いつ止めようと混乱の大小はそう変わらないだろう。けれど、迷っている。
 愚行権というものがある。<ハジマリ発オシマイ行>に乗る自由だ。もちろん乗らない自由もある。乗らないほうが賢く正しいだろう。しかし、正しくないことを選ぶのは人から責められることでもなく、第一、客車はいつもそれなりの乗客で埋まっている。こちらにしてみれば、正しくないことを許容することが正しいことだ。正しいことだった。今までは。
 止めると決めたのは上だ。私ではない。終わらせることが正しいことだ。罪悪感を背負う必要はない。止めなければ私に処分が下る。ためらう理由はない。強く目を瞬き、震える手に力を込め、息を止めて勢いよくレバーを下ろすと一瞬の暗転。非常用電源に切り替わる。
 たった今発車したものまでは終点まで行く手筈になっている。愚者は運ぶ。予定されていた緊急事態にあらかじめ決まっていた対応をしていると、ふと迷っていた理由に気付く。ああ、本当は私も乗りたかったんだ。帰れない終着駅に行きたかったんだ。



 最終電車21

 お目当てのローカル線に乗り換えるため山間の駅で降りる。一日五往復しか走らない、炭鉱のある街へと続く路線。その線路の直上には、一本の電線が線路に沿って延びていた。
「ほお、あんたも珍しいかね? その電線が」
「ええ、見るのは初めてです。僕は都会育ちですから」
 こんな風景、もう都会では見ることはできない。
 
 二〇五×年。電磁波に対して極端に耐性の低い赤ちゃんが生まれはじめた。
 子供達の命を守るため、無線方式の通信インフラは廃止。電磁波を垂れ流す電車も、都会からだんだんと姿を消していった。
 電車の運行が許されたのは、電磁波密度の低い田舎の路線のみ。しかし全廃は時間の問題だった。

「ここの電車も、来年には廃止になるんですよね?」
「そうみたいじゃの」
 ゴトンゴトンと駅に近づいて来る電車。それと共に胸がなんだか苦しくなってくる。
「どうしたんかね? 顔が真っ青じゃぞ」
「だ、大丈夫です……」
 必死に平静を装う。だってずっと待ち望んでいた電車体験だから。こんな僕達のために廃止されるなんて本当に残念だから。
 小さな電車はゆっくりと出発する。シートに深く腰かけた僕は、意識を失うまでの間、揺れる景色を瞳に焼き付けていた。



 最終電車22

例えば、同じ車窓に映っているあどけない寝顔を無防備に晒す美しい少女が終点まで乗り過ごしてしまったら、彼女はどんなにか困ることだろう。
むくむくと膨れ上がる嫉妬心に気が狂いそうになる。
終点の無人駅で、一晩中身を縮め凍えるのだろうか。山の裾野だ、野犬に襲われるかもしれない。
震える萎びた手でポーチの中から赤い目薬を取りだし、少女の真っ赤な唇に差し入れた。



 最終電車23

 それに乗りそびれたものはもう二度と陸には戻れないのだという。電車は生まれる前から動いているから、私たちはもう手遅れだ。
 線路は海抜50メートルほどの高さで、この星にぐるぐると巻き付くように建てられている。果てはない。駅もない。いつまでも走り続けられるがどこにもたどり着かない。
 車体の幅は30メートルほどもあり、ゆっくりゆっくり進んでいく。
 特権階級という名の旧人類は、温暖化への対策と進化という名目で、私たちをさっさと水陸両棲に改造したくせに、自分やお気に入りの生き物たちは、そのままの姿で残したがった。
 長い長い電車のなかにはそんな彼らのコレクションが乗っている。再び陸が顔を出すまで、異常気象を避けながら、ゆっくりと走り続けるのだ。
 電車が通りすぎるとき、人工の浮き島から、海の中から、私たちはじっとそれを見上げる。
 空を映すピカピカの車体、ソーラーパネル、強化ガラスに浮かぶ幾多の生き物のシルエット。電車はとても奇妙で綺麗だ。
 時々何かが落ちてくる。生きていれば浮き島に、そうでなければ、魚たちがきれいにしたあと、骨だけを浅瀬に積んでいく。いつか陸地が現れたとき、高い山のてっぺんに、白い砂浜ができるに違いない。



 最終電車24

K0時3分発の下り最終電車に、その男はいつも乗ってきた。彼がどこの誰なのかは知らないが、必ずH駅で降りることだけは知っていた。
彼は深夜だというのに疲れた顔もせず、いつも背筋を伸ばして座席に座り、向かいの窓の外を眺めていた。
ところが、その日は違った。
出発間際に飛び乗って来た彼はずいぶん酔っていた。顔は赤く、目の焦点も定まらない。そして、座席に座るや否やだらしなく眠り込んでしまった。
電車が動いてもそのままで、H駅が近づいても目覚めない。何となく捨て置けなくて、H駅到着直前にゆすり起こしてやった。
目覚めた彼は状況を飲み込めていない様子だったが、自分の降りる駅だと判るや否や立ち上がり、礼も言わずに飛び出していった。
彼が見えなくなった後、電車の扉が閉まる。
窓ガラスには、私と彼が映っている。
座席には彼はもういない。しかし、正面のガラスには私と、眠る彼が映っている。
どうやら、彼が置き忘れてしまったらしい。
どうするべきか考えているうちに私が降りる駅に着いたので、仕方なくそのまま電車から降りた。去りゆく電車には、彼の虚像だけが残された。
それ以降、彼の虚像も、彼本人も、その姿を見ることは無い。